象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

論より情緒!「国家の品格」に見る、情緒と品格と日本の未来と、その2〜自由•平等•民主主義のイカサマと破綻と〜

2019年03月27日 03時20分02秒 | 読書

 前回”その1”(バカと論理は使えない)では、長々と論理の限界とその仕組みを述べましたが。今回は欧米の論理の出発点である、自由と平等と民主主義の限界とイカサマについて、これまた長々と書きます。悪しからずです。


 私自身哲学なんて大の苦手で、単なるコジツケにしか思えないんですが。16世紀以降の欧米の躍動と合理主義を支えたのは、ヨーロッパの哲学者達かもしれません。以下でも述べますが、哲学の巨星と言われるジョン•ロックが唱えた”国民主権”こそが、ホモサピエンス史上最大の虚構かなと思います。

 

欧米人の論理の出発点とは 
 
 欧米人が自画自賛する自由という論理の出発点だが。自由は不要であり、人を身勝手にするだけだと。
 そもそも人間には自由なんて存在しない。法律•道徳•倫理•組織や規則、集団としての協調と、殆どの自由は著しく制限された、欧米が作り上げた”フィクション”であると著者は語る。 
 まさにこれこそが「サピエンス全史」で語られた虚構なのだ。しつこいですがサピエンスブログも参照ですよ。

 産業革命による文明の発展が欧米人の近代的合理精神を過信させ、科学分野でのみ有効な論理や合理を人間社会にまで適用させるという大失態を犯したんです。

 この”自由”の概念とは、17世紀の思想家トマス•ホッブス(英)が語った”自然権”が始まりで、”各人が自己生存の為に行う何でもありの自由”の事。故に、”万人の万人に対する闘争”が始まり、無秩序と野蛮と混沌の世界となると。これも歴史が見事に証明してますが。
 
 この”自由を万人が放棄し、国家に委託する”というのが、ホッブスの「社会契約論」ですね。つまり、”国家とは国民が自由を放棄した状態”を言うんですが。次の世代のジョン•ロック(英)の”他人の自由と権利を侵害しない限り、自由である”という考えより、ホッブスの方が本質を突いてると。

 

ロックの無責任とカルバン主義のウソと

 大思想家のロックは、名誉革命(1688)を養護し、王権神授説を否定する為に書いた「統治二論」で、”国家とは国民の自由で平等な契約によって作られる”という国民主権を主張した。これは今日までの世界を規定する程の影響力を持ちました。
 ”個人は自由に快楽を追求し、全能の神が社会に調和を齎す”とも言い放った。彼こそが自由主義•功利主義•近代資本主義をもたらした張本人ですね。

 この背景には16世紀の宗教改革に起点をなす”カルバン主義”がある。この”予定説”では、救済されるか否かは、神の意志により予め決められてるとある。つまり、どんな悪者でも救済されるんです。教会の権威を否定し過ぎた為、自由を出発点とした論理がここまで暴走したんですな。
 善を成した人と念仏を唱えた人だけが救済される仏教とは全く対照的ですね。

 このデタラメで無慈悲なカルバン主義は、プロテスタント間でも大きな分裂を引き起こす。そこで救済を得る為に、大衆は労働に励み、労働による金儲けに倫理的栄光が生まれた。そして挙げ句には、市場経済を闊歩する金銭至上主義が誕生するんです。
 結局、デタラメな論理が金儲け主義を生んだんですな。

 このデタラメな論理は後に、アダム•スミスの「国富論」に受け継がれ、個人は利益を追求すると、”神の見えざる手”に導かれ、社会の繁栄が達成されると。
 故にロックのカルバン主義が資本主義を進めたのは確実ですね。仏伊西のカトリック国家より、プロテスタントの米英独の方が経済的には繁栄を誇ってますな。
 このジョン•ロックこそが、中世のホモデウス(神を超えた人)だったんですね。

 

自由と平等の王、ジェファーソンの嘘
 
 アメリカの独立宣言(1776)は、ロックの言葉の焼き直しであり、アダム•スミスの国富論とロックの亡霊が暴れまくった結果でもある。

 つまり、ロックの言う自由と平等は王権神授説を否定するピューリタンの考えに過ぎず、理論的根拠がない為に、ジェファーソンは”全ての人間は神により、平等と自由を与えられる”と、敢えて”神”を持ち出したのだ。

 故に、自由と平等とは致命的欠陥を内包した神がかりのフィクション。この一見論理的で甘く響く2つの言葉も、元を辿れば、カルバン主義の信仰に過ぎず、ロックの拡大解釈であり、論理の出発点はかくもいい加減であると。

 

民主主義の偽善と戦争という名の国民の暴動 
  
 ロックを祖とし、アメリカが初めて実践した民主主義も同じで、論理だけは通ってる。民主主義の基幹は国民主権ですが、”国民全てが成熟した判断が出来る”という大前提が必要になると。
 しかし、国民が成熟した判断を下せない事は、これまた歴史が証明してる。第一次世界大戦は、”サラエボ事件”を国民が大騒ぎした結果の戦争でもあった。

 つまり、民主主義国家であるが故の主権在民による戦争で850万人が犠牲になった。
 どの国でも日常の漠然とした不満は、国外に向けられ、国民の戦意の昂揚は留まる所を知らない。今の韓国を見れば明らかですな。
 
 あのヒトラーも、自由と民主主義が生んだとも言える。第一次大戦後のドイツ国民は常にヒトラーを支持した。1933年の国連脱退(95%支持)、1936年ラインラント進駐(98%)、1938オーストラリア併合(99%)と、数字は嘘をつかない。

 ”自由とは面倒なもの、多くの選択肢があり、困難な決断が必要となる”とは、エーリッヒ•フロムの言葉である。
 つまり、ヒトラーの暴走というより、国民を巧く扇動し、その圧倒的支持を元に行動した結果、主権在民を見事に手玉に取った、稀有の手品師だった。挙国一致の戦時中も国民の支持を得られなかったチャーチルとは違いますな。

 第二次世界大戦も表向きは”民主主義対ファシズム”と唱われたが、民主主義国家間の戦争に変りはない。
 私から言わせれば、帝国主義(連合国)対民族自決主義(枢軸国)との戦争。どっちが正義なのかは一目瞭然だ。

 戦時中はどの国も扇動する指導者がいて、熱狂する国民がいる。故に、主権在民や民主主義とは聞こえはいいが、平和を保証するものではない。民主主義国家でも、戦争を起こす主役は大抵は国民なのだと藤原氏。ウウーン、どうだかですが、先進みます。
 イラク戦争でも、開戦当時の支持率は76%だったが、戦況が悪化すると39%に落ち込んだ。国民の総意とはそんなもんだ。モハマドアリが反対したベトナム戦争も同じ様なでしたな。

 

マスメディアこそが巨大権力?
  
 果たして国民が政治を決定するのは、良い事なのか?主権在民は”世論”が全て、その上、国民の判断材料はマスコミだけ。故に世論=マスコミとなり、マスコミが第一権力となる。かのロックやモンテスキューが唱えた”三権分立”(立法•行政•司法)ですら、マスメディアの支配下にある昨今の民主主義。

 確かに、今やSNSがメディアに変わり第一権力にでんと構えてますが。”炎上”という名の危険な権力。

 今は平和な日本も、1937年の日中戦争勃発前までは民主主義だった。大戦中こそ東条英機の独裁だったが、どの国も同じ。戦争による国民の熱狂のお陰で、ヒトラーとルーズベルトは12年間も国家を仕切ったのだ。
 そういう日本も満州事変や大東亜戦争にかけて、国民は勿論、新聞も軍国主義を支持した。日中戦争時は憤慨した国民が軍部をせっつき、強硬手段を取らせた。

 虚構がメディアを育て、国民を高揚させ、軍部をせっつき、戦争に至るとは、少し考えさせられますな。流石、数学者はいい事を言う。
 
 

弱者こそ正義という悪疫 
 
 司法ですら例外じゃない。国民の気持ちを横目でにらみながら判決を下す時代。ポリティカリー•エリート(政治的に正しい)こそが、”弱者こそ正義”という考え方。   
 これが暴走すると殺人が無罪になり、大衆が首を傾げる判決が次々と下され、検察の(メディアの反応を見ながらの)”国策捜査”が平気で行われる。

 故に、民主主義では世論こそが正義であり、世論を支配するマスメディアが巨大権力となる。つまり”言い方次第”なのだ。
 しかし、国民が時代と共に成熟すれば何ら問題はない。メディアに踊らされても、単なるエピソードで片付く。しかし国民は成熟しない。故に、成熟した国民という民主主義の前提は成り立たないのだ。
 
 国民は成熟しないから、放っておくとバカと主権在民が戦争を引き起こす。これを防ぐ為のエリートが必要だと。真のエリートこそが暴走の危険を原理的に孕む民主主義をを抑制するとは、これまた考えさせられる。 

 この真のエリートとは、先ず広範囲で多種多様な教養をたっぷりと身に付けてる事。2つ目に国家国民の為に命を捨てる気概がある事と藤原氏は語る。
 しかし、エリート養成校である旧制中学や旧制高校を戦後アメリカに潰された日本に、真のエリートはいなくなった。
 


アメリカの偽善とイカサマの論理

 戦後日本を統治したアメリカの最大の課題は、”日本を再び強力な軍事国家にしない”という事。そこでエリートを潰す為に、旧制中学と旧制高校を潰した。

 この措置はハーグ条約(1907)にある”占領者は現地の制度や法令を変えてはならない”を明らかに違反する。大規模な検閲により言論の自由さえ封殺するという、洗脳の為の蛮行を奮ってたアメリカにとって、こんな事は朝飯前。 

 その上、憲法や教育基本法を押し付けたのも条約違反ですね。アメリカが真珠湾攻撃を”恥ずべき行為”と糾弾する唯一の根拠は、開戦時前の宣戦布告を義務付けた、この”ハーグ条約”にある。

 ハーグ条約以前は、アメリカを含めどの国も奇襲を主としていた。ハーグ条約以降ですら、ドミニカ戦争(1916)でのアメリカは、宣戦布告なしに奇襲•占領した。やけに詳しいですな藤原さん、感心歓心。

 それに第二次大戦のドイツのポーランドやソ連への侵攻も奇襲。故にハーグ条約での宣戦布告条項は、単に開戦儀礼に関する取り決めにすぎず、誰も重要とは考えてなかったのだ。

 事実、日本軍はマレー作戦でも宣戦布告なしに英軍と開戦した。チャーチルはこれに歓喜した程で、宣戦布告のあるなしなど誰も問題にしなかった。

 しかしルーズベルトだけは、”恥ずべき”とか”破廉恥”とか最大級の形容を用い、憤慨してみせた。というのも、モンロー主義による厭戦気分に浸る国民向けのメッセージだったんです。
 つまり、”アメリカの若者の血を一滴たりとも海外では流させない”との大統領選での公約を破り、欧州戦線に参戦する為の煽動ですね。結果計算通り、国民は憤慨し、熱狂し、大戦に参加できたんです。
 


日本には真のエリートがいない?

 戦後から70年以上経った今現在、日本からエリートがいなくなった事で、国家は弱体したと。財務省や霞が関を中心に東大出のエリートは沢山いますが、その全てが”偏差値エリート”に過ぎない。いや”マークシートエリート”言うべきか。
 確かに偏差値が高いというのは、ケン玉が上手いのと同じ様なもんで、国家の為には殆ど役には立たない。
 
 でも現実にはその偏差値ですら落ち込んでますもんね。ブログなんか見てても猫やグルメばっか。ホントこの国に明日はあるのかって、バカでも思うわな。

 はっきり言えば、1万人の殺人犯がいても先進国家はビクつかない。でも1万人の真のエリートがいなかったら潰れてしまう。欧州にはそのようなエリートを養成してる。欧州の政治が腐敗しないのはこの為であると。

 まここら辺は眉唾臭いですが、日本よりかは多少はマシな様な気もしますが、EU離脱問題で揺れる英国や市民暴動で揺れるフランス政府を見ると、真のエリートがいるのかなって感じですが。 
 


平等も自由もイカサマ

 ”人類は全て平等とか、人類みな兄弟”とか言っても、子供ですら直感的にウソと解る。確かに人間の人生や能力を見れば明らかですな。命ですら平等ではない。無垢な赤ちゃんと凶悪殺人犯の命、どちらが重たいか?答えは明らかですね。

 でも真の平等とは何だろう?定義する事すら不可能な平等とは何か?消費税を一律10%にするのが平等なのか、金持ちから15%貧乏人から5%というのが平等なのか。

 平等とは、欧米が無理やり引き出した聞こえのイイ美辞に過ぎない。近代のこの平等の概念は、王や貴族の支配に対抗する為にでっち上げたイカサマだと。故に平等を真っ先に謳ったアメリカ独立宣言では、その正当化の為に神が必要だったんです。

 確かに奴隷制度が本場のアメリカに平等の概念がある筈もなく、憎きイギリス国王の王侯支配がなくなった今のアメリカを見ても明らかですがね。 
 人権絡みの言葉になった平等も正当性と闘争性はそのまま残り、差別と戦争は未だなくならない。いやそれどころか増え続けてる。
 つまり差別を、平等という”対抗軸”で無理やり力でねじ伏せようというのが、欧米の流儀。だから、戦争や紛争やテロがなくならない。
  


平等よりも”惻隠(そくいん)”

 勿論我が国にも、平等という言葉はある。”平坦”という言葉は仏の慈悲が一様に及ぶという意味で、”公平”という言葉は、欧米の様に闘争的な意味ではない。
 それに差別に対し対抗軸を立てるでなく、”惻隠”を持って応じた。弱者•敗者•虐げられた者への思いやりですね。この惻隠こそが武士道精神の中軸を成すんです。

 この惻隠の情があれば差別はなくなり、平等というイカサマも不要となる。我らサピエンスを繁栄させた虚構も不必要となるんですな。
 差別を絶滅する為には、平等という寒く冷たい北風ではなく、惻隠という太陽が必要。北風が無効である事は今のアメリカを見れば明らかです。

 ”平等の旗手”アメリカこそが、企業経営者の平均年収が約13億で、一般労働者のそれが約300万(2004年)の国。3500万人が貧困の為に医療を受け入れられない国。女性や黒人がメンバーになれないゴルフクラブが沢山ある国。

 因みに、黒人のボンズが白人のマクガイアのHR記録にあと1本と迫ってから19打席で12の四死球をもらった。70号はベネズエラ人で、71号は韓国人から打ったものだが、マクガイアもボンズもステロイドの常連というオマケがついた。全く変な国アメリカ。

 

自由•平等•民主主義に抑制を

 民主主義にもちゃんとした論理は存在するが、”国民が成熟した判断が出来る”という大前提が満たされない事と、その本質である自由と平等がその存在と正当性の為に神を必要とする事、という2つの致命的な欠陥がある。

 故に、自由•平等•民主主義に抑制を加えない限り、暴走する。現在のアメリカや日本では三権分立は骨抜きになり、マスコミが全てを支配する様になった。
 この事態を放置すれば再び社会は荒廃し、大きな戦争が起きてしまう。論理や合理がいくら通ってても、民主主義は成立する為の前提すら満たされないし、自由と平等はその存在すらイカサマなのだ。 

 それに自由と平等は両立しない。アメリカのゴルフクラブを例に取ると明らかですね。黒人を入れないというのは黒人からすれば不平等ですが、クラブ側からすれば、組織の自由•趣向の自由•思想の自由なのだ。故に平等と自由は衝突する。

 神は矛盾を許さないから、自由と平等が神から与えられたものとは、真っ赤なウソですね。
 それに自由と自由は正面衝突する。ある人の自由とは、ある人にとって不自由なんです。男女の関係を見れば明らかですね。自由と自由が衝突しなければ、世界中の全ての人は夢の様な生活を送れる筈ですが。そんな恵まれた人種は0.001%いるでしょうか。 

 平等と平等もまた衝突する。平等な条件で競争すると弱肉強食となり、貧富の差が大きくなり、不平等となる。結果の平等でなく機会の平等だと反論されそうですが、東大生の親の所得が多い事実は、その証拠になる。
 つまり、平等な競争が貧富の差を生み、機会の不平等を生む。平等が不平等を生むというジレンマ。結局、神は自由も平等も与えなかったという事。

 自由•平等•民主主義の論理は美し過ぎたんですな。それに世界は酔ったんです。そして世界は苦境に陥った。

 こうして数学的に自由や平等を考えると、イカサマである事がよーく判る。しかし、これを論理的に哲学的に考えると騙される。数学的思考とは正直で王道なんですよ。”数学的思考は人類を救う”の記事を温めてんですが。全くその通りですね。



2 コメント

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カルバン主義の功罪 (paulkuroneko )
2019-04-06 08:52:02
明らかな虚構も哲学者が気難しく話すと、とても信憑性が高く感じられる。論理も同じで、複雑なほど嫌われ、シンプルな程に圧倒的な支持を受けます。

ルネサンスにより知が解放されたとありましたが、解放されたのは自然科学や文学などの学問だけでなく、人間のエゴも解放されたんですかね。

無責任な哲学者の存在と宗教のウソが折り重なり、自由と平等と民主主義という聞こえのいい、3種の神器いやイカサマを生んだんですかね。

転んだサン言うように、サピエンス全史よりも真意をついてるような気がします。
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続けてpaulさんへ (lemonwater2017)
2019-04-07 03:19:18
この記事は長いだけで書いてて、少しとも思いましたが。カルバン主義と傲慢な哲学者について書きたかったので、一応そのままにですが、少し短くしたいです。

全く人間のエゴも開放された自由主義だったんですね。自由・平等・民主主義とは人類が生んだ最大の虚構ですか。
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