先日、柳川市の敬老会の包み物として、バスタオルとお菓子(2箱)が隣組の世話人様から贈られてきた。
何度も家を訪ねてきたらしいが、前々から私はこの手の贈り物を断ってはいる。
会費はタダじゃないし、ゴミも増えるし、世話人さんも大変だろうという事で、会う度に言ってる事だが、”市の方針”という事で、なかなか受け入れてもらえない。
何にストレスが貯まるかと言えば、「誇大包装」でも書いたが、包装が大げさすぎるのだ。
たかがバスタオルに分厚い箱はないだろう。それにお菓子にしても、派手な化粧箱に1つ1つご丁寧に几帳面に包装されてる。
宝石箱じゃないんだし、ここまで大げさにすべきなのか。
贈り物にするなら、せめてゴミ指定袋とか商品券とか、そういう嵩張らなく(投函できる)実用性の高いものにしてほしい。過剰包装で嵩張るのだけは避けてほしいと思うのは、私だけじゃないだろう。
それに、CO2削減でゴミ分別も各市町村にとっては、とても神経質になってる現状を考えると、余計にそう思う。
燃えるゴミ削減対策
我が柳川市も、燃えるゴミと雑紙や雑プラの分別は必死で行っている。
特に、隣町と共同で新しい焼却炉を作るらしく、燃えるゴミの量で負担金が変わるそうだから、余計に必死なのだ。
先日も、小さな化粧瓶とコンセントタップを燃えゴミの中に巧く忍ばせてたつもりだったが、見事に分別されていた。ゴミ収集員達の奮闘ぶりには頭が下がる思いがする。
しかしそんな柳川市も、未だに市報や特報や地域新聞はペーパーレスではない。特に市報はA3のカラー版で24ページもあるが、記事内容は絵日記のレベルである。
市報アプリにすれば、リアルタイムに記事の更新と追記が可能だし、スマホを持たない高齢者だけに配ればいいので、印刷費や紙代やゴミ分別の経費も(作業員の)負担も大きく削減できる筈だ。
つまり、CO2削減や環境問題や地球温暖化対策と言いながら、逆に無駄ゴミを増やす政策を未だに続けている。
これじゃ、現場がいくら努力してゴミの分別をしても、燃えゴミもCO2も減る筈もない。こういう事が解っていながら、市は何も対策を立てない。
そこで今日は、日本伝統の”包みもの”文化の是非について考えたいと思います。
以下、「いろんな包むを考える」から一部抜粋です。
クレイジーだけど尊い?日本の包装文化
日本人だけじゃないのかもしれないが、これほど”包装”を大切にする文化を持つ国民はいないのではないか。
ともあれ僕たち日本人は、何でも包んでしまう。とりあえず包んでおけばいいと思っていたりする。
武家社会の頃からか、”風呂敷”なんてのが古くから存在する。結び方もちゃんとあるし、この風呂敷文化は未だに存在する。
アメリカ人からすれば、”ほどいたり結んだり面倒やし、鞄でええやん”て突っ込まれそうだ。
それに、ご祝儀とか贈答品とかが凄い。
”ふくさ”に包んだご祝儀袋を渡す訳だが、このご祝儀袋自体が水引で結び包まれてるし、開けたら中袋が出てきて、更に中袋の中に紙に包まれた紙幣が出てくる。
全く、何回包めば気が済むのか。
多分、国外の人からしたら信じらない”アンビリバボー”な文化である。
海外映画のクリスマスプレゼントの開封シーンでは、届いた荷物を素早くババッと破き、中身を目にして”うわぁ~~見ろよ、ニンバス2000、それも新型だ!”
なぁ〜んてなる。
つまり、主役は包みものではなくニンバス2000(中身)なのだ。
(海外では)大体において包装が陳腐であり、これは贈る側も受取る側も”包み”でなく”中身”を重視してしてる。お互い中身が大事だから、”包もう”という包装文化は醸成されない。
一方で、日本人の”包む”文化は、そのあまりの尊さに慄く程だ。
このコラマーは、プレゼントを贈る時の荷造りの時間が一番好きだという。
どうせ”解かれる”のだからではない。行きつく先が中身だなんて、誰でも知ってる。
つまり、荷造りという手間が生み出す、送り手へ想いを馳せる時間ほど尊いものはない。誰も見てなくとも、そこにかける時間は無限の価値を生み出す。
プレゼントを送られた時は、開けるまでのプロセスが尊いのだ。ゆっくりと梱包された紙や箱を解く、その瞬間が長いほど、自分の心は相手の想いへと近づく。こんなに素晴らしい思想があるだろうか。
多分、この人は崇高な吟遊詩人か?SMマニアか?(気持ちは解らなくもないが)私にはとてもついていけそうにもない。
包む事は生命の根源である
生命にとって貴重な単位である細胞は多くの膜を内部に有する。
細胞膜(一番外側)と核膜の2重の主要な膜に加え、さらに、ミトコンドリアも二重の膜を有し、ゴルジ体というタンパク質を輸送する為の膜もある。
これらの細胞内小器官は全て、何かを”包む”事で生命現象の営みに極めて重要な役割を果たす。
その上、我々の遺伝情報をコードしてるDNAまでもが、”包む”事でその恒常性を維持する。つまり、DNAと呼ばれる2重螺旋の遺伝子の鎖は、ヒストンと呼ぶ塩基性のタンパク質を包み込む事で鎖どうしが凝集し、まとまった形(ヌクレオソーム)を形成できる。
私たちの身の回りが、それだけ”包まれ”てるのなら、”包む”事で幸せになる人って、沢山いるのではって思う。
モノを包むのは、贈り物だけじゃない。
人の心も温かい気持ちで包む事ができる。音がその場を包み込む事で、雰囲気が醸成される。匂いは見えないけど、包む事も包まれる事も出来てしまう。
包むものと包まれるもの、どちらがいいという事はなく、両者の関係性そのものが尊いのだ。
以上、Principles of Interestingさんのコラムからでした。
最後に〜風呂敷と重箱の文化
私が子供の頃は、冠婚葬祭の”包みもの”が一つの立派な行事として行われていた。
漆塗りの重厚な箱の中に、引き出物の料理や饅頭やお菓子が入ってて、3段重ねの重箱の一番上に、ご祝儀が入った封筒が乗せられてた。
それらを風呂敷で包み、一件一件訪問し、ご丁寧に挨拶をして、包みものを贈る。
一方で贈られた側は、風呂敷をほどき、重箱を開け、中身を別皿に取り出し、中身をよく洗ってから、再び重箱を重ね、風呂敷で結び、お礼と共にお返したものだ。
つまり、ゴミは一切出ない。出るのはお互いを尊重し合う気持ちだけである。
それが、今では風呂敷と重箱の手間が省かれ、それらに代り、ご丁寧にも豪華絢爛の化粧箱という”地球を汚す”だけ雑紙になっただけである。
故に、上で言われてる様に包装文化といえど、その包装自体に快楽を覚え、楽しんでた訳でもない。
変態ショーやSMプレーなら、無駄な包装(衣装)もなく環境を汚す事もないが、”誇大包装”は文化というより、自己満足という名の無駄と言えなくもない。
つまり昔の人は、無駄を徹底して省くという文化も包装文化の1つでもあった事を十全に理解してたのだと思う。
しかし我々日本人は、”おもてなし”も”もてなされる”事も大好きな民族だ。
故に、モノを大げさに幾重にも包装し、オモテナシの形で相手に届けるという過剰包装という名の余剰文化が生まれたのだとしたら。
しかし、そのオモテナシの包装文化が大きな副反応を引き起こし、地球環境を破壊するとは、これまた何とも皮肉な事ではある。
むかしの日本は「リサイクル」が当たり前だったんですよね。
それが「消費文化」「使い捨て文化」になったのは、戦後。
おそらくはアメリカの影響。
最近町には古着屋が多くなってきましたが、これは「リサイクル文化の復活」というよりは「不況」だからなんでしょうね。
醤油や酢や油は量り売りでしたし、ペットボトルなんてなかった。それに、ペットボトルって押出成形で作るので、人的負担が大きいんですね。リサイクルにも手間が掛かるし・・・
古着屋も結構高いし、新品買った方が安い場合もあるし、消費文化とリサイクルって両立はできそうにもないかもですね。
これこそが一番の余計であって
地球を汚すだけの人間の強欲(エゴ)なんだよな。
包むこと自体は害じゃないけど、それだけが独り歩きし余計な風習を生み出し、やがて文化や伝統として定着する。
キャバ嬢の着飾った衣装と同じで、夜の街に毒を撒き散らしてるだけなのかな。
結局、オモテナシの文化って日常生活だけでなく、夜の街でも悪い意味で幅を利かせてるんだろうな。
結局は無駄そのものなんですよ。
包装と同じで、”小さな親切大きなお世話”の典型です。
包むって生命の根源みたいに言われるけど、過剰包装は逆に生命の危機に向かう様な気がします。
言われる通り、キャバ嬢のエロい衣装も誇大包装という点では同じですよね。