「前半」では、”核燃料サイクル”という高く付きすぎた国家プロジェクトの問題点を曝け出しましたが、今日は(原発廃止ではなく)脱原発の為に何をすべきか?というより、原子力神話の本質について書きたいと思います。
寄せられたコメントにもある様に、”一度進んだら撤退しない”というムラ社会の国の不思議なニッポン。”日米核同盟”という、世界が見れば大笑われそうな理不尽な核協定。
日米同盟といえど、アメリカが”ヤバくなったら逃げてもいい”という裏協定が存在する。フクシマで日本が追い詰められた時も、アメリカは日本をプルトニウム保持国家と非難した。
それ以上に悲しいかな、アメリカの(時代遅れの)原子力産業を支える為に、原子力に拘った結果、日本は自らを窮地に追い詰めてしまう。
唯でさえ厄介な難題である核燃料サイクルを含む脱原子力問題だが、日米核同盟という矛盾が覆いかぶさる。つまり、脱原発は日米核同盟を解除しない限り、絵空事に終わる。敵は放射能ではなく、アメリカという核大国なのである。
脱原発の前に
前回で長々と紹介した核燃料サイクル政策ですが、進むも退くも課題が山積である。
国家がバカをやるのはよくある事だが、そのバカの尻拭いをするのは常に国民である。
しかし、今回のバカは明らかに高く付きすぎた。つまり、そのバカを進むも退くもバカを見る。
バカなだけならいいが、相手はプルトニウムという異次元の破壊力と猛毒を持つ得体のしれない生き物である。バカを手懐けるのとは次元が違う。
そこで、”ある原子力学者の提言”で纏めたいと思う。
以下、「脱原子力国家への道」(2012、吉岡斉 著)のレビューを一部参考にします。
かつて原子力発電の優位性として、供給安定性・環境適合性・経済性の3つが存在していたが、それらが全て福島原発事故で反証された。
原子力発電が開始されて現在までの総発電量から見た発電単価は、事故によって2倍以上になるとされる。これは、事故の頻度が低いから経済損失が小さいという事にはならないと言い換えれる。
また環境適合性についても、化石燃料の環境破壊と比べ、放射線による健康被害の潜在的な危険性は大きいともいえる。
政府事故調査委員会での(吉岡氏の)記述は検察官的アプローチであり、事件の立件を目的にしてるが故に、事故の解明に必要でない未解明なものは省略されている。
一方で、(本書にある)事故の全貌を記録する科学論文的アプローチでは、記述対象が背景的要因としてより広く把握されている。
日本の原子力利用という枠組みを捉えるキーワードとして、吉岡氏は”核の六面体構造”と”日米核同盟”という言葉を使った。
まず、前者の”核の六面体構造”という利害集団(経済産業省、電力事業者、地方自治体、原子力産業メーカー、政治家、アメリカ政府)と、前著「原子力の社会史」(2011)での”二元体制的国策共同体”がどういう関係にあるのか。
つまり、国策としての推進体制が旧通産省・電力グループと旧科学技術庁という”二元体制”で表現出来、これは2000年代の省庁再編で経済産業省の一元体制へ収斂していく。
原子力産業の利害集団は”核の六面体構造”になるが、これにメディアと学者という準構成員を加えると”核の八面体構造”になる。
一方で、2つ目のキーワードである”日米核同盟”で言えば、原子力産業の利害集団のうち大きな比重を占めるのがアメリカ政府であり、本書では核エネルギー利用について民事利用に対して軍事利用の側面も追加されている。
日米安保と歩調を合わせる様に、この”日米核同盟”が存在し、特に民事利用での技術協力という形で継続しているのだ。
事実、アメリカの原子力メーカーの設計に対し、日本メーカーの生産への高い依存があるし、脱原子力に対する大きな抵抗要因になってるのが”日米核同盟”とも言える。
吉岡氏による脱原発のシナリオだが、(大まかに言えば)国策で法的に禁止する方法と、原子力産業への推進・保護政策を撤廃する自由主義的な方法とが指摘されている。
核エネルギー利用に対する保護政策の撤廃と安全規制の強化による自由主義的方法が妥当という気がするが、国策で脱原発をすれば民間企業として原子力産業は魅力はないし、継続性可能性は全くなくなってしまう。
高速炉”もんじゅ”についても、遠い将来の開発再開の可能性を残しつつの廃止という提案のようだ。
著者は、脱原発のシナリオは”自由主義的アプローチでも国家計画によるシナリオでも良い”と見なし、完全に自由主義的なアプローチは電力事業者にとって不都合であり、政府に対して様々なコスト負担を要請してくるだろうとの見解である。
最後に〜脱原発は可能なのか?
2018年に亡くなられた故吉岡氏だが、全ての原発の即時廃炉という”反原発”のハードランディングではなく、新増設禁止と既設原発の段階的縮小の”脱原発”というソフトランディングの立場であった。
しかし、反原発や脱原発の前に、既に存在してる膨大な使用済核燃料やその為の再処理工場や高速増殖炉という重要な問題に対し、解決策を講じる必要がある。
そこで、脱原発と並行し、核燃料再処理を中止し、MOX燃料を使う高速増殖炉を廃止する事を主張した。これには使用済核燃料の最終処分が大前提となるが、格段のアイデアがある訳でもない。
しかし、脱原発工学の可能性やエネルギー需要の自然減から見た脱原発の視点は著者らしいと思う。
今となっては、異端から正統へと進化した脱原発論だが、多様性を浴びる事で混迷したシナリオに理解と柔軟性を与える事はできる。
戦後、核平和利用の旗の下で世界にも稀な安定成長を遂げてきた日本の原子力発電だが、第5章の”日本はいかにして原子力国家となったか”はとても興味深い。しかしこれからは、”いかにして脱原子力国家になるべきか”を議論すべきだと思う。
核燃料サイクルも使用済燃料処理も計画通りに進まず、既設原子炉の老朽化が進む一方で、それらを担ってきた政・官・産・学・自治体のせめぎあいと、その背景にある日米核同盟をめぐる駆け引き。
こうした負のパズルを1つ1つ丁寧に解き明かして解除し、脱原子力へ向かうべきであろう。
2発の核兵器によって広島と長崎が犠牲になり、戦後その核の平和利用を訴え、原発という核によるエネルギー供給を果たしてきた日本だが、福島で再び原発事故という核による多くの犠牲を出した。
”核燃料サイクル”というパンドラの箱を空けた瞬間から、この原発の悲劇と負のスパイラルは予想できた筈だ。
この無謀すぎる国策を支え続けてきた奴らは、この危険性を十分に承知し、理解してた筈だ。
危ない橋は叩いても渡るべきではない
しかし日本という島国は、広島や長崎そしてフクシマの教訓がありながらも、叩かずしてこの危険過ぎる橋を渡ろうとしている。
”バカは叩いても治らない”と言うが、叩かなかったらもっとバカになる。
同じ様に、叩けば叩く程に様々な矛盾が顕になる”核燃料サイクル”の議論だが、ムラ社会特有の結論ありきの議論ではなく、新たなアイデアや創造を生み出す為の議論であるべきだし、そんな議論なら何度やってもやりすぎる事はない。いや、答えが出ないと判っててもやり続けるべきだ。
更に言えば、日本の学者は演繹で物事を考える人が多いと思う。ガウスの様に(既存の定義に拘る事なく)帰納的思考で斬新なアイデアを生み出すという事をあまり聞かない。
こういう所にも(ムラ社会同様に)議論が空回りに終わる一因になってる気がする。
少なくとも、何も考えずに突き進み、放射能汚染列島として沈没するのだけは避けたいのだが、ムラ社会の農耕島民にはそれができるのだろうか?
3人の天才を混同する辺り、かなりお詳しいですよね。
そこら辺になると私は全くですが
隣町には作曲家の古賀政男もいますが、北原白秋よりも少しは有名ですかね。
柳川の水ですが、相変わらず汚いです。
基本的には下水をバクテリアで浄化して流してるだけで、川下りには適してないと思います。
柳川も観光で生きていこうと思えば、この辺りを本腰入れる必要がありますね。
私が小さい頃、この歌を母がよく口遊んでいたのを思い出します
牧水の九州ライバルだった白秋の故郷が、転象先生の居られる処なんですネ~
更にその若山牧水の無二の友人が石川啄木だなんて
その啄木の
故郷の山に向かいて言う事ナシ故郷の山は有難きかな
の歌が好きなんですが
ワタシはこの三人の天才をよく混同して間違えてしまいます
転象先生の住む柳川の水はドウでしょうか
ワタシの住むエヒメ肱川の水はドンドン濁って来てもう泳げません
川の水は人の心を映す鏡デスよね
SDGSなんて、ソんなのあってもドうしようもないガいがーかうんた~
の略に思えるんですが…
核燃料サイクル工場が爆発でもしたら逃げようがないモン
我が柳川市も負けてませんよ。
稼ぎを示す”財政力指数”ですが、福岡県内で0.48で38位と、財政の半分以上を国からの交付金に頼ってます。
更に人口減少率は4.04で同県内6位と過疎化が更に進んでます。
仮に原発が近くにあったなら、原子力ムラ当確でしょうね。
議員たちは必死で行政に働きかけ、自分たちは県外に別荘を持つ。
そうしたシナリオが思い浮かびます。
つまり、六ヶ所村や玄海町の危機は日本の地方全体の危機なんでしょうか。
数学も同じですが、将来を見通す事で現実が理解できる。
でも、政治家が目先の私欲に走る日本の明日は心もとないですね。
六ヶ所村のそれは約3倍の660万円だなんて
そしてこの額は青森県内一人当たり市町村民所得で、
10年以上連続でランキングトップに輝き続けているとは
ドンダケ国が日本原燃核燃料サイクル施設の立地する六ヶ所村に
多額の口止め料的補助金を血税から使途しているかが窺えますネ~
命あっての今の生活なんですが、目先の生活に追われてしまうのも
哀しい現実なんでしょうか
貧しさに一生苦労するよりかは、放射能汚染を覚悟してもリッチになりたいという、ムラ社会の哀れな欲望が働くと思います。
言われる通り
”危ないと(頭では)分かってる人達が最後はカネ欲しさに賛成に回る”
そこには、”国からの財政赤字補填を必要とする”佐賀県の不可避な現実が大きく横たわってます。
人口5000人弱の玄海町にとって地域振興補助金というのは死活問題でしょうが、放射能汚染の疑いある土地へ足を運ぶ客なんて1人もいないと思うですが・・
ロシアとの関係が良好であれば、シベリアの永久凍土深くに埋めてもらう事も可能だとは思うんですが・・日本は西側についたお陰で今は敵国です。
前々から噂されてた事ですが、原子力ムラの醜悪な実態を考えると・・・
それ迄はパートナーに任せっきりで、私はゴミ集積所で不法行為を見張っている年寄りを
暇な黄昏老人達よと訝し気に眺めていました
カラスがゴミ漁りした後がどうなろうとか殆ど気にも留めない私でした
ゴミ屋敷に住むのを厭わぬ一部の者を除き人は自分の居住する近辺に
異臭を放つゴミを置きたくないと出来るだけ遠避け様とするものです
核のゴミも同様ですが、家庭から出る生ゴミ処理とは全く次元の異なる噺となる
今、転象さんが棲む隣県が核のゴミ処理場として全国から注視されていますよね~
誘致前の地質調査費獲得に向けて旅館業界などが行政に働き掛ける姿がニュースで映し出されていましたが
これが原発ムラを下支えする地盤になるんだと哀しい思いで見せ付けられました
最もアブナイと分かっている人達が最後は小金欲しさに賛成派に回る
これは沖縄基地問題にも通底している事で、「最後はカネメ」の現実的問題です
さて、国からチラつかされる地域振興補助金を財政赤字補填に必要とする佐賀が
今後ドンな猿芝居をするかでしょうネ~
核保有国って、人類滅亡の最前線に位置するんですよね。
核を保有してさえいれば戦争時の盾になるというのは、遠い昔の事で、今では危険すぎるガラクタに過ぎない。
原発問題も自治会や隣組と同じで、排除する方向で議論を進めるべきなんですが、”昔からやってる事だから”とか”上様が決めた事だから”と、結論ありきで殆ど議論すらなされません。
それに農耕島民の特徴ですが、(数学の様な)こうしシリアスな難題には取り組もうとはしないですよね。
いつもいつもコメント有り難うです。
まさに臭いものには蓋ですね。
しかし蓋をして隠蔽しておいたら、ますます臭くなるのが腐ったゴミの特徴です。
そんな腐ったゴミを抱えている日本。
最近の核保有国の問題と相まって、これは人類の滅びの始まりではないかとさえ思わせられます。
こうしていつも私達の気づかない、あるいは気づかないふりをしている問題を掘り起こして記事にしてくださることには感謝しかありません。