九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

巴と山吹 相模三浦一族とその周辺史より

2022-04-05 | 木曽義仲 バラバラ情報

https://www.google.co.jp/books/edition/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E4%B8%89%E6%B5%A6%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E5%8F%B2/MFJI9SU6RaAC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%80%80%E7%BE%A9%E6%BE%84%E3%80%80%E7%BE%A9%E6%9D%91%E3%80%80%E5%92%8C%E7%94%B0&pg=PP319&printsec=frontcover

 

上記の内部検索で「御前」と入力すると、義仲の周辺系図も出てくる。

その系図によると重隆の養君 義賢 となっている。

 

絶世の美男!?坂東武者・源義賢を不幸にした血統と美貌の謎

という記事が面白かった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/fbac532b2b30409655283f2c43e958b91980b76c?page=1

秩父重隆は河越氏の祖ともいわれているそうなので、河越重頼の娘が義経の妻となっていることからも、

その後、義仲・義経の渦に巻き込まれていくこととなる。

頼朝に振り回されている一族と思う。

 

さて義仲に兄【仲家】がいて、源頼政の養子となっている。以仁王の乱の際に亡くなっている。

その息が二人いた。仲光・仲賢である。仲光は父と共に歿しているのだが、仲賢はどうなったのであろうか。

文書があるか調べてみたが、南北朝時代の仲賢しか出てこなかった。残念。

 

まだまだ分かっていないことがたくさん埋もれている、ようである。

 

 

 

 

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石黒党と湯浅党 / 関東下知状を読む

2021-04-24 | 木曽義仲 バラバラ情報

この本の中に「弘瀬郷」が出てくる。

http://www.katsurabook.com/booklist/1061/

 

以前この桂書房さんのページの下にある青い本「石黒党と湯浅党」を購入してあったので気になって調べてみた。

鎌倉時代になってからの石黒氏と石黒荘

『武士としての石黒氏の名が多くの文献から消え、新し荘園の管理者としての「藤原氏」が登場してきた。』

この本によると、石黒一族の中で藤原姓を名乗った者と見て間違いないとある。

 

登場するのは…(上記の本からまとめると)

藤原定直(源義仲からの安堵の下文を持っている)弘瀬郷の開拓領主 下使識

頼朝は義仲を滅ぼしたのち「鎌倉殿勧農使」として比企朝宗を越中に派遣する 元暦元年(1184年)

定直は建仁三年(1203年)比企一族で当時越中国守護だったとみられる大田朝季から「地頭沙汰」を安堵

「比企能員の変」により比企一族が北条氏に滅ぼされ、越中にも動揺が起きた。大田側に付いたと見られた人物は招集され罪を問われた。定直にも嫌疑がかけられたが「私は弘瀬郷下使識に過ぎません」と弁明に務め科なし、となる。

元久元年(1204年)定直は晴れて弘瀬郷地頭と認められる。元久二年には公文識も認められる。

===*===

さて、比企氏の一族の中に「大田朝季」

http://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/37/23_9.pdf

上記の小論によると、藤原秀郷流の中から‥かもしれないと思う。

 

https://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/%E5%BC%98%E7%80%AC

「藤原利仁の子孫の加賀の林氏と婚姻して、林氏の名跡を継いで以後、林氏の「藤原氏」を名乗る様になる。」とあるので、其の藤原氏が藤原定直の系かもしれないとも思う。

 

ここは深堀はしない。

 

大和国広瀬大社とは関係がないかもしれない。一応memoに留めておこうと思う。

 

 

 

 

 

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木曽義仲の周辺を調べてみる その2.源定宗~重宗~重実~重定(貞)

2016-07-25 | 木曽義仲 バラバラ情報
義仲の周辺で、九里と関係があったのでは…と気になっている人が何人かいる。

wikipediaによると、

【源 義平】(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の長男。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女または三浦義明の娘であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%B9%B3

その中の「逃避行」の欄に、近江比牟礼庄の源重定の兄である「源重成」の名前が一族として挙がっている。源義朝の側近として知られる近江守源重成だそうである。
兄弟が同じ側に立っているとは限らないのだが、この周辺に生きていた事は、確かだ。

もう少し、調べてみると、

重成の父は、重実、祖父は重宗である。
重成の曽祖父は、定宗である。

定宗は、源満政の孫にあたる。
定宗の母は、藤原斉信の娘である。

【源重定(貞)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%87%8D%E8%B2%9E

角川地名=嘉元4歓喜光院領=承久3源重定を代官職に補佐=現近江八幡市市井町を中心とする地域か
【備考】  比牟礼神社あり・カ22661嘉元4昭慶門院領目録=歓喜光院領=近江国比牟禮庄=洞院前右府、大納言局(藤原為世女)

もしも比牟礼神社の代官が重定であったならば、80歳は過ぎていると思う。
長生きだったようなので、可能性はゼロではないと思う。



つぎに、義仲の兄である【源仲家】である。

【源 仲家(みなもと の なかいえ)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E5%AE%B6
平安時代末期の河内源氏の武将。八条院蔵人。帯刀先生・源義賢の嫡男。源義仲(木曾義仲)の異母兄。源頼朝・義経の従兄弟にあたる。

久寿2年(1155年)、父・義賢が大蔵合戦で甥の源義平に襲撃され戦死すると、父と共に大蔵にいた2歳の異母弟・駒王丸(義仲)は逃れて中原氏に庇護される。母と共に京にいたと思われる仲家は摂津源氏の源頼政に保護され、その養子となって京で成長した。朝廷の官職として八条院蔵人をつとめていた。ただし『平家物語』は六条院蔵人としている。

治承4年(1180年)5月、以仁王と養父・頼政による挙兵計画が露見して、仁和寺にこもった際に、嫡男の仲光とともに馳せ参じた>。のち以仁王らと奈良へ向かったが、5月17日、宇治平等院のあたりで平家の追討軍に追いつかれて仲光ともども戦死した。

前出の義平と仲家はいとこ同士であるが、大蔵合戦の時は、敵対関係にあったらしい。
以仁王と共に活動しているため、九里のことを知っている人かもしれず、気になっている。














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木曽義仲周辺を調べてみる。

2016-07-24 | 木曽義仲 バラバラ情報

コメントに「北陸宮」と「木曽義仲」と共に行動していた九里の先祖がいたという古老の口伝があった~という情報をいただいたので、その周辺をしらべてみたい。

先祖が江州中原氏となってはいるが、外記に多い中原氏でも、木曽に赤ん坊だった義仲を匿った兼遠の系でもないと思う。

しかし、そのあたりと江州【中原氏】との接点があったのだろうと思う。


以前書いた記事が、本当の事となるかもしれないので、慎重に進めなくては!(ドキドキ…)

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/f14a129edaae46d49ead0df5787479cd

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/0838ad751681bd213cf7a506129d8ee3

そして、富山県の南砺市五箇所に「九里」(くり)さんのお名前を見かけたとも書かれて有ったので、以前【田舎の2000年歴史ロマン】の24話越中における井口の記事とも重なり、ちょっとテンションが上がっている!

http://shokokuyugyou.com/inaka2000/inaka2000_24.html


http://pcpulab.mydns.jp/main/inokuchijyo.htm


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