デビ夫人を慕う女性は少なくない。その壮絶な貧困の時代を生き抜き、大統領夫人にまで登り詰めた、逞しき女性ではある。
しかし、この女性を見てると、ある種の匂いがするのだ。若く美しい時の写真を見ても、何となく独牙の香りがする。実際そういう女を何人か見てきた。
「選ばれる女になりなさい〜デビ夫人の婚活論」のタイトルを見て、バルザックの「捨てられた女」(バルザック)のボーセアン子爵夫人を思い出した。
そこで今日は、デビ夫人”探訪”です。
選ばれし、ボーセアン子爵夫人
ボーセアン子爵夫人は、かつて社交界の花形で、パント侯爵と恋に落ち、駆け落ちし、”捨てられ”てしまった。その後、彼女に恋い焦がれてた、若き男爵との9年に渡る同棲生活の後、捨てられるのを恐れた彼女は、一旦は姿を消す。
プライドの高い女性だからこそ、捨てられた時の惨めさを二度と味わいたくなかったのだ。しかし彼女は、再び捨てられる。
一見、デビ夫人と似た様な境遇だが、貧民で娼婦と貴族の大富豪という、明らかな”出”の違いがある。故に、”選ばれ、捨てられし”ボーセアン子爵夫人が、”選ばれる女になりなさい”と語るのなら、十全に理解できるし説得力もある。
ボーセアン子爵夫人と比較する訳でもないが、”デビ夫人よ、アンタが使うべき言葉じゃないだろ”って言いたくもなる。
どんな男にだって、選ぶ”最低限”の権利はある。いくら着飾って、ピカピカに磨き上げても、所詮娼婦は娼婦だ。たとえ元大統領の妻だとしても。
若作りし、着飾った老婆は好きじゃないが、それ以上にデビ夫人はどうもインチキ臭く、年齢(79歳)以上に婆臭く感じる。
困難辛苦の生き様というより、デビ夫人は粗雑な苦労をし過ぎた。何でも度が過ぎると、すぐに歪んでしまう。デビ夫人の人生観や価値観も腐ってる様に思えるのは私だけか。
”選ばれる娼婦になりなさい”
”選ばれる女になりなさい”とは非常に聞こえはいいが。言い換えれば、”選ばれる娼婦になりなさい”に聞こえてしまう。
デビ夫人は”日本人でただ一人、海外の大統領の妻になった”という派手な肩書を持つが。スカルノが大統領だった頃のインドネシアは、オランダから独立したばかりで、第3世界の超貧しい独裁国家に過ぎなかった。
そして、スカルノ大統領の”3番目の妻”とは、これも聞こえはいいが。実質には、愛人いや娼婦に近い。その上、暴力団関係者の児玉誉士夫が関わってなければ、スカルノとの結婚はなかったろう。”選ばれた”というより”仕組まれた”とも言える。そういう意味では、デビ夫人が偉いというより、児玉が凄いのだ。
そのスカルノとの結婚(1962)もクーデター(1965)により破綻。しかし、デビ夫人と結婚した翌年(1963)に、スカルノはダンサー(ハリアティ)と秘密裏に結婚してるので、クーデターがなくとも、実質1年で”捨てられ”た事になる。
因みに、スカルノの結婚遍歴は、1921(Siti Oetari)、1923(Inggit Garnasih)、1959(Kartini Manoppo)、1964(Yurike Sanger)、1966(Heldy Djafar)と正規の4度以外にも6度にも及ぶが。その大半がすぐに離婚してる。
つまりスカルノは、生涯10度も結婚した”札付き”の女狂いだ。
そんな単なる女狂いのスケベ爺に”買われ、捨てられた”様なもんだろう。結局、戦後西側諸国との関係が悪化した中でも日本との関係を重視するが故に、デビ夫人は利用されただけの事だ(”デビ夫人の内幕”も参照)。
選ばれる女は結局、捨てられる?
このデビ夫人の著書「選ばれる女になりなさい」の紹介では、”昭和•と平成を駆け抜けた最強のデヴィ夫人。誰もがハッとするような美貌を持ち、持ち前の運の強さで偶然に大統領夫人に選ばれたと思われがちですが。実は、デヴィ夫人自らが、アイディアとモテ技を駆使し、引き寄せた国を超えたロマンスなのです”とある。
この紹介の半分はデタラメである事は、上述した様に一目瞭然だろう。スカルノは嘘つかない(笑)。
人や物事の本質を探る時は、その人本人を解析するでなく、周りから外堀を埋める様に調べていくのが鉄則だ。
この本は明らかに、デビ夫人の一方的な視点で、都合の良い様に書かれてる。しかし、元旦那のスカルノから眺めれば、単なる”捨てられ女”だったのは、火を見るより明らかだ。
そうでなくとも、デビ夫人は人が言うほど美人じゃない。若い時の写真をよく見ると、ケバい化粧のお陰で何とか美人に見えるだけで、当時の日本でも彼女よりキレイな女性は結構いた筈。”大正の毒女”と揶揄された伊藤野枝の方が可愛く思えてしまう。
お世辞に言っても、デビ夫人は選ばれるべき女ではない。自分で勝手にそう思ってるだけだ。ひょっとしたら”選ばれし女”と思ってるのは、デビ夫人一人だけかもしれない。
”愛はお金で買えます”的な娼婦の論理
所詮、娼婦は娼婦でしかなく、それ以上もそれ以下でもない。娼婦で生きた方がずっと幸せだったろうに。
”愛はお金で買えます”とか”大好きな年収200万の男よりも、好きでもない年収1億の男”という著書の中の言葉は典型の娼婦の卑しい論理でもある。
でも流石、過去にバリバリの娼婦だっただけあり、説得力がありますな(笑)。
しかしこれも、”不満足なソクラテス”ではないが、”大好きな年収200万の人間よりも年収1億のブタがよく、年収1億のブタよりも年収10億のトカゲがいい”とも言い換える事が出来る。
更にデビ夫人的に言えば、”年収10億円稼ぐトカゲは、貴方の欲望を満たす事ができるわ。人は満たされてると、トカゲでも敬う事ができるの。私の周りには億以上の収入があるトカゲと結婚している方が沢山いますの。皆さん満たされてて、とても幸せそうですわ、オホホ”
でも私的に言えば、”貧しく満たされない生活でも、相手を敬う事はできる。愛には量だけでなく、次元と質がある”と言い換える事もできる。
”クソッタレ!アンタの言う事なんか、淫売の論理だわ。一生、お金持ちのポ○○ンしゃぶってればいいのよ”って、黄色い声が今にも聞こえそうだ。イヤそうでもないか。
最後に
戦前からインドネシアは日本にとって大陸進出の重要な拠点だったし、その国のトップを寝取ったデビ夫人は、日本政府からすれば利用価値の高い存在だった。彼女もそれを感じ乍ら、スカルノの小さいポ○チンをデカクしてヤッテタんじゃないかな”
早速、kouunhさんへ座布団2枚です。
面白い!日本版ハニートラップですね。
児玉誉士夫の策謀がまんまとハマったと。
でももっとタチのいい美女がいたでしょうに。わざわざ娼婦を送り込まなくても。私だったら、伊藤野枝みたいな賢女を送りますかな。スパイ工作にも長けてるようだし。
昔のヤクザって本当に頭いいんですね。スカルノの女狂いを見切ってたんです。全く感心します。
派手な交友関係ばかりが取り沙汰されてますが。全て捨てられてますもん。典型の捨てられて娼婦。
選ばれる女になりなさいとは、苦し紛れの言葉ですよ。転んだサン的に言えば、たかが娼婦されど娼婦ですか。ああ無情。
でも、たかがデビ夫人されどデビ夫人、これからも老いと戦い続ける、逞しい女性なんですね。
”愛はお金で買える”という女性に、そもそも興味はないんですが。ただその言葉にもう少し深い意味があるかと思ったんですが。
私にはごく普通の娼婦にしか思えませんが。でも悪魔と言える程のワルでもないし、意外に”いい人”かも知れませんね。
ではないと思います。
いい人だったらデヴィ夫人の魅力はなくなります。
彼女はデヴィルだから魅力があると、私は思っています。
これ、別に彼女のことを褒めているわけでも貶しているわけでもありません。
そういう私は、デビ夫人がごく普通の娼婦である事を願ってるだけだと思う。
でもビコさんのデビ夫人論には尊敬の念があるし、私のは蔑視に近く、少数派ですかね。
いい人だか知らないけど、日本のメディアがチヤホヤするからツケ上がってるだけね。
シャンパングラスで人の頭叩き割るような女よ、頭が狂ってるとしか思えないわ。日本人が大人しいからいい気になってるだけ。
そう思わない?
ではまたね、バイバイ(^_^)/~
オレはデビ夫人は”話せば分かる”女だと思う。あまりにも苦労し過ぎたから、人生観が歪んじゃったんだ。
その歪んだ過激な価値観が、今の生温い病んだ日本人にはウケるんだろうね。ヌードがウケたというより。
メディアもデビ夫人を煽り、彼女もそれが判った上で、過激な言葉を差し向ける。毒を吐く程でもないが、悪女を演じる程に懐は潤うんだよ。
ウン、やっぱり彼女はいい人なんだ!
では、バイナラ。