もし彼女が以下の様に叫んでくれてたら、温暖化騒動が”大金をドブに捨てた”だけの空騒ぎに思えたかもしれない。
”日本では脱炭素政策に2005年から年間3~5兆円使っています。今のままだと2030年まで使い続け、総額は100兆円を超すでしょう。
出所は電気代の上乗せ分と税金だから、国民一人当たり100万円を(怪しげな)誰かに貢いでいます。
(温暖化という)ウソに騙されてお金を吸い取られる。温暖化を防ぎ化石資源の消費を減らすという能書きは、今までも完璧な空振りで、これからも成功の目のないシナリオに私達はお金をかけている。
果たして、こんなウソがまかり通っていいのだろうか”
勿論これは、グレタさんの発言ではないが、温暖化を叫ぶには、こうした明らかな矛盾やデメリットもきちんと叫ぶべきだったろう。
温暖化の14のウソ?
「気候変動・脱炭素、14のウソ」(渡辺正 著)では、脱炭素やSDGsの明白なウソと矛盾を科学的に解説し、一方でこうした科学を政治と結びつける危険性を説く。
CO2の大きな貯蔵庫は植物と海で、地球はこれらをクッションとして、永い間、温暖化と寒冷化を繰り返してきた。
メディアや多くの専門家は、”代替エネルギーが善で従来型エネルギーが悪である”という脆弱な二元論を振りかざす。
論理的根拠を殆ど持たない、いや論理的思考を扱えないグレタさんが(カルト臭い)脱炭素論を喚くのは理解できなくもない。
エセ?脚本家の父と怪しげな自然保護団体と一部の金持ちに支えられた、このアスペルガー症候群のビーガン娘は、オミクロン株の如く(毒性は低いが)”温暖化の危機”という曖昧なウイルスを拡散し続けてきた。
事実彼女は、”あなた方が話す事と言えば、お金や永続的な経済成長というおとぎ話ばかりで・・・つまり、あなた方は私たちを裏切ってる”と国連で喚いた。
がしかし、脱炭素こそがお金になる空騒ぎであり、私達を裏切ってるとしたら?
CO2がどれだけ温暖化に寄与してるのか?(昨今の議論を見る限り)正確に検証されてるとは言えない気がする。
この書では、CO2の排出と気温の上昇との因果関係は科学的に確認されておらず、”温暖化は長期周期で生じる自然変動である可能性がある”と書かれている。
この”自然変動”だが、地球科学の視点から言えば、地球は10万年周期で温暖化と寒冷化を繰り返し、その間にも小さな温暖化と寒冷化が繰り返される。天体物理学の視点では、太陽系は天の川銀河の中を一周2億5000万年の周期で公転し、この公転中に地球を含めた太陽系惑星が受ける影響は小さくない。
こうした太陽系の中での”惑星どうしの引き合いがもたらす地球と太陽の距離変化が地球の気温変化に多彩な周期をもたらし得る”と説いている。
一方で、COP(締約国会議)の怪しげな実態にも触れ、COPは”南北問題”を協議する場で、CO2削減には結びつかないと。
COPは1980年代末の東西冷戦終結後、仕事の減った国連関係者と環境研究者が(CO2排出と温暖化の因果関係を調査せずに)気候変動を口実に途上国支援の為に<富の再分配>を目的として始められたとされる。
事実、昨年末のCOP27では先進国(=加害者)と途上国(=被害者)の罵り合いの場に堕し、本気で”CO2削減を目指す国など存在しない”というのが実態のようだ。
更に、太陽光・風力発電とEVは環境・コスト・国防・経済リスクの各観点から多くの問題があり、実際にコストが掛かりすぎて、結果的には環境を汚す。その他、あまりにも政治的色が濃すぎて、科学的な検証が曖昧に浅薄になってしまったカーボンニュートラル。
グローバル何とかと同じで、言葉だけが独り歩きし、最近では殆ど説得力を持たなくなってきている。
以下、「気候変動・脱炭素、14のウソを読む」より一部抜粋です。
脱炭素のウソと事実と考察
前半の”気候変動編で”は、7つのウソと同様にそれらに対応する事実も述べられている。
つまり、世間一般に漠然と蔓延するウソを検証する為には、科学的に考察された客観的事実が必要なのだ。これは数学の問題を証明する為に、命題や定義が必要なのと同じである。
例えば、1つ目は、”地球の気温は近年、ものすごく上がってきた”というウソに対し、”温暖化が話題になって約30年のうち、体感さえしにくい0.2〜0.3℃しか上がっていない”という事実。そして、”気温データが温暖化論議の最重要項目にも拘わらず、どこでどの様に観測され、処理されたかによって、同じ現実が違うように見えてしまう”という考察。
2つ目の”IPCCの気温グラフは現実をよく表している”とのウソに対し、”都市化は気温を上げやすい。IPCCのグラフは、種々の気温補正が都市化バイアスを含む為に、現実より大きい気温上昇を示す”の事実。そして”八丈島の気温データは3種類あり、それぞれ異なる”という考察。
3つ目の”近ごろ台風が凶暴化し、水害も増えてきた”というウソに対し、”台風は80〜60年前の方が強かった。乱開発やインフラの老朽化が主因と思える水害も多い”という事実。そして、”発生数・接近数・上陸数を見ても、経年的な顕著な傾向は観察されないが、気象庁のデータはグラフで経時変化を見やすく示すべきだ”という考察。
4つ目の”人間がCO2を出すせいで北極と南極の氷が減ってきた”のウソに対し、”北極圏は水温が自然変動の上昇期にある為に海氷も減少傾向を示す。が、南極圏の氷が減った気配はない”の事実。
そして、”海の表層水温がほぼ一定周期で変動する事は(以前は常識ではなかったが)、現在では広く知られてる。しかし、今でもマスコミ等は海水温が上昇すると<温暖化のせい>と騒ぎ立てる。
事実、海水は大気よりも熱容量が1000倍以上も大きく、故に、大気温が少々変動しても海水温は殆ど変化しないが、海水温が変動すれば大気温は敏感に反応する。エルニーニョやラニーニャの影響が大きいのは、その一例である”という考察。
(”氷河の縮小”と”サンゴ礁の異変”である5番目と6番目を飛ばし)最後の7つ目は、”地球の気温が大気のCO2濃度が決めてきた”というウソと”気温とCO2の因果関係はまだよく解ってはいない。長い地球史にて、CO2濃度が気温を決めた時代は殆どない”という事実。
そして、”過去の気温変動を過去170年間と、同じく凡そ2000年間、同42万年などの異なるスパンで見た後、CO2濃度変化との関係を見ている。結果的に、どのスパンで見ても気温変動とCO2濃度変化に関しては、相関関係で見ると逆相関の時期があったり、時間関係で言えば前者(気温変動)が先で後者(CO2濃度)が後の例が多く、大気中CO2濃度が気温を左右してきたとする根拠は薄い”という考察。
ここで前半部は終わるが、科学的な基本事項はほぼ尽くされてる。事実、ここまでの内容は、「気候変動の真実~科学は何を語り、何を語っていないか?」(スティーブ・E・クーン 著)や「温暖化のファクトフルネス」(杉山大志 著)などとも殆ど共通である。
これはある意味当然で、地球環境の真実を科学的に正確なデータで眺めれば、見えてくる風景は同一である。故に、地球環境を議論するのであれば、まずはこれら内容を前提条件的な共通理解として用いるべきだと思う(松田智)。
以上、AGORA.web.jpからでした。
「”地球温暖化”狂騒曲ー社会を壊す空騒ぎ」(2018)で有名になった渡辺正氏だが、地球温暖化の根拠となる気温データは加工され、国連やメディアや一部研究者が主張するCO2排出増加による温暖化の脅威は”人為的なから騒ぎという他はない”と温暖化のウソに警鐘を鳴らした。
日本では毎年3兆円もの巨費が温暖化対策費として使われてるが、CO2は毎年順調に増え続けてる(笑)。全くカーボンニュートラルとは聞こえはいいが、”税金をドブに捨てる”のと同じ次元の無駄である。
事実、パリ協定の元手日本は、2030年までに約80兆円も使いながら、地球を0.001℃も冷やせないだろう。それほど不合理な脱炭素対策に、各省庁と大半のメディアや多くの専門からは、なぜ喝采を送り続けるのだろうか?
こうした40年足らずの狂乱史に、著者は最新科学のメスを入れ、解剖する。
今、”温暖化狂騒曲”の不協和音が高まりつつある中、我々はどうやって社会の健全化へと向かえばいいのだろうか。
最後に〜ドブに捨てられた温暖化問題
全く、”ドブに捨てる”のは税金ではなく、”脱炭素”なのに、政治家やメディアらはCO2と温暖化を作為的に強引に結びつけ様としている。
そんなにお金が欲しけりゃ、一生懸命に働いて(汗とCO2を放出し)稼ぎ出せと言いたいが、グレタと同様にCO2を悪者呼ばわりするだけである。勿論、カーボンニュートラルと喚き散らすだけで大金が転がり込むんだから、これほど楽な商売もない。さぞ地球には優しいのだろう(笑)。
しかし、ロシア=ウクライナ戦争で石炭を燃料とする火力発電が欧州で復活した事は、脱炭素論支持者から見れば、とても皮肉な事だが、これも自然の摂理である。
事実、2021年末のロシア=ウクライナ戦争の真っ只中で行われたCOP26にて、欧州の主要国が表明した”CO2ゼロ”の公約は(当然の事ながら)意味をなさなくなった。
冷戦終結後の数十年間、世界は安定し、エネルギーは容易に手に入った。お陰で、豊富なエネルギーが如何に重要であるかを多くの人は忘れ去っていた。そして脱炭素ブームが起き、現代社会が化石燃料に依存してる事も忘れ去られた。
しかし、石油・ガス・石炭の供給は国家の運命を左右し続けている。事実、過去30年間に渡り、再生可能エネルギーへの移行に世界は莫大な資金を費やしたが、この基本的には何も変わらなかった。まさに”お金をドブに捨てる”とはこの事であった。
プーチンの侵略戦争で、世界は再び冷戦の時代に入った。が、”エネルギー資源の確保”という根本的な問題が復活し、温暖化問題の優先順位は大きく下がった。
一方で(皮肉な事だが)、エネルギー安全保障に焦点が戻る事で”CO2削減が進む”かもしれないという識者の声もある。
悲しいかな、プーチンの狂った侵略が”脱炭素の切り札になる”とは、誰が予想できたであろうか?
結局、”温暖化”は社会を空回りさせただけの狂騒曲に過ぎず、グレタの狂った叫びも空騒ぎに過ぎなかった。
冷静に考えなくとも、CO2ゼロという目標自体が、大金をドブに捨てただけの幻想であったのも事実であろうか。
確かに、狂っていたのはグレタやプーチンだけでなく、地球温暖化という空芝居に振り回され続けた、我ら愚かな人類だったのかもしれない。
1人の狂った娘の叫びにより温暖化が狂騒曲にまで発展し、1人の狂った独裁者の戦争によりその温暖化狂騒曲があっさりと死滅する。そしてCO2は程よく減少する。
渡辺氏が言う”社会の健全化”とは、こうして得られるのだろうか。
”温暖化は戦争よりも奇なり”とは、こういう事を言うのだろうか。
今回の投稿で「思考する機会」を与えてもらいました。
ありがとうございます。
脱炭素、温暖化などについて
専門的な知識を持たない自分としては、
何が正しく、どれが正しくないかの判別はできません。
しかし、物事は常に多面的で
改めて「鵜呑みにする危険」に気付いたのは確かです。
誠に小さな環境保全活動に仕事として関わっていますが、
続けるうちに次第にビジネスになり、
それを維持することが第一になる。
そんな経験はしております。
善悪は表裏一体。
何事も考えながら行わなければなりませんね。
では、また。
言われる通り、物事を多様的な視点で捉え、その本質を考察するというのは、論理的思考の基本ですが、温暖化説の多くは空騒ぎという(科学的な検証を無視した)ある種のブームに近いものと言えますね。
渡辺氏が書いてる事は、外国でも一部言われてる事でもあり、一旦頭を冷やし、再検討する課題でもあると思います。
勿論、温暖化説の全てが間違いである筈もないし、まともな論説もなくはないのですが、あまりにも狭義的視座に偏り過ぎてる事は事実です。
広義的に物事を検証する必要性を唱えただけでも、この本は参考にするものがあるとは思います。
ガウスは広義のレムニスケートの定義式を∫dφ/√(1+μ²sin²φ)と書いたけど、ヤコビの表現では∫dφ/√(1−μ²sin²φ)と第一積分表示の形になる。
つまり、ガウスは楕円関数論については(複素楕円関数として見れば)慎重な検証が必要だと思って公表しなかった。一方で気の早いヤコビは、そんな暇があるもんかと言い放った。
これと同じ事が温暖化論争でも起きている。
狭義の温暖化説か?広義の温暖化説か?
これからが本格的な論争に突入するんだろうね。
そこまで見抜かれると頭下がります。
言われる通り、従来の温暖化説は狭義の論説であり、温暖化のウソを暴く新たな温暖化論は広義となりますね。
プーチンの戦争により、”CO2ゼロ”ミッションが不可能になった今、温暖化に対する新たな議論が必要となってきました。
つまり、これから様々な議論がかわされるでしょうから、そういう所に期待したいですね。
ヒステリックで醜い娘だったからこそ
同情を生み、世界中に大ウケしたんでしょうか。
言ってる事は完全なウケウリでしたから・・
でも今では話題にもならず、殆ど忘れ去られてる存在で、国連での主張よりも外見の醜さだけが独り歩きした様なもんでした。
可哀想ですが、これも彼女が選んだ運命です。
(プーチンの如く)人は一度狂ううと、元には戻れない様に、彼女が普通の女性になるのは無理でしょうね。
コメントいつもいつも有り難うです。
地球の長い歴史から見た温暖化に分けて考えるべきだと思う。
ゼロミッションと聞こえだけはいいんですが、そういうのってすぐに忘れ去られるんですよ。
事実プーチンの戦争で吹っ飛びましたからね。
結局は脱炭素と言っても背に腹は代えられられないってことか。
しかし、巨大なお金が動くビジネスと見るや(エセ活動家も含め)あらゆる欲深い人種が集まり、こうしたブラックな部分を払拭する為にグレタ娘を起用したんですが、”空騒ぎ”に終わってしまった。
言われる通り、議論のネーミングもCO2削減から脱炭素、カーボンゼロ、ゼロミッション、カーボンニュートラルと様々に変異しました。
ロシアウクライナ戦争によりゼロミッションは白紙に戻り、そのしわ寄せは途上国に及びつつあります。
こうなると、CO2問題の議論は腐っていくばかりです。
まともな議論に戻すには、(陰謀説なんかもそうですが)個々の利得を抜きにして話し合う必要があるでしょうね。
発散する危ない部分を除き領域を少し狭めた区間の積分値を求めて、その値の極限をとるという巧みなトリックに近い表現です。
極限をとるという操作は、無限大やゼロに関する演算を許す事で通常の定積分のように計算出来ます。
でも本当はまずいけど、大丈夫な事が多い。
故に、多くは間違ってはいないからという事で広義という言葉を使う。
大丈夫でない例として、明らかに有限値なのにゼロや発散の値をとる事がある。
原因は積分値が両端の値のみで決まるのと、極限を取ることにあります。
故に正確に積分値を求める場合は、関数に応じ定義に従って計算すべきですね。
一般的には広い意味でとなりますが、数学の世界では微妙に異なります。
温暖化論争の場合、広い意味でがどこまでを総括するのか?
数学と同様にシチュエーション毎に条件を分けて慎重に考える必要がありそうです。
私なんか軽々しく”広義”って言葉を使ったんですが、数学にても温暖化問題にても慎重に言葉を選ぶべきですよね。反省!反省!
厳密に言えば、広義積分とは(積分の一種ではなく)、lim[b→c]∫[a→b]f(x)dxか又はlim[b→a]∫[b→c]f(x)dxかの極限の形で示され、定義とは異なるんですよね。
つまり広義積分とは極限の事で、有限値に収まる時もあれば発散する時もある。
特に(後者の様なケースで)積分が定義出来なくとも、その極限値が存在する場合を(通常の積分に帰着できないとして)”真の”広義積分と呼ぶらしいですが、私には少し理解し辛いです。
ともかく、何事も慎重にという事なんでしょうか。
答えになってなくて、スンマセンです。