天才画家っていう人種は、その才能とは裏腹に、複雑で奇怪で不幸な生涯を送る人が少なくない。35歳で耳を切り、37歳で自殺した。”炎の人”や”狂気の天才”と謳われた、オランダの至宝であるゴッホ(1853-1890)の紹介です。
特に、「アルルの寝室」は日本でも有名な傑作ですね。
実はこの「アルルの寝室」には、3つのバージョンがあります。1つ目(写真上)は、憧れの南仏のアルルに移り住んだ時に書いた絵。2つ目(中)は、精神病院の中で書いた絵。3つ目(下)は母の為に書いた絵。
因みに、1枚目が完全オリジナルで、2枚目と3枚目がその模写である。模写と言ってもゴッホの”直筆”ですが。
1888年10月に描かれた最初の「アルルの寝室」は、実はアルルに来る直前に描かれてます。
日本の浮世絵の強い影響を受けたゴッホは、明るい太陽の南仏生活に魅せられ、色彩を明るく陰影をなくす事に集中した。故に画面全体に温かさが満ち、それぞれの構成が生き生きと蘇ってきますね。
1886年にパリへ渡り、ゴッホの作品には劇的な変化が訪れる。これまで灰色や茶色を基調とした典型の、オランダ•”ハーグ派”の写実的な作風から離れ、原色を用いた”印象派”の手法を使う様になった。
「アルルの寝室」の年の初夏に描いた「麦畑」では、小麦畑が画面のおよそ2/3を占め、黄色が燃え盛る様な強烈な景色が印象的です。
「アルルの寝室(1888)」
アムステルダム•ゴッホ美術館所蔵
実はこの時が、絵画と同様にゴッホが一番光り輝いてた時期で、貧乏なゴッホは、「黄色い家」と言われる家の2階の2部屋を借りた。共同で借りれば、その分経費が浮くと考えたのだが。
勿論、家賃を出してくれたのは生涯ゴッホを支えた弟で、画商のテオであった。しかし、画家仲間は誰もゴッホの誘いに乗らない。
しかし、待ち焦がれた運命の画家ゴーギャン(1848-1903)が、この黄色い家にやってくる。
テオにアルルへ行くよう促されたゴーギャンも超貧乏だったから、誘いに乗っただけの事だったが。ゴッホはこれを偶然ではなく運命だと勘違いした。
喜び勇んだゴッホは、彼の為に特注の「肘掛け椅子」を用意する。
ゴッホはこの「アルルの寝室」について、”色彩だけで全てを決めよう。簡単に描き、安らかな眠りを表そう”と考えた。
”ゴーギャンがくれば、もう独りではない。一緒に絵を描き、語り、そして、この部屋で安らかに眠れる”という気持ちが、そのままこの絵に描かれてた。
しかし、ゴッホのこの”安らかな眠り”は長くは続かなかった。性格的にも芸術的にも、ゴッホとゴーギャンはかけ離れてた。ゴッホの厚塗りとベタ塗りが、ゴーギャンには気に食わなかったし、ゴッホはゴーギャンの絵に対し、一々注文をつけた。
ゴッホのストレスは溜まる一方で、最後には”耳切り事件”というの悲しい結末を向かえる。
「アルルの寝室」を描いた、僅か2ヶ月後の事だった。ゴッホはゴーギャンを襲い、その手で自らの耳を切り落とし、娼婦(の小間使い)に送りつける。勿論、警察沙汰になり、精神病院に送られる。
「ゴッホの寝室(1889)」、シカゴ美術館所蔵
11ヶ月後の1889年9月、ゴッホはサンレミの精神病院で、「アルルの寝室」の模写を2枚描いた。2枚目の「ゴッホの寝室」はオリジナルに比べ、強い線が目立ち、床の表現が豹変してます。”アルルの夢”破れた落胆ぶりが、露骨に表現され、敢えて筆触を残す様な、少し硬い作風になってます。
しかし、失意の中にも制作意欲と復活の気概を感じさせますね。
3枚目のオルセー美術館所蔵の「アルルの部屋」は、オランダに住む母親や妹にあてたもので、2枚目と殆ど同時期に描かれた。身内向けの為か、サイズを縮小させ、線も柔らかく、全体にアットホームに感じますな。
私的には、ゴッホの狂気と闘争心が剥き出しの2番目の作品が一番かな。芸術家は運命と抗ってナンボですな。
因みに、同じ1889年に「糸杉」の連作を描き始めたゴッホだが、墓場に植えられるこの”糸杉”は、死の象徴ともされる。既に、この時にゴッホは、自らの死を暗示してたのかもしれない。
日本ではゴッホと言えば、この「アルルの寝室」が有名だが、実はそれには訳がある。
川崎造船所の社長であった松方幸次郎が、戦前に私財を投じ、西洋美術品や海外に渡った浮世絵などを収集したんです。しかし、戦後になって、その多くはフランスから返還されたんですが、最高傑作の1つ「アルルの寝室」は、残念ながら返還されなかった。全く3枚の内1枚でも返せって言いたくもなりますな。
ゴッホという人
「ゴッホ展」が、上野の森美術館(10/11〜2020/1/31)、兵庫県立美術館(2020/1/25~3/29)で開催される。本展では、初期作から晩年の代表作まで約40点の作品を披露し、ゴッホの短くも濃密な画業をたどる旅ですかな。
東京と大阪だけで、全国ツアーではないのが残念ですが。でも、ゴッホの複雑で奇怪な生き様を思い浮かべながら、傑作を眺めるのもヨシかもです。
フィンセント•ファン•ゴッホ(Vincent van Gogh)は、1853年にオランダ南部のズンデルトに、牧師の子として生まれ、15歳から美術商に勤めるも7年後に退職。その後は牧師を志しますが、これまた挫折。一時は聖職者を目指すも、厳しい受験勉強に晒され、精神を病んでしまう。
その後放浪の旅が続くも、1880年、27歳で画家をめざし、ブリュッセルやアントウェルペンで画学校に入る。この頃から弟テオからの生活費の援助を受けるようになる。初期のゴッホは、ハーグ派のミレーやルソーの影響を強く受けます。
ゴッホは殆ど独学で絵の修業をするも、1886年にパリに出て、ピサロ、ドガ、スーラ、ゴーギャンらの印象派と出会い、ポスト印象派として、その才能を大きく開花させますが。1890年にパリ郊外で自殺、享年37歳。
ゴッホの作品は、油彩900点やスケッチ1100点などが残っているそうだが、傑作のほとんどは、アルルに移り住んだ1888年2月から死ぬまでの2年半の間に描かれた。
感情の率直な表現と大胆な色使いで知られた、ポスト印象派を代表する画家ではあったが、その天才的な芸術の才とは裏腹に、ゴッホの精神は、非常に繊細で複雑で脆いものでもあった。
最後に
若い頃は、その才能に見合った評価を殆どされず、その満たされぬ思いが、ゴッホの絵画に異次元の生命力を吹き込んだのは確かではある。
皮肉にもゴッホの複雑な生涯と不幸は、ゴッホの絵画にとっては大きな恩恵でもあった。卓越した才能は偉大な作品をもたらすが、天才の人生には全く寄与しない。
ゴッホをゴッホたらしめたのは、奇怪で紆余曲折した人生と、崇高な精神と濃密な情熱ではなかったか。
因みに、ゴッホは銃で自殺したとあるが、これも憶測に過ぎない。生前、彼の卓越した才能は、誰しもが認める所で、彼の異次元の才能に嫉妬した人が殺害したと思えなくもない。
有名な”耳きり事件”もゴッホの歪んだ精神ではなく、濃密な情熱がそうさせたと思うのだが。
生き様が難解で複雑すぎましたかね。ただゴッホと言うと、狂気というより闘争心や情熱をより強く感じます。
ただゴッホの時代は周りに天才芸術家が沢山いたので、そういう意味では幸せだったかな。
キャリア初期という事もあり、新鮮で誠実な筆使いが素晴らしいです。
同じオランダの画家レンブラントの影響も強く受けてるんでしょうが。オランダ調のシックな色使いはいつ見てもいいものです。
晩年は印象派の影響を受け、非常に明るいダイレクトな画風に変貌しますが。ハーグ派と印象派の二刀流といった感じですね。
躁うつ病といえば、ベートーベンもそうだったらしいです。
これは私も前にblog記事にしました。
狂気と芸術は裏表の関係なのかもしれません。
昨日の京都アニメーションスタジオの放火事件も、そういう芸術家の犯罪だったのでしょうか?
個人的にはゾラの親友のマネが好きなんですが。才能的にはゴッホが勝ってますかね。もっと長生きしてたら、どんな偉大な画家になってたでしょうか。
ただ性格的に完璧主義者で攻撃的だったようです。でも数多くの女性を愛したし、家族愛も強かった様で、芸術家にしては心が優しし過ぎたのかな。
ゴッホの場合、狂気というより才気や情熱が支配した画家というイメージです。
ゴッホの作品は死後に認められたとありますが、生前もその卓越した才能は誰しもが認める所で、私が他殺と見るのは、彼の異次元の才能に嫉妬した人が殺害したと。
ゴッホ自身も自らの成功は予感してたでしょう。故に彼が自殺するとは思えないんですが。事実、今も当時も彼を超える画家は存在しません。それはゴッホ自身が一番感じてた事ではないでしょうか。
超天才には色んな疑惑がついて回りますね。