カントールの偉大な業績の一部を知ったのは、小山信也氏の「リーマン教授にインタビュー」であった。(本に登場する)リーマン教授がとても高く評価してたので、気になってた数学者でもあった。
そのカントールとの初めての出会いは、その自画像にあった。それを見た時、神の領域を超えそうな何かを感じた。
しかし彼の生涯は、他の偉大な数学者以上に、”狂人”とか”病人”とかのレッテルを貼られ、決して幸せとは程遠い人生でもあった。
何故、彼ほどの天才数学者がその才能に見合う人生が送れなかったのか?
それは、”神の領域に触れた”という単純な理由からだろうか?それとも、彼自身に何か問題があったのか?いや単に周りの数学者たちの悪意に満ちた妨害によるものだったのだろうか?
その答えは、「無限に魅入られた天才数学者たち」の中にあるかもしれないし、そうでないかもしれない。
アレフ(超越数)の呪い
ただ言えるのは、彼が発見した無限の証明は、(かつて神を冒涜するとされた)地動説に匹敵するものであった。故に、カントールを嫉んだ神様が与えた試練だったのかもしれない。
しかし、カントールの発見こそが神が与えもうたとすれば、彼が証明した(無限を超える無限が存在する)様に、やはり”神を超える神が存在する”とすれば、辻褄がピタリと合う。
かつてピタゴラスは”万物は数である”とした。一方でカントールは、その万物を(神が創った)数に全て対応させ、無限という神の存在を数学的に証明した。更に彼は、神を超える神の存在すらをも数学的に証明する。
「連続体仮説」とは、(言い換えれば)”神と神を超える神との間に神は存在しない”という類のものだが、この仮説の証明にカントールはアレフ(超越数)を使った。
しかし私は、この文字の持つ響きがどうも好きになれなかった。
「無限に魅入られた・・・」を読むのをすぐに諦めたのも、アレフという文字を目にしたからだ。どうもこの文字には、悪魔の香りがする。事実、アレフ(後にアレーフ)はオウム真理教の今の教団名である。
このアレフの呪いがカントールを最後まで苦しめたのではないか?しかし、アレフの呪いは連続体仮説と同様に、証明も反証もできないようにも思える。
カントールが何故、無限の数(超越数)にヘブライ語のアレフをあえて使ったのか?
確かに、ユダヤ人は最初にヘブライ語を学ぶ。その一番最初の文字がアルファベットのaに相当するアレフℵである。故に、彼は神とその無限性を示す記号としてのアレフという文字の役割を既に知っていたとされる。
つまり、生まれながらにして、ユダヤの伝統である無限の概念と出会い、アレフという文字を選択してもごく自然の事ではある。
この話は後で詳しく述べる事にして、4話で終えるつもりでしたが、もっと長くなりそうな気配です。
勿論、カントールや連続体の本質の全てを(ブログが如きで)表現しようとする事自体に無理がある。
私の悪い癖で(ブログもレビューもそうだが)長くなり過ぎる。普通に書いたつもりでも長くなる。紹介文をコピーし、ちょちょっと主観を書いて終りにすればいいものを・・・
全てを消化し自分のものにしないと気が済まないタチで、そういう自分がイヤになる。
前々回はピタゴラスに始まり、ゼノン、エウドクソス、アルキメデスに至る古代ギリシャ黄金期の哲学者や数学者らの可能無限に対する考察と苦悩について紹介しました。
前回は、神と無限と(中世ヨーロッパのカバラやカトリックといった)宗教との繋がりを引き継ぐ形で、ガリレオやボルツアーノが数学的に無限を考察し、舞台はやがてベルリンへと向かっていく。
舞台はベルリンへ
19世紀末になると、無限の研究は知れ渡る様にはなってはいたが、多少とも関心を持つのはパリ大学とミラノ大学、そしてベルリン大学の3つしかなかった。
特にベルリン大は、19世紀初頭から第一次世界大戦が勃発するまでの長きに渡り、ヨーロッパの数学界をリードしていた。
ドイツの数学が世界の階段を登り始めたのは、神童ガウスの登場が始まりである。
彼は子供の時に既に、他の数学者たちが何十年も後になって考え始める分野での重要な発見や成果を幾つも書き出した。
そのガウスが特に手を掛けてた弟子がベルリン大に栄光と暁光を照らしたペーター・D・L・ディリクレである。彼は”解析的数論の父”と称されるが、彼の一番弟子はかのベルンハルト・リーマンであった。
リーマンは幾何学の分野でも革命的な仕事を成し遂げたが、積分の概念を厳格化する事で飛躍的な貢献をする。
その彼が無限に興味をもったのが、ユークリッドの第2公準である”直線はどこまでも無限に伸びていく”がきっかけでした。
リーマンは(ユークリッドの言う)平面上であれば成立するが、”球面上では直線は無限の彼方まで伸びる筈もない”事を見抜いていた。つまり、彼は数学の本質を見抜く力を既に身につけていた。事実、天文学者エディントン(英)は”リーマンほどの幾何学者ならば物理的世界においてもっと深い洞察を得てる筈だ”と語る。
聖職者である父の勧めもあり、神学を学ぶ為にゲッチンゲン大に入学したが、ガウスに惹かれ、数学に進路を変更する。1年後ベルリン大に移り、ヤコビ、シュタイナー、ディリクレ、アイゼンシュタインといった第一級の数学者らと出会い、卓越した頭脳に磨きをかけた。その後、ゲッチンゲンに戻り、幾何学と数論の分野で重要で画期的な貢献をし、やがてガウスを驚嘆させる。
こうしてヨーロッパ中に名を馳せた若き天才数学者は、完全な数学理論の必要性を深い哲学的確信の元で持つに至る。
一方でリーマンは、曲面が持つ性質を洗い直し、その本質を探る為に”距離”(計量)の概念を使った。彼はピタゴラスの距離(三角形が生み出す無理数)を一般化し、もっと複雑な空間(曲面)でも使える様にした。
同時に彼は、”無限”に関しても多くの業績を残した。例えば、リーマン積分は無数の階段関数の和として定義されるが、この無限和は後にカントールが無限の研究に乗り出す出発点となる。
リーマン計量(2点間の最短距離)はピタゴラスの定理を一般化したものだが、ピタゴラス派の人々は2500年前に発見されたこの定理から無理数を発見した。更に、彼が幾何学にてなし得た仕事は、ユークリッド幾何学の本質を見直すという意味にて、無限の概念に直接関わるものでもある。
リーマンはまた、前回で述べたボルツァーノの方法(定義域[0,1]内の無限個の点と値域[0,2]内の無限個の点を1対1に対応させる)を拡張し、今日”リーマン球面”と呼ばれる発見をした。
つまり、リーマン球に”無限遠点”を付け加える事で、平面上にある無限個の点の集合を”コンパクト”(有界閉集合)にできるのだ。
因みに、カバラやダンテが描いた同心状の天は神を表す(中心に向かう)無限遠点に繋がってますね(前回のイラスト参照)。
これはある意味、リーマン球と同じである。ボルツァーノが1つの距離(x軸の閉区間)を別の距離(y軸の閉区間)に変換した様に、リーマンは2次元平面を(3次元の)球面に変換した。
しかも、無限遠点はリーマン球の北極点に相当し、平面上を正及び負の無限に向かおうが、それに対応する球面上の点は無限遠点(北極)に近づく。故に、北極にある1つの無限遠点を考えるだけで済む(イラスト参照)。
故に、リーマン球の表面がコンパクト(有界)になるという事は、リーマン球面が境界点を自身に含み、有限な範囲に収まり、”全ての点列はその空間内で収束する”と理解できる。
この”球面に無限遠点を付け加える”というアイデアは、無限と収束の関係を考察する上でとても重要な発見でもありますね。
かなり抽象的ですが、無限と収束には深い関係がある事だけでも理解できればです。
無限と無理数の収束
そのリーマンよりも10歳年上のカール・ワイエルシュトラス(1815-1897)も無限に立ち向かった数学者の一人である。
彼を”現代解析学の父”とみなす人は多い。因みに、連続的なものを対象とするのが解析学なら、離散的なものを対象とするのが抽象代数学とされる。
40近くになるまで片田舎の中学教師に従事してたワイエルシュトラスだが、ガウスの弟子グーデルマンを師として、(アーベルが発見した)楕円関数の級数展開の研究をしていた。
”複雑な関数を簡単なべき級数に展開する”というグーデルマンのアイデアは、後に”解析学の確立”という重要な偉業をワイエルシュトラスにもたらす事となる。
そして1854年、田舎の無名の中学教師は一夜にして数学界のスターダムへとのし上がる。初めて書いた大論文がベルリンに衝撃をもたらしたのだ。
彼はベルリン大学に移ってからもグーデルマンのアイデアを発展させていく。
べき級数とは、一般にΣaₙ(x−a)ⁿで表される関数の無限和だが、無限に続く項を全て足し合せる事は出来ない。が、加える項の数を増やす程にその和が収束する。
つまり彼は、”関数の列が目的の関数に収束するのは無限に到達した時だけ”という現代関数論の中核に迫ったのだ。
一方で、関数の連続性と”収束列”の概念をも発展させた。これは”近さ”の概念でもあるが、有理数の極限が無理数に向かう事を発見する。例えば、1,14/10,141/100,1414/1000,...という"無限"に続く有理数の数列は、√2という無理数に収束する。
しかし、ワイエルシュトラスの前には強力なライバルがいた。その彼こそがカントールを精神的に追い詰めた張本人であるレオポルド・クロネッカー(1823-1891)である。
貧しかったワイエルシュトラスとは異なり、裕福な実業家の息子であるクロネッカーはビジネスでも数学でもエリートそのものであった。
クロネッカーの逆襲
”数学こそが音楽をも超える芸術だ”と考える彼の関心はもっぱら数論にあった。が、その彼に影響を与えたのがエルンスト・クンマー(1810-1893)である。彼はイデアル(理想数)の研究で有名な数論学者だったが、フェルマーの最終定理への研究では数学史上に残る大きな貢献をした。
クロネッカーはクンマーと共に、ガウスの疑問である”円周をn個の相等しい弧によって分割するには?”という代数的数体に関する難題に立ち向かう。但しガウスは、全ての2次体Q(√d)がある円分体に含まれる事を既に示していた。
因みに、半径1の円をn個に分割するn次方程式xⁿ−1=0は円分方程式と呼ばれ、その解を1のべき根と呼ぶ。また、xⁿ−1の分解体を円分体と呼ぶ。
これこそが有名な”クロネッカーの青春の夢”(1853)に繋がるのですが、これは”有理数体上のアーベル拡大(可換なガロア群)は円分体に含まれる”という「クロネッカー=ウェバー」の定理である。これは”円分体が1のべき根により生成される”事を示している。
因みに、虚2次体上(2次体Q(√d)に対し、d>0の時を実2次体、d<0を虚2次体)の場合を”青春の夢”と呼び、高木貞治氏の類対論の完成により解決され、この一般化(CM体=虚数乗法体)については志村五郎氏と谷山豊氏の重要な研究がある(ウィキ)。”2次体”と聞き慣れない言葉は類体論でよく使われますが、詳しい説明はここでは省きます(悪しからず)。
クロネッカーが専門とした代数学は方程式やその解を研究する分野で、ある意味解析学と正反対の性格を持つ。つまり、代数学は整数や有理数など数える事のできる離散的なものを対象にする。一方で解析学は関数や数と数との距離、無理数などの連続的なものを対象とする。
つまり、代数学者は物事を離散的に捉え、解析学者は視覚的に捉えようとする。故に、”現代解析学の父”たる(大柄な)ワイエルシュトラスと代数学にて重要な貢献をした(小柄な)クロネッカーとの相性が悪かったとしても不思議ではない。
クロネッカーは”神は整数を作りたもうた。それ以外は全て人間が作ったものだ”と言い放ち、”数学で扱うべきは離散的な要素だけ”だと信じていた。
しかしそんな事は露知らず、一人の学生がベルリン大学に入学してきた。やがてその学生は代数学と解析学との壮絶な戦場の真っ只中に送り込まれる。最初は親切だった恩師の筈のクロネッカーだったが、この新参者に出来る限りの毒を吹き出し、生贄として葬りさろうとした。
更にクロネッカーは、博士号を取得した彼がベルリン大学に就職できない様に力を尽くした――彼以上に相応しい人物はいなかったというのに・・・その人物とは言わずもがなだが、カントールの事である。
以上、今回もダラダラと長くなりすぎたので、これで終りにします。
今回は過去2回とは異なり、かなり抽象的になりましたが、無限の考察が彼らにとっても如何に困難な研究であったかを示す為に、敢えて詳しく書きました。
”リーマン球”と”クロネッカーの夢”は飛ばしても構いませんが、ワイエルシュトラスの無理数の収束は知ってて損はないですね。
次回は、ワイエルシュトラスの無限の考察の流れをくむカントールの研究に迫っていきたいと思います。
クロネッカーのカントールへの嫉妬がクロネッカーの精神を歪ませ、異常なまでの攻撃性を生んだとも言えます。
クロネッカーもカントールも同じユダヤ系で、それも父親がビジネスで大成功を成したというとても裕福な家系の出で、特に長男のカントールはベルリン大学に移る頃は、最愛の父の死に際し、相当な遺産を受け取ったとされます。
一方で、ビジネスでも伯父の銀行と農場を引き継ぎ成功を収めてたクロネッカーと、一族の期待を一手に背負う裕福なカントール。
この二人には共通点も多かったんですね。
クロネッカーは数学の世界でも大きな成功を収めたがってました。事実、ベルリン大学の黄金期を支えるんですが、カントールの数学はクロネッカーを超えるものでした。
カントールが無限の存在を証明した時、クロネッカーは<超越数(アレフ)は存在しない>とまで言い切り、更にはカントールの人格までも攻撃します。
この頃から二人の決裂は確実となリ、カントールは精神的に追い込まれ、精神病院に塞ぎ込みます。
クロネッカーの攻撃は悪質な面もあり、カントールの友人であり二人の仲介役でもあったデデキントまでも攻撃します。
純粋数学者にありがちな彼の完全無欠の完璧性は<有限こそが数学の真の完璧性であり、無限の美しさは虚構で曖昧である>との直感に頼る独創性こそが自らを追い込み、精神を大きく歪ませたのかなとも思います。
考える程に、クロネッカーの攻撃の謎も深まります。
ただクロネッカーの独創性は歪んた感もありますが、後にポアンカレやブラウアーなどに引き継がれる”直観主義”を大きく発展させる基盤となりました。
しかし、カントールの”(連続体における)無限には次元という概念がが存在しない”という無限の証明は数学史上から見ても傑出したもので、クロネッカーの(有限界の)数学をひっくり返すに十分に強力なものでした。
つまり、クロネッカーも天才ならカントールはそれを凌駕する天才という事なんでしょうね。
長ったらしい記事に、詳しいコメント有り難うです。
a,b∈Qとして、a+b√5はQ(√5)という代数体(2次体)の任意の元を表す。
ここでは√5を使ったが、
実は、√5=e^(2πi/5)−e^(4πi/5)−e^(6πi/5)+e^(8πi/5)という摩訶不思議な等式が成立する。この等式こそが2次体を理解するのキモなんですが・・
円を5等分する点が、e^(2πi/5),e^(4πi/5),e^(6πi/5),e^(8πi/5)となる事は、円分方程式であるx⁵−1=(x-1)(x⁴+x³+x²+x+1)=0の5つの解となる事から言える。
e^(2πi/5)=cos(2π/5)+isin(2π/5)というオイラーの等式を知ってれば、これらの解が複素平面上の半径1の円周上に置ける事を直感で理解できます。
つまり、この5つの点(解)は複素平面の座標で表せば、(1,0)、(cos(2π/5),sin(2π/5))、(cos(4π/5),sin(4π/5))、(cos(6π/5),sin(6π/5))、(cos(8π/5),sin(8π/5))となる。
そこで、e^(2πi/5)とe^(8πi/5)のベクトルと、e^(4πi/5)とe^(6πi/5)のベクトルをそれぞれ加えて、その差を取ると何と√5になるというトリック。
つまりこの式を使えば、
a+b√5=a+be^(2πi/5)−be^(4πi/5)−be^(6πi/5)+be^(8πi/5)が導け、2次体Q(√5)の任意の元が円分体の元として表せるんですね。
そこで、円文体のある元をζ=2πi/5とおけば、Q⊂Q(√5)⊂Q(ζ)が言え、ガウスが証明した”2次体が円分体に含まれる”事が分かる。
つまり、2次方程式(quadratic)の解を集めた体(field)と考えれば単純ですかね。
クロネッカー=ウェバーの定理は、
KをQ上のアーベル拡大とした時、正の整数nが存在し、Q⊂K⊂Q(ζₙ)が成立する。
但し、ζₙは1の原始N乗根(1のべき根)の1つで、ζₙ=e^(2πi/n)となります。
平ペッたく言えば、”e^(2πi/n)を全てつけ加えた拡大を考えると有理数体Qの最大アーベル拡大を得る”と。
因みにクロネッカーは”有理数の平方根を係数に含むアーベル方程式がe^(2πi/n)を持つ楕円函数の変換方程式で尽くされる”と美しい表現で説明してます。
しかしこの証明が非常に厄介で、私には近づく事も勿論理解事すらも出来ません。
ただ(こんな異次元の発見をやってのける)クロネッカーの矛盾は、この定理には√という無理数やiという虚数が登場します。
更に、クロネッカーの青春の夢には、虚2次体という超越無限にも似た概念が登場します。
しかし彼は(有理数を含む)整数しか認めませんでした。
故に、クロネッカーの攻撃には(正当化される部分もありますが)悪意があったとされても不思議はないですよね。
お陰で、2次体の基本が理解できました。有難うございます。
円周をn等分するような
点(解)の集合体?みたいなってまでは
何とかわかったけど(@_@)
quadraticってquadだから
2次じゃなくて4次のことじゃないの?
quadって4を意味するけど
昔は平面(2次元空間)を四角形で表してた。
故に、2次方程式といえば面積の問題であった為に、2次方程式を“quadratic equation”と呼ぶのは、”四角形の(面積の)方程式”ということで自然に使われたらしい・・・
その後、代数方程式が生まれてからも“quadratic”という言葉が残ったとか・・・
説明になってなくてスンマセン(*_*;
ζ=e^(2πi/5)と訂正します。
スマンかったね。
わざわざご指摘頂き、感謝してます。