象が転んだ

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東野圭吾の繁殖と限界〜映画「麒麟の翼」の不明瞭な矛盾と不可解な曖昧さ

2024年09月26日 16時39分38秒 | 映画&ドラマ

 2012年と少し古い映画だが、原作の東野圭吾が自ら“シリーズ最高傑作”と太鼓判を推した作品である。
 正直、多くは期待しなかったが、前半の豪華キャスト陣の気合が入った演技と雰囲気に、(東野ミステリーが好きでない)私も圧倒されてしまう。
 ただ(彼の原作の映画はいつもそうだが)、後半に入るにつれ、東野圭吾の不透明な限界と不明瞭な矛盾が見え隠れする様になる。

 
東野ミステリーの限界と矛盾

 彼の作品がアカンのは、全てをややこしく曖昧にしすぎる所にある。テーマを明確にし、ミステリアスな要素を幾つかに絞り、シンプルな展開にすればいいものを・・登場人物を無駄に多く配置し、作品のテーマが分散し、濁ってしまった。
 タイトルは「麒麟の翼」だが、その意味も曖昧で、いっその事”労災隠し”で押し通した方がずっと良かった。

 監督が悪いのか?原作が悪いのか?それとも東野圭吾に決まった様に酔う日本人がバカなのか?いや、凡作と判ってて、キャスト陣の豪華さに惹かれるミーハーな私が幼稚すぎるのか?
 それとも、ミステリーであればこんな凡作でも許されるのか?

 全く、展開が複雑で曖昧すぎて、その詳細を書く気にもなれないが、中核となる点を1つにまとめると、高校の水泳部の後輩(吉永)がリレーでまさかのフライングを犯し、チームは失格。怒り心頭の上級生3人は責任を取らせる形で後輩を扱き、溺れさせてしまう。
 が、すぐに水泳部の顧問に見つかり、人工呼吸をするも意識が戻らない。ヤバい事態だと察した顧問は3人を家に返し、救急車を呼ぶ。
 警察の調べには、”自分が来た時は既に溺れていた”とウソの供述をしたが、脳に障害が残った吉永は命は助かったものの、意識が戻らないまま、闘病生活を余儀なくされていた。
 仮に、被害者の意識が戻れば、全てが判明し、水泳部の3人は殺人未遂で犯罪者となる。
 一方、(映画の様に)意識が戻らないままなら、一生を罪の意識で苦しむ事になる。また、顧問が本当の事を言えば、3人の生徒は法の裁きを受ける。
 つまり、どっち転んでも罪は消えないのだ。
 他方で、この作品では加害者にばかり焦点が当てられ、肝心の被害者の実情と心理は全く無視されている。まるで、不可解なミステリーの典型でもあった。 

 こうした不幸な事件が家族や恋人や捜査を混乱と苦悩の渦に落とし込むのだが、結局、この作品で何を言いたかったのか?その多くが不透明に映る。
 家族の愛とか、真実(過ち)に向き合う勇気とか、過去を背負い新たな人生を歩むとか・・
 それらがどう”麒麟の翼”に繋がるのか?明確な答えはない。不透明な矛盾とはそういう意味だが、今回の作品も複雑なだけで、結局は曖昧な形で様々な違和感を残し、幕を閉じる。
 違和感で言えば、中井貴一が刺される動機も、刺されたまま通報もせずに”麒麟の翼”まで歩いた理由も、不明瞭なままに終わった。

 映画とはフィクションであれ、ミステリーであれ、シリアスなドラマであれ、”シンプルでわかり易い”というのが大前提である。これを無視すれば、製作の現場も見る側も只々混乱するだけだろう。
 仮に、混乱させるだけの映画なら、それはミステリーではなく、不可解なB級動画に過ぎない。


最後に〜曖昧なミステリーは誤解を生む

 日本では、中途に人気があるミステリー作家らしく、ただそれだけの理由で、彼の作品の多くはドラマ化や映画化され、そして決まった様にその多くが失策となる。
 レビューでも賛否両論存在するが、日本人はミステリーに対し、もっとシビアでタフな判別式を持つ必要があるのだろうか。

 愚痴っぽくなるが、阿部寛の刑事役も一見は板についてる様で、何度も見てるとパターンが単相化し、ゲンナリする。
 特に、”アナタは間違った公式を生徒に教えてしまった”と顧問で数学の先生を責め立てるが、公式が正しくとも、生徒が使い方を間違えば、その公式は意味を成さない。いや、それどころか深刻な矛盾を生む。
 今回の事件も、後輩を溺れるまで追い詰めた行為が生んだ悲劇である。つまり、扱きと言えど、やり方を間違えると死に至る。

 確かに、顧問は嘘の供述をしたが、たとえ本当の事を言っても、状況の本質は変わらない。生徒を追い詰めたのは顧問ではなく、生徒自身なのだから・・・
 一方で、生徒を守るのは教師の役目である。保身との見方もできるが、咄嗟にそういう判断をしたのなら、それは1つの選択である。一方で、追い詰められた生徒の一人は友人の生徒の父親を刺し殺すが、動機が不明瞭であれ、それが結果なら、それは彼が導き出した選択である。
 つまり、教師の判断(嘘の供述)と生徒の選択(殺人)は独立して考える必要がある。少なくとも、2つをゴッタ混ぜにして”教師としての資格はない”と責めるべきではない。

 こうして1つ1つ冷静に振り返ると、この作品には多くの矛盾に満ちてる事が理解できる。
 ただ原作では、顧問は事実の発覚を恐れ、生徒を再度プールに突き落とすなど、悪質な行為に手を染める。故に、顧問の行動は冷酷で計画的なものになるが、映画ではそこまで踏み込んだ描写はない。
 だが、事実の隠蔽という点では同じで、生徒3人で溺れさせたか、顧問を含めた4人で溺れさせたかの違いだけである。
 つまり、原作も映画と同様の矛盾を含んでいた事になる。

 これこそが、東野圭吾の限界であり、不明瞭な矛盾と不可解な曖昧さを露呈するミステリーに没落させた結果とも言える。
 人生もそうだが、余計は誤解を生むだけである。  



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