江古田駅の北口から出かけます。すぐ近くに見えました、浅間神社です。
入口の傍には、こんな大きな立て看板が立っています。入って見ましょう。
ここの江古田浅間神社は、練馬区小竹町にある浅間神社で、創建は不詳ながら、江戸期には富士講の人々に崇敬され、富士山から持ち帰った溶岩で富士塚が作られ、江古田富士と呼ばれていたといいます。江古田富士は、江古田の富士塚として国重要文化財に指定されています。
戸後期には富士浅間社と呼ばれ、能満寺が別当であったそうです。社伝によると、承平元年(931)6月、夏山芽原浅間(当地)に雪が降り、この山がいかにも富士山に似ているので、村人が登ってみると御神体と思われる石を拝したことで富士の大神と崇め奉ってきたのに始まるということです。芽原浅間社とも呼ばれていました。江戸中期になると、盛んになった富士講の上板橋、中新井、下練馬の人々に崇敬され、富士の溶岩を持ち帰って富士塚が造られ、「江古田富士」呼ばれるようになったそうです。
境内にあるのは、「ねりまの名木」とされているケヤキの木です。
ここが富士塚に上る入口ですが、残念ながら上ることは出来ませんでした。調べたところ、
江古田の富士塚は、富士講の一派小竹丸祓講によって天保10年(1839)に築造されたものと考えられますが、一説には文化年間(1804~1818年)築造ともいわれています。高さ約8m、直径約30m、閏東大震災の時に損壊しましたが、その後復旧され、塚全体が富士の熔岩で覆われています。頂上の唐破風屋根のついた石祠は、天保10年に造立されたもので、他に経ヶ嶽・太郎坊・小御嶽神社の石碑や大天狗・小天狗・神猿などの石像もあり、元治2年(1865)の講碑、大正12年震災時の御神体修築の碑などが建っています。社殿の前には文化4年(1807)の石燈篭や文化9年(1812)の手手鉢なども残っています。都区内の富士塚の中では、大規模な部類に属し、庶民信仰の様相を示すものとして、昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定されました。富士塚は江戸近郊に50余りあったものの、完全な形で残っているのは、当社の富士塚と、小野手照崎神社の下谷坂本富士、豊島区高松富士浅間神社の高松富士、の3基のみで、いずれも国重要無形民俗文化財に指定されているといいます。
本殿に到着しました。お参りに来ている人もいます。
扁額には、このように「茅原浅間」とあります。
つづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます