あるブログ友の記事に、”歩き過ぎはどうもよくないようだ”とあった。
健康を常に意識して、運動を怠りなくやってる人から見れば、歩くに過ぎる事はないと反論されるかもしれない。歩く事は老化防止の最高の運動なのだって。
しかし私の場合、歩き過ぎるとやはり腰に来る。腰に持病がある人は、運動には特に注意する必要がある。
確かに若い時は、頑張ろうと思わなくても無意識に頑張るもんだ。どんなにキツい事も嫌な事も悍ましい事も、数時間寝ればすっかりと忘れられた。だから若さは、尊くも短く脆いのだ。
努力は平気で嘘をつく?
そういう私も若い頃は、結構な頑張り屋で知られていた。しばし無茶をし過ぎるので友人からはよく注意された。
しかし今から思うと、若い頃にあんなに頑張らなかったら、無茶をしなかったら、かなり出世してた様にも思う。
お勉強も少し熱を入れ過ぎた為に、全く無駄な結果に終わった。必要最低限の勉強だけしてれば、結構良い大学に入れたと思う。
因みに私の経験から言えば、頑張っていい結果が出た試しがない。プラマイゼロならまだいいが、頑張ったその殆どがマイナスに転じた。
ホント洒落にならない人生だが。しかし通常は、頑張ればそれなりの結果は最低限出るものである。たとえ結果が出なくとも、自己満足とか踏ん切りとか開き直りとか、そういった二次元的なものに転嫁される筈だ。
しかし俺の場合、100%悪い方向に出る。勿論、頑張らないでダメになったケースもあるが、数え上げる程しかない。イヤ記憶にないかもだ。
先日の”真夜中訪問その16”でも、以前勤めてた職場の支店長の事を書いた。
私はよくお世話になってた支店長を信じ、お金を貸した。勿論、お金の貸し借りが悪い事は知ってはいた。でも本当に支店長は困ってたのだ。食うお金すらなかったし、免許証もなくお金を借りる事すら、携帯を買う事すらできなかったのだ。
俺は支店長の為に必死だった。しかし結果は悲惨だった。私一人が悪者にされただけだった。
これなんか、まだいい方だ。私が自分の事を語りたくないのは、そんな奇怪な運命のせいかもしれない。
継続は犠牲なり
日本人の悪い癖は、何でも頑張ればいい、何でも続ければいいと、先も見ずに安直に考えてる事だ。それに、努力と継続を信じ過ぎる所がある。”継続は力なり”という諺を聞くと、今でも寒気がする。
”苦あれば楽あり、楽あれば苦あり”が口癖だった小学校の時の先生がいた。ハッキリ言って馬鹿だと思った。田舎ではこんなレベルで先生になれる(笑)。
しかし日本人の中には、こういったフェイク系の諺を未だ信じてる輩が多い、イヤ多すぎる。まるで高齢者がサンタクロースを信じる様なもんだ。
その上、天敵がいなく島国で平和ボンボンの日本人は、健康に良いとされれば疑う事なく埋没する。TVショップを見ては、高価な健康機器や運動器具を買い漁る。バカ高い会員費払ってジムへ行く。お医者さんの言う事だって1から10まで信じる。せめてお医者さんの出身大学くらいは聞けってーの。
その上、努力は報われると本気で信じてる。しかし努力は報われないから尊いのだ。もし努力が報われるのなら、人類はとっくの昔に絶滅してるだろうよ。
それでも我らサピエンスは明日を信じ、頑張り続ける。”継続は力なり”は、日本人にとって天皇よりも偉大なのだ。
しかし、頑張り屋サンの日本人も、肝心な所では頑張れない所か自爆する。バンザイ攻撃や人間魚雷はその典型だろう。
ノモンハン戦争でも、古い将校は最後まで戦おうとした。兵士が全て死滅するまで戦おうとした。そこで若い将校が何とか説得する。”今は引き下がりましょう。これ以上若い兵士を無駄死にさせてはいけません。名誉ある撤退という言葉もあるんです”と。
つまり”継続は力”なりは、戦争においては”継続は犠牲なり”なのだ。
因みにノモンハン戦争が終結したのは、日本軍が劣勢だったのではなく、多くの兵士が無駄死するのに、嫌気が差したからだと言われてる。ノモンハンその1、その2をClick参照です。
高齢者の無駄な頑張りと
徳川家康の”やり過ぎは何もしないよりまだ悪い”という格言を、日本人はもう一度見つめ直す必要がある。
そういう私も、何に付け頑張れ!と激を飛ばすバカを見ると殴りたくなる。勿論、頑張る人は悪くない。しかし、表向きは”努力は裏切らない”と綺麗事を言い、心の中では”努力は平気で嘘をつく”と見下す自分がいる。だから私は頑張らない。”無為自然”とは、私が一番好きな言葉だ。
多分馬鹿は頑張らないから出世するのか?イヤそうでもないか。でもそういや、ゴーンも頑張りやサンだったな。だから今バカを見てる。イヤこれからも死ぬまでずっとバカを見るだろう。それでも猛禽類系人種は頑張り続ける。
高齢化社会の今、老人の無駄な頑張りが色んな弊害を生んでる。弊害だけならいいが、犠牲も多く出てる。高齢者ドライバの事故もその典型だろう。
何故無理をして、音のしない高価なハイブリッドカーを買うのか?何故、脳内出血の危険性があるのに、老体に鞭打ってジョギングをするのか?何故無理をして老化に対抗しようとするのか?デビ夫人よ!ハッキリ言ってアンタは汚い。
私から言わせれば、頑張る奴は知能が低いとしか考えられない。イヤそうでもないか。
かつて発明王エジソンは語った。”99%の努力は1%の閃きがなければ全て無駄になる”と。
努力は平気で嘘をつく。その嘘を見抜くのが数学的洞察というのだろうか。
>頑張ってるバカを見ると殴りたく
イェーイ、無駄な努力をしている私を、殴りに来てイイゾよw
いつもコメントありがとうございますm(_ _"m)
多分我らサピエンスは”虚構”の中で生きてるが故、その努力もその虚構の中でのみ生かされる。
元々、”努力は報われる”とは白人のご都合主義(カルバン主義)から生まれたもので、私も日本人もすっかり騙されたんですね。
が、人間、がんばりすぎると折れてしまう。
がんばらないで怠けている人のほうが大事なときに力が出せる。
そういうことに気づいたのは、人生終盤の最近のことです。
人は怠けられるときは目いっぱい怠けるべしというのが私が得た処世訓です。
努力はしない人のほうが成功します。
が、デビ夫人は、あの人なりの偉さがあると私は思っています。
その時、日本人って平和すぎると思ったね。こんなんじゃ絶対世界に馬鹿にされると思った。事実その通りになりました。
先日、高橋尚子の師匠である小出氏が亡くなりましたが。小出氏は、高橋尚子が金メダルをとれたのは、女子マラソンの底辺が小さいからだと言ってました。
勿論、努力というのは重要な要素かもしれませんが。高度で複雑化した時代、努力というのは要素の一つに過ぎなくなりました。もっと時代が進めば、努力という言葉すら無くなるかもしれません。
転んださんの毒舌は全くの正論だと思います。少し言い過ぎですが、これくらい毒を吐かないと日本人は気付かないでしょうね。
これからも毒が満載のブログを楽しみにしてます。
才気に恵まれてるから、そんなに努力は必要なかった筈ですが。惜しいですね。
そういう私も毎晩の様に晩酌しますが、少しでも量が過ぎると、頭が痛くなり健康にモロに響くなって直感します。
日本人の感覚では”怠ける=悪”ですが。柔軟な思考を保つ為にも、怠ける事は大切だと思います。
一時、頑張れという言葉が禁句になったことがありました。勿論ゆとり教育がいいとは思いませんが。バカ正直に努力するのも癖になるとどうしようもない。
でも努力は罪なのかって言われると、どうなのかなって思う。効率よく努力するというのが理想なんだけど、それができれば苦労はしないんですが。
そういう私もまだまだ無駄な努力を繰り返してんですかね。
転んださん的に言えば、ウソを見抜く学問が数学なんですね。だから数学は難題が多いんでしょうか。
全てを疑って掛かるのは、合理主義の基本でもあるんですが。疑いが過ぎるのも辛いもんです。
でもリーマンのイラストハンサム過ぎでんな。
数学は虚数を扱うようになってから大きく飛躍したんですが、同時に現実離れした学問担ったんで、ある意味疑う学問なんでしょうか。
努力が裏切らないなら、リーマン予想はとっくに解けてる筈です。ダルビッシュも羽生も偉そうな事言ってますが、何にも解っちゃいないんです。
努力は所詮、解決の一要素に過ぎないんですから。特に数学に関しては努力するだけ無駄なんですかね。
これからもコメ宜しくです。
最初の一歩が大切だが
たとえ最初の一歩が正しくても
帰着を正確に予想出来なかったら
努力も最初の一歩も無駄になる
簡単な事は努力しさえすれば
カタがつくし
難題は努力したくらいでは
とても解き落とせない
私にとって努力とはタブー以外の何者でもない。とにかく少しでも頑張るとろくな事はない。
これも運命いや宿命ですかね。