ブラピとディアプリオが初共演して話題を呼んだ「ワンス•アポン•ア•タイム•イン•ハリウッド」(2019)という映画にはあまり興味を覚えない。 一応はアカデミー賞ノミネート作品だが、こういった長々のタイトルは殆どの審査員には嫌われそうだ。それに出来も何だか悪そうに思えた。多分、何の賞にも引っかからないとは思うが。
しかし、この映画の中に登場するブルース•リーの存在には、少しの違和感と奇怪な期待感を覚えた。予告を見たが、まるであのブルース•リーが生き返ったかの様な錯覚に襲われた。
この映画は、1969年にハリウッド女優シャロン•テートがカルト集団のチャールズ•マンソン•ファミリーに殺害された事件を、コミカル&ドキュメンチックに描いた作品だ。
実は、この金髪女優こそが巨匠ロマン•ポランスキー監督の妻だった事から、この事件は当時大きな反響と疑惑を呼んだ。
しかしそれ以上に奇怪なのは、何と当時ハリウッドでは全くの無名だったブルース•リーがテート殺害の容疑者の一人に名前が挙げられてたというのだ。
実際に、ロマン•ポランスキーから妻のテート殺しの疑いをかけられていたんです。
シャロン•テート殺害事件
一応、ブルース•リーのファンとしましては、リーとテート嬢の関係は少なからず知ってました。2人は仲がよく、中国人のリーに嫉妬したイカれた人種差別野郎の殺害だと、私めは勝手に思ってた程です。そうでなくとも、とても不可解な殺人事件でもあったんですが。
この殺人事件では、1969年にビバリーヒルズ北部のテート宅にて、シャロン•テートを含む5人が惨殺されました。
現場検証の結果、殺人犯のものと思われる角縁のメガネが発見された。そう、この眼鏡こそが”リー疑惑”のカギとなったんです。
当時テートの夫であった映画監督のポランスキーは、彼女の殺害を知った時はロンドンにいた。彼はすぐに帰国したが、その後も事件は解決しないまま数カ月が経ち、事件の事で頭が一杯になったと言います。
新妻テートのお腹の中には8ヶ月の子供がいたんですから、無理もないですがね。
以下、”ブルースリーの知られざる実話”から長々と抜粋です。
事件現場に残された問題のメガネについて知らされた後、ポランスキーはヴィゴール社のレンズ測定器を購入しました。
彼の回想録によれば、”捜査の手助けの為だった”と説明してますが、ブルースリーを疑ってたのは明らかですね。
一方、以前から友人であり、俳優そして武術家のブルースリーから護身術の指導を受けてたポランスキーは、事件後も1時間あたり1000ドル(約30万円)近くをも支払い、この超高額なレッスンを受け続けてました。
そうした中、レッスン中にリーが何気なく口にした言葉により、ポランスキーは”大量殺人を実行したのはリーではないか?”と疑念を抱く様になったんです。
今となっては、あの夜テート嬢らを殺した犯人はマンソンの信者たちだった事が明らかになってますが、当時は噂が噂を呼んだでしょうね。
ブルースリーに掛けられた疑惑
テートが、旦那のポランスキー監督にブルースリーを紹介したのは、1960年代の事。
それ以前に彼女がリーと知り合ったのは、映画「サイレンサー破壊部隊」(1968)の撮影現場の時で、キャストに空手を教えていたのがリーで、テートは当時演技の世界に足を踏み入れたばかりのリーとすぐに意気投合しました。
そこでポランスキーを交えた食事に誘い、夫には”あなた達2人は直ぐに仲良くなるわ”と伝えたそうです。
実際に2人はすぐに馬が合い、ポランスキーは個人的なカンフーインストラクターとしてリーを雇います。
しかしポランスキー夫妻がリーと友人関係を築いてから間もなくのタイミングで、テートは不可解にも殺害されたのだ。
リーは当時、1969年8月の大量殺人が起こった2人の自宅から比較的近くに住んでたのだ。あの夜、テートと一緒に殺された被害者の中には、リーとテートの友人でセレブのヘアスタイリストをしてたセブリングも含まれてた。
セブリングはリーの親友の一人で、彼のハリウッド進出をサポートした人物だったんです。
映画の中でタランティーノ監督は、事件の数時間前という状況のシーンで、リーとセブリングが一緒にトレーニングしている場面を描いている。
しかし実際には、事件当日にリーがテート宅のベネディクトキャニオンに行ったという話は噂に過ぎない。伝記作家ポーリーも”リーがその日にセブリングのレッスンをしたという証拠はない”と語っている。
ポーリーは、リーの配偶者であったリンダにも話を確認してるし、リーが指導していた顧客の記録をつけていた日誌には、その時期にセブリングを指導した記録はなかったそうだ。
しかし、さらに信じ難いストーリーが展開する。
この殺人事件から数カ月後、ブルースリーがポランスキーのカンフーレッスン中に、”最近、自分のメガネをどこかに置き忘れた”と語ったらしい。
この時ポランスキーは、事件現場のテート宅にあった”疑惑のメガネ”をすぐに思い浮かべました。
ポランスキーは、”君の以前のメガネは全然好きじゃなかったよ”と、リーにポーカーフェイスで伝え、”レッスンが終わったら新しいメガネをプレゼントさせてくれないか?”と提案しました。
”ポランスキーの個人的な知り合いで、一度に多くの人を殺傷できる身体的スキルを持っていたのはブルースリーだけでしたし、ブルースは彼の知る最も強い男性の一人でもあり、武器の扱いも心得ていましたから”と、前述のポーリーはポランスキーが疑ってもしょうがない裏付けを語る。
疑惑が晴れて
しかし、リーがメガネ技師に視力を伝えた時、ポランスキーは自らの疑いが事実無根であった事をすぐに理解した。そのレンズとリーの焦点距離は全く違ってたのだ。
この時点で彼は、リーへの疑いを晴らす事になるんですが、ポランスキーが”テート殺しの犯人はリーではないか?”と疑っていた事をリー本人に決して打ち明ける事はなかった。
やがてリーは、1973年7月に32歳の若さで亡くなる。リーの死後、10年以上経った1985年になって、ポランスキーは自らの回想録の中でこの話に関して、初めて詳細に語ったのだ。
以上、Esquire USからでした。
この件については、ポランスキーとタランティーノ監督との間で深い誤解はなかったんですが、奇妙な話でもありますね。
多分、タランティーノ監督も私が思ってた様に、テート殺人事件にブルースリーが一枚絡んでた方が、作品がより神秘的に映るんじゃないかと考えたんでしょうか?ドキュメント映画とてもコメディな要素は必要でしょうから。
因みに、リンダ夫人はこの話を聞かされた時、笑い転げたと言います。確かに、映画は所詮は作り物です。ドキュメントと言えどそれは同じですがね。
それにリンダ夫人もブルースリーが急死した時は、ある事ない事色々とパッシングされましたから、その当時を懐かしく思い出してたんでしょうか。
でも娘のシャノンさんは少し怒ってたみたいですよ。”何にも知らないくせに、一言知らせてくれれば真相を全て語ってやったのに”って。
この映画に関しては予告編しか見てませんが、ブルースリーの登場(復活)は一種のスパイス的な要素になってます。でも、これはこれでいいんじゃないでしょうか。
でも、もしブルースリーが殺人鬼マンソンと偶然にも居合わせたとしたら、テートは殺害されてたでしょうか?”アチョー”という怪鳥音と共にサイドキックでふっ飛ばされたでしょうか?
第二弾では、ブルースリーがマンソンをフルボッコにするシーンを見てみたいですね。
最後に
ブルースリーはハリウッドの有名な俳優に僅か1時間で数十万という超高額なレッスンを施してました。
というのも、ブルースリーは当時腰を強く痛めていて、格闘家としての生命は既に絶たれてたんです。
全米にカトー•カンフー道場を開くという壮大なプロジェクトもあったんですが、とても身体(腰)が持ちません。そこで、借金をしてまでハリウッドの高級住宅街に住んでたリーは、短時間で大きく稼げる仕事として選んだのが、著名人を相手にしたカンフーレッスンだった。
しかし、ハリウッドのど派手な世界を目の当りにし、彼はハリウッドを目指す様になったんです。
でも当時は人種差別が最も強かった時代。流石のリーですらハリウッドは夢のまた夢でした。弟子でありハリウッド俳優のジェームス•コバーンに何とか説得され、泣く泣くブルースリーは香港に舞い戻ります。
”ハリウッドスターになりたかったら香港に戻り映画の勉強をしろ!それからでも遅くはない。TVスターは才能を潰すだけだ”
このコバーンの言葉がなかったら、ブルースリーは香港の少年時代の様に、西海岸のチンピラで終わってたでしょうね。
リーはこの言葉を信じ、香港で才能を開花させます。この僅か2年後、ハリウッドに戻ってきたブルースは全くの別人になってました。
ハリウッド一大金を稼ぐ大スターになってたんです。そしてその数日後、「燃えよドラゴン」の完成を見る事なく、この世を去ります。
シャロン•テート殺害事件を思い出す度に、2人の運命のイタズラを考えさせられます。
ブルースリーがテート嬢のボディガードであったなら、2人の運命は逆転してたでしょうか?そして後のポランスキーの人生も変わってたでしょうか?
ブラピとディカプリオのコンビはまさにアホなタイムです(^^)
監督のタランティーノも結構なブルースリーのファンなんですよ。
ディカプリオじゃなくブルースリーをメインにしても良かったんに
良いタイトルですね。
この映画はシャロンテートやポランスキーではなく、ブルースリーを主役にした方がウケたんではないでしょうか。
ブラピもディカプリオもいまいち中途半端に思えましたし。