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「二位法印尊長の娘」の息【忠廣】(新羅三郎とあるが…)

2024-12-12 | 九里バラバラ情報
前回の記事にも登場した下記の系図に成俊の兄にあたる「忠廣」に新羅三郎と記載があり、しかも母親が二位法印尊長の娘であったことが、とても気になった。

聞き覚えが或る【尊長】である。


尊長の父は一条能保である。
其の娘という事なので、尊長の義兄弟が「高能、信能、実雅、尊長(本人)、中院通方室、西園寺公経室、九条良経室 、後鳥羽天皇乳母大納言三位保子 」であり、尊長の娘から見ると叔父や叔母がゴージャスである。

藤原秀康や、熊野別当家の行忠らと上皇側として承久の乱で活躍していた、修験者としても力を持っていた尊長なのだそうである。(和歌山県史より)

wikipediaによると
『延暦寺の僧であったが、その智謀と武芸を認められ、後鳥羽上皇の側近となる。院近臣に加えられた尊長は法勝寺及び蓮華王院の執行に任ぜられ、長淵荘、宇土荘をはじめとする両寺の寺領の支配を任される。上皇の鎌倉幕府打倒計画には首謀者の一人として参加。承久3年(1221年)の承久の乱に当たっては、義兄弟ながら親幕府派の筆頭と目されていた西園寺公経父子の逮捕・監禁に当たるなど、上皇の片腕として行動する。幕府軍との戦闘においては、兄弟の一条信能とともに芋洗方面の守備に就くが、敗戦が明らかになると乱軍の中を脱出し行方不明となる。』

尊長の妻は藤原親信(坊門親信)の娘である。
尊長は1227年迄生きていたそうである。

一条能保は1147年生まれのため、尊長は1167年前後に生まれたと思われる。一条高能が1167年生である。義兄弟の実雅は1196年生なのでかなり幅があるが、仮ではあるが1167年前後と考え、上の系図の尊長の娘を1187年生と仮定すると、その息は1200年以降であろうと思う。

つまり、この系図内の【忠廣】は1200年前後に生まれた人物となるようである。成俊の母は尊長の娘とは限らないとは思う。成俊の註にだけ佐野養子と書かれている。

一条能保の家では、中原政経が働いていた。
尊重の娘のことと関係するかどうかは不明であるが、能保・高能が歿した後に『三左衛門事件』がおこり、一条能保に仕えていた後藤基清、中原政経、小野義成 が捕らえられている。
その時に、居心地が悪くなったであろうと思われるある人物が、佐野家に尊長の娘を託した、または子どもを託した可能性はないだろうか?

後藤氏も中原氏(久経と政経に血縁関係があったとすると)も、秀郷流である。佐野氏も秀郷流である。



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