前回の”その1”では、リーマンの第一の論文「複素関数の基礎」と第二の論文「幾何学の基礎」、そして第三の論文である「アーベル関数の理論」の間を行ったり来たりしました。少し解りづらい点もあったかと思いますので、少し頭を整理します。
まず第一の論文「複素関数の基礎」(1851年)でリーマンは、雑多な結果の集積であった複素関数論を体系化する事に成功します。つまり、”リーマン面”上のコーシー=リーマンの微分方程式を満たす正則関数が定義され、それらの関数は特異点や境界により定まるというのがリーマンの思想でした。
その3年後、第二の論文「幾何学の基礎」(1854年)では数学史上初めて”多様体”の概念を取り入れ、リーマン幾何学を確立します。そして第三の論文「アーベル関数の理論」(1857年)では、超幾何級数(解析接続による関数の級数表示)が、それを定める微分方程式の係数の特異点の位置と種類により特徴付けられる事を示しました。
同時に、他変数テータ関数論を展開し、長い間未解決だった(アーベルの)楕円関数論の本質である”ヤコビの逆問題”を解決しました。
そして、超有名な第四の論文「素数定理の明示公式」(1859年)では、ゼータ関数を複素関数とみなし、全平面に解析接続出来る事を証明します。
先述のテータ関数を使い、ゼータの対称完全等式をも発見し、ゼータ関数が素数分布に関する情報を内包してる事を発見します。中でもゼータの零点に関する”リーマン予想”は、世界で最も有名な未解決問題として未だ君臨しています。
リーマンとディリクレ
リーマンとディリクレは共に、論理を使って体系的に進めていくのではなく、まず問題を直感的に理解してから、中心的な概念や関係性を明らかにし、最後に長々しい計算を極力避け、論理的欠陥を埋めていくという手法を好んだ。
今日でも成功した独創的な数学者の多くがそうだが、証明は(数学に欠かせない必須なものだが)理解の後に導かれる事が多く、初めから厳密すぎると優れたアイデアが抑え付けられてしまう傾向にある。
事実リーマンは、”証明と理解は後から付いてくる”と語ってる。
リーマンは、20年という限られた数学者人生を通じ、常にこの方法をとった。膨大な時間を掛け、複雑な計算をしなくても考え方の大筋を追いかけれるという長所があった。一方で一部の人にとっては、コツコツと進めるではなく概念的に考えねばならないという欠点も、確かに存在はする。
リーマンは博士号取得に向け、複素解析にトポロジー(位相幾何学)的手法を導入し、その分野を書き換えた。因みに、ガウスやリーマンはトポロジーを”位置の幾何学”と呼んだ。
因みに、ギリシャ語ではトポロジーは”位置の学問”とされ、空間•次元•変換といった研究を通じ幾何学や集合論から生まれた分野。”位置の解析”とも呼ばれ、狭義的には空間内に近さや極限の概念を導入する”位相”で、より広義には位相幾何学と同義として”位相数学”とされ、最も広義には”位相空間論”とされる。
複素解析をトポロジー的表現で書き換えたきっかけとなったのが、複素関数が”多価”になるという難解な特徴である。
例えば、全ての正の実数は、正と負の2つの平方根を持つ(実数z>0に対し、±√z)。しかし、x²−z=(z+√z)(z−√z)と正と負の2つに分ければ計算は簡単ですね。
これと同じ”多価性”が複素数の平方根にもあるが、正と負という概念がないので分ける事は出来ない。
それ以上に根深い問題が、連続な複素関数の場合、1つの平方根がもう1つの平方根に重なるという珍事が起こる。故に、不連続点を絶えずチェックする必要がある。
リーマン面とヴァイエルシュトラスの嫉妬
そこでリーマンは、複素平面に手を加え、その上を走る平方根関数を”一価”になる様にした。つまり、2枚の複素平面を重ね、実軸の正の部分に切込みを入れ、上下の複素平面を繋げます。すると、この”リーマン面”上では一価の平方根関数となる。
つまり、”螺旋平面”のイメージで、関数の定義域を多価の数だけ重ね合わせペチャンコにし、多価関数を一価関数の様に扱う。一見、一枚の複素平面に見えるが、幾層にも繋がっている。
これはとても画期的な手法で、複数ある値(多価)を気にする事なく、”リーマン面”に全てを委ねるだけでいい。
リーマンの博士論文での画期的な手法はこれだけではない。「ディリクレの原理」と呼ぶ数理物理学のアイデアを使い、コーシー=リーマンの微分方程式(連続&複素微分可能な正則関数)の存在を示した。
因みに「ディリクレの原理」とは、重力場を支配する偏微分方程式(ポアソン方程式)はエネルギーを最小にする様な関数を解に持つ事で、既にガウスとコーシーが複素解析にても、同じ偏微分方程式が導かれる事を発見していた。
しかし、このディリクレの原理に、ヴァイエルシュトラスがイチャモンをつけてきた。以下でも述べますが、実はリーマンは、このディリクレの原理の厳密な証明を飛ばしていた。
お陰で少し自信をなくしかけますが、この時リーマンは、父に宛てた手紙の中で”博士論文を書き上げたお陰で自信が付いた。これから交際も講義する機会も増えるでしょうし、今はすっかり元気です”と記している。
ま、勝算はタップリとあったんでしょうか。
リーマンの複素関数論
リーマンは、この博士論文「複素関数の基礎」で、”複素関数(複素変数関数)とは何か?”という問いから始めます。
”実変数の関数の時は1価対応”という「ディリクレの変分法」(オイラーが淵元)があるが、そのまま複素関数に適用しては無理がある。
そこでリーマンは、前述の”コーシー=リーマンの方程式”という偏微分方程式を満たす正則関数(解析関数)を考えます。しかし、この複素関数には”解析接続”と呼ぶ不思議な現象が現れ、”関数であり得る領域”が付随する。
実関数では先ず、定義域(関数を考える領域)を指定し、その上で関数を考える。しかし複素関数では、その定義域は個々の関数に特異に随伴し、複素平面内だけに収まる筈のない(局所的性質を持つ)関数の領域(定義域)を1つ1つ把握する手立てが必要になる。
ではどうしたらいいのか?つまり、その手法こそが”解析接続”と言える。
論理を一つ一つ固めて先へ進もうとする前述の純粋数学者であるヴァイエルシュトラスとは、この論点が分岐点となった。
そこでリーマンは、ガウス平面(複素平面)のアイデアとガウスの曲面論の示唆を受け、”リーマン面”というアイデアを提案しました。
故に、複素平面上で関数を考える事をリーマンの第一の創意とすれば、リーマン面のアイデアは第二の創意と見る事が出来る。複素変数に関するリーマンの基礎理論は、この2つのアイデアに支えられていた。
リーマン面上の関数とは何か?それは、リーマン面という曲面から複素数域への”1価対応”です。故に、局所的に観察する事でリーマン面上の関数の”概念”が確定します。
この”一価対応”に関しては、オイラーとディリクレの存在が大きかった。ディリクレの”一価対応”ではフーリエ級数展開の概念があったから、多価関数を除外できた。
一方、オイラーには一価に拘る必要はなく、念頭には代数関数があった。勿論、代数関数は多価関数である。
しかしリーマンは、この代数関数に一価を課しました。代数関数の変数を複素領域に拡大し、その複素平面上に広がるリーマン面上において考察するという”解析接続”のアイデアで、”一価”を可能にしたんです。これこそが複素関数の学位論文の主題でした(「リーマンと代数関数論」(高瀬正仁著)を参照)。
リーマンが眺めたアーベル積分
つまり、代数関数は代数関数のリーマン面上で考察可能になる。故に、「アーベル関数論」という独自の代数関数論へ向かう強固なバンカー(防御壁)が、ここに出来上がった。
複素関数の基礎の建設にあたり、リーマンの念頭にあったのは代数関数論である。この理論の主役を演じるのが代数関数の積分、今で言う”アーベル積分”で、リーマンは”アーベル関数”と呼んだ。
そこでリーマンはアーベル積分を3つに分類します。①至る所で有限な関数(第1種積分)②ある点において1位の無限大になる(第2種積分)③2つの点で対数的に無限大になる(第3種積分)。つまり、特異点を持たないのが第1種で、第2種と第3種は特異点を持つ。リーマンはこの3種の積分が実際に存在する事を「ディリクレの原理」により確認します。
上述した様に、「ディリクレの原理」の証明に曖昧さがあるとのヴァイエルシュトラスの指摘を受けたのは、実はこの時でした。
つまり、リーマンの複素関数の基礎とは、”アーベル積分”の(存在を支える)基本原理を提示する所まででした。
この「複素関数の基礎」の論文の6年後に、「アーベル関数の理論」である第三の論文を発表するんですが。これこそがアーベル積分の応用理論である楕円関数に繋がっていく。
一言で言えば、「ディリクレの原理」を用い、与えられた境界条件(リーマン面の連結)と不連続性を持つ関数を”リーマン面”上で構成できる事こそが複素関数の基礎の実態であり、これこそが第三の論文の心臓部である楕円関数の一般化に繋がる。
リーマンの直感と洞察と正当性と
1854年に、第二の論文である「幾何学の基礎にある仮説について」で大学教授資格を取得した3年後の1857年に、リーマンは予備教授(准教授)に任命されます。
同年、アーベル積分に関するもう1つの大きな研究として、楕円関数を大幅に一般化してトポロジー(位相幾何学)的手法を発展させる成果を発表します。
それ以前にも、ヴァイエルシュトラスが同じテーマの論文をベルリンアカデミーに提出してたが、リーマンの第三の論文「アーベル関数の理論」が出ると、ヴァイエルシュトラスはその斬新さと深い洞察に圧倒され、自らの論文を取り下げたという。
しかしリーマンは、「ディリクレの原理」を使ってる所に一寸した間違いを見つけた。
リーマンはある量を最小化する関数を多用する事で幾つもの重要な結論を導いたが、その様な関数を厳密には証明してはいなかった。
つまり、物理的理由から存在する筈だと信じていた訳だが、その様な議論は厳密さに欠ける場合がある。嫉妬深いヴァイエルシュトラスは、そこにリーマンの弱点を見出したかったのだ。
当然この点を巡り、数学者は真っ二つに別れた。論理的厳密性を求め、この欠陥を深刻とみなす者と、物理的な類推に納得し、更に結果を推し進めていく者と。
後者に属するリーマンは、”論理に欠陥はあるかもしれないが、「ディリクレの原理」は結論を導く為に最も都合の良い方法だ”と主張した。結局、リーマンの結論は正しかったのである。
この様な食い違いは、純粋数学者と数理物理学者の間ではよくある事で、どんな有効な手法でも論理的に完璧じゃないとして踏み留まってるのは、物理学では殆ど意味がない。また、少しでも正当性が欠けるのは、数学者にとって犯罪の証拠の様なものだ。
ヴァイエルシュトラスの弟子のHシュバルツがリーマンの結果に対する別証明を見つけ、純粋数学者を満足させたが、物理学者はもっと直感的な方法を求めた。
最終的に、20世紀を代表する数学者の一人であるヒルベルトがリーマンの手法に敵う厳密な「ディリクレの原理」を証明し、この問題に決着をつけた。
その間に物理学者は、もし数学者の異論を聞き入れてたら、成し得なかった進歩を果たし、数学者の方も、リーマンの直感を正当化しようと努力する中で、もし物理学者の側についてたら見つけられなかった筈の主要な結果や概念を幾つも導いたのです。
長くなったので、今日はここまでです。リーマンの複素関数論を中心に述べましたが、どうしても抽象的になります。
でもキーワードは、リーマン面の境界と連続性と解析接続に絞られます。しかし、これこそがリーマン数学の主題であり、4つの論文の大きな両脚となる。
次回”その3”は、第三の論文である「楕円関数論」についてです。
しかしコーシーは、複素関数に対する正確な特徴付けに欠けてたんですね。そこで、2つの流れを行ったり来たりしてたリーマンの知の炎に火がついたんでしょうか。
つまり時代の流れもリーマンに味方したっていうことでしょうが。でもワイエルシュトラウスの嫉妬がなければこのリーマンの学位論文はもっとスムーズに受け入れられてたでしょうか。
しかし”ヤコビの逆問題”は最初から一般的な形だったんではなく、当初の形は基本問題という類でヤコビの逆問題の”原型”とされた。
その原型をそのままの形で解決した人が2人いる。ローゼンハインとゲーぺルで、同じ時期に互いに知らないままそれぞれ解決に成功したんだ。
ヴァイエルシュトラスは、この2人のヤコビの逆問題の”原型”に手掛かりを求め、一般化に向かう道筋を模索したが、リーマンはそんな時代遅れ?のバカ正直な模索をせず彼独自の斬新なアイデアがあったんだ。
その斬新なアイデアというのが”解析接続”というマジックだったんだね。それでヴァイエルシュトラスが慌てて論文を引っ込めたんだよ。
貴重なコメントとても助かります。
ヴァイエルシュトラスのやり方もよく言えば論理的で手堅い純数学者のやり方ですが、悪く言えば馬鹿正直で時代遅れになるんですね。
思わず笑ってしまいました。コメント有難うです。
一方でミンコフスキーは、ローレンツ群はガリレイ群より数学的には理解しやすいのだから、数学者はもっと早く、物理法則は実はローレンツ不変なのだと気づいても良かったはずだ、というような事を言ってましたね。
今や物理学は自然科学の王者的存在であり、一方で数学は受験数学という狭い分野に押し戻されようとしてますね。
コメントどうも有難うです。
アーベルがもう少し長生きしてたら
スッゴイ親友いやライバルになってたかも(^^)
1800年代って、数学の大天才が数多く輩出した時代でもあったんだね👋👋
ガウスの後釜はリーマンではなくアーベルになってたかも知れませんね。
ひょっとしたらリーマンは数学やってないかもです👋👋👋
多価関数である複素関数を一価とみなし、自在に扱える基盤を確立し、その上でアーベル積分(アーベル関数)の理論を展開するのがリーマンの真意でした。
1851年の第一論文が複素関数の基盤の構築に相当し、1857年の第四論文である「アーベル関数の理論」が複素関数の応用(楕円関数)とアーベル積分論の展開に相当します。
位相幾何の概念すら確立していない時に、複素平面上の分岐被覆面として”リーマン面”を導入し、ディリクレの原理を用いて”与えられた境界条件と不連続性条件をもつ関数をリーマン面上で構成しました。
これらリーマン独自のアイデアと独創がどれほど時代を超越したものであったのか。この時点でガウスを超えてたのかもしれませんね。
この複素解析は、ヴァイエルシュトラスが”極限に近づく”事の厳密な証明を打ち立てた事から誕生します。当時、複素解析をめぐる最大の難題が互いに独立した2つの複素周期を持つ楕円関数でした。
複数の複素平面も”リーマン面”上では1つの連続した代数関数として扱えるので、学士論文の成果は楕円関数でも生きてきます。
つまり、paulさんの複素平面上の”分岐被覆面としてのリーマン面”とは、見事な喩えですね。感心!感心!
アーベルは代数関数の積分から加法定理を発見し、ヤコビは加法定理の中から逆問題を造り上げた。この基本問題を解く事が若き日のリーマンの目標になったんだけど。
このアーベルの加法定理というのも、恐ろしく突飛で斬新な発見だったんだよ。
オイラーの加法定理とガウスの等分理論は楕円関数の2つの源泉なんだけど。等分理論を支えてるのは加法定理でも不思議と交差することはなかった。
つまりガウスの等分理論は解析と数論の意味深な融合だったし、オイラーの加法定理は単に極限解析の領域だったから、興味がなかったんだよね。
オイラーはある変数分離型の微分方程式の積分を求めようとして行き詰まった結果、その式に現れた式がなんと楕円積分だったの。そこでこの微分方程式の一般解を考察した所、その方程式の中に偶然にも加法定理を発見したという訳。
このオイラーの加法定理を大きく進化させたのがアーベルなんだけど、オイラーはなぜか楕円関数へは向かわずより一般的な微分方程式の解を求めようとしたんだ。
アーベルはオイラーの楕円関数論を知ってたが、オイラーとは全く異なる過程で加法定理を切り開いたんだよ。逆問題とはそういう所から来てるのかな?
アーベルがガウスと並び稀有で不世出の天才と言われるのはそういう事かな。
この楕円関数論の集大成を初めて大きな書物にしたのがルジャンドルですね。アーベルもヤコビも彼の本を通じて楕円関数論を学びんだとされます。
そのアーベルに深い影響を及ぼし、アーベルの「楕円関数研究」の根幹を作ったのがガウスです。そのガウスの片言のアイデアを読みとったアーベルは、やはり”異様の天才”ですね。
詳しいコメント有難うです。
リーマンの代数関数の特徴付けとして1つ例を上げれば、リーマン球面の有限葉の被覆面において真性特異点を持たない解析関数などがありますね。
コメントどうも有難うです。
関数f(x)の連続性は
lim(x→0)f(x)=f(a)と簡単に表せます。
これを厳密に不等式で表すと
|a−b|<δ、|f(a)−(b)|<εとなります。
勿論、これで正解ですが。
リーマンは自らの言葉で”連続”の事を
”関数の安定した有限性”と表現しました。
そして、”定義域のどんな無限小変化εにも
関数域の無限小変化αが対応する”と書き直しました。
実変数関数が一価対応とみなせば
抽象的であっても定義域の延長は自由です。
しかし複素関数は一価対応ではなく解析的関数です。
故に解析関数には解析接続が伴い、個々の関数毎の定義域が繋がります。
リーマンは複素関数(解析関数)を一価対応の関数としてイメージしました。リーマンにはこの解析関数のしっかりとしたイメージがありました。
そのイメージに言葉の衣装を纏わせる事が”定義”の本来の意味だと悟ってたんです。
これこそが”連続”の定義だと見抜いたんです。しかし、複素関数は謎多き悪女だったんですよ。
そこでリーマンは解析接続という猿靴輪と手錠を使って、悪女の手脚を縛り付けた。
案外、リーマンはSMの気があったかもですね。コメント有難うです。
結局
連続とは
関数の母なんだよな
積分は関数の父
そして
複素関数は
リーマンの偉大なるファミリー
ってとこですかね。
オイラーは定数を定量とそして変数をあらゆる数を含む変化量と呼んでました。
そして、「関数とは変化量と定量用いて組み立てる解析的表示式」と関数の定義を初めて唱えたんです。
イメージに言葉の衣を纏わせる事が定義の本来の意味だとされますが。
リーマンもオイラーと同じような足取りで関数を眺めてたんでしょうか。
それにリーマンが眺めイメージする複素関数は単なる幻想や妄想ではなく、しっかりと計算され尽くした数学上の狙いがあったとされます。
それらを我々凡人は美しいとかファンタジーとかで表現しますね。
でもオイラーとリーマンが眺めた関数、それは我々にとっては到達すらできない幻想なんでしょうか。
私が眺めたかったリーマンの真相です。
”数学は美しい”とよく言われますが、
リーマンにとって数学は現実そのものでハッキリとした形で実在するものだったんですよね。
私達大衆は数学を抽象的な学問として捉えますが、リーマンは実在する学問、現実を支配する学問として既に捉えてたんですよ。
”数”を”量”と表現するリーマンの世界を我ら大衆は指を加えて眺めてるだけで、極上のファンタジーに浸れるんでしょうか。
1718年の等周問題に関する論文の中ではある変化量の関数という言い方をしています。
つまり変化量と定数を用いて組み立てる量に対しての関数という呼び方を提案しました。
一方でオイラーの関数の提唱は曲線を理解する為の新たな視点での呼び方でした。
これをオイラーは”曲線の解析的な源泉”と語ってます。
リーマンの”安定した有限性”も魅惑的な表現ですがオイラーもヨハンも負けてません。
オイラーによれば、代数関数の解析的源泉は代数関数となり、連続曲線の解析的源泉が連続関数となる筈ですが、オイラーは連続関数という言葉を残してませんね。
つまり、オイラーは連続関数を前提とした上で微分可能性を確信してた?といいますから、”解析的源泉”という言葉もそこから来てるように思いますが。
実際の所はどうなんでしょうね。
貴重なコメントどうもです。