前回の”2の15”では、素数定理とリーマン予想の密な繋がりについて述べました。
今回は少し掘り下げ、リーマンの論文(1859)から眺めた、素数定理とリーマンの明示公式を探ってみたいと思います。後でも述べますが、一般に前者を”緩い”素数定理、後者を”強い(キツい)”素数定理とも呼びます。
1859年の論文「与えられた数より小さい素数の個数について」は、リーマンが数論について発表した唯一もので、彼が最も得意とした幾何学が登場しない唯一の例とされます。
後に時代を揺るがすこの論文も、幾つかの点では不十分だった。故にリーマンは次の様に語ってる。
”厳密な証明が欲しい所だが、何度か儚くも虚しく証明を試みたが、その様な証明はひとまず省いた。というのも、私が求めてる直接の対象には必要ないからだ”
当然の如く”リーマン予想”は、リーマンが追ってたアイデア(明示な素数定理)に不可欠という訳でもなかった。しかしこれは、単に紙面が足りなかったという問題ではない。他にも幾つかの重要な事が定義され、それらの完全な証明はなされてなかったのだから。
直感か?論理か?
数学者には大きく分けて2種類いる。直感的か?論理的か?
リーマンは、幾何学が得意という事もあり、純然たる”直感的”な数学者だった。
一方、リーマンと同世代のドイツの偉大な解析学者のカール•ワイヤシュトラス(1815−1897)は、幾何学的直感には全く訴えない、極度の論理主義者だった。
ワイヤシュトラスが崖を少しずつ手順を踏んで進んでいく探検家としたら、リーマンは大道芸人で空中を大股で闊歩した。つまり、純粋数学者と数理科学者の違い。お陰で、ヨーロッパの数学が二分した程だった。
リーマンには強度に視覚的な想像力があった。どんな難題でも簡潔な結論に飛び移れ、成果も伴った。故に一旦足を止め、一々証明をすべきとは考えなかった。
幾何的直感に優れ、対象外の証明を大胆にも省く辺りは、かのアインシュタインと瓜二つでもある。”証明と理解は後から幾らでもついてくる”との言葉には痺れますね。
リーマンは哲学や物理学にも関心があり、その研究に長い時間を割いた。
五感を通じた感覚の流れや、それら感覚の形式や概念の形成、導体中の電気の流れや気体の運動などが、表面的にはリーマンの数学の独自の概念を形作っている。
故に1859年の論文が、その論理的な純粋さではない。またその明晰さによるものでもなく、リーマンの持つ独創性と、その結果がもたらす威力と範囲によるものである。
その結果とは、同世代の数学者に何十年分もの研究課題を残すものとなった。
ハロルド•エドワーズは、著書「リーマンのゼータ関数」の中で以下の様に述べてる。
”リーマンの論文が発表されて最初の30年はリーマンの考えを消化する為に使われた。それから10年も経たない内に、アダマール、マンゴルド、プーサンが、論文内のどの定理も主要な式をも証明するに成功した。
しかし、どの証明もリーマンの考えが必要だった”
アダマールの偉業と素数定理の歴史と
リーマンの「与えられた数より小さい素数の個数について」は、素数定理を証明するに直結するものだった。つまり、リーマン予想が真ならその帰結として素数定理がついてくる。
しかし、リーマン予想は素数定理よりもずっとキツく、素数定理はずっと”緩やか”な前提からでも証明できた。
つまり、リーマンの論文が素数定理の証明にて持つ大きな意味とは、それが道具を提供するという点だ。数学的に言えば、証明の道筋を示す解析的数論における深い洞察とでも言おうか。
この”緩やかな”素数定理の最初の証明は、1896年にプーサンとアダマールにより得られた。そこでリーマンの論文以降の素数定理の証明の歴史の流れを、順を追って整理してみます。
まず1859年の論文の後、素数に関する知識が増大し、大規模な素数表も発表された。
エルンスト•マイセル(独)は1871年に、素数の個数関数であるπ(x)を計算する巧妙な方法を独自に開発し、π(100000000)の正しい値を出す事に成功する。
1874年、フランツ•メルテンス(独)は素数の逆数の級数について、リーマンとチェビシェフの方法を用い、1/2+1/3+1/7+•••+1/p+•••〜log(logp)を証明した。
1881年、シルベスタ(米)がチェビシェフの第2の結果(”2の11”要Click)を、10%から4%以内に改善する。
1884年、デンマークのアマチュア数学者(本職は保険会社の重役)のヨルゲン•グラームは、「与えられた数より小さい素数の個数研究」を発表した。
その後、ゼータの自明でない零点を我流で計算し(1903)、最初の15個の零点を発表した。コンピュータがない頃の時代である。
そして1885年には、スティルチェス(蘭)が”狭い”リーマン予想の証明を主張した。
これには”失われた証明”として、様々な議論がありますが、リーマン•スティルチェス積分は広く知られる所です。
アダマールに大きな影響を与えた、スティルチェスについては”2の17”で詳しく述べます(要Click)。
1890年、仏アカデミーは「与えられた数より小さい素数の個数決定」というテーマで懸賞論文を求めた。
そこで、1893年に若き数学者のジャック•アダマール(仏 1865−1963=写真左下)が、リーマンのクシー関数(ゼータ関数の完備版)の零点を使った”積表示”の証明に、初めて成功した。
”2の17”でも詳しく述べるが、リーマン論文の主題であるπ(x)の明示公式は、このアダマールの積表示(積公式)の結果に大きく依存していたのだ。
つまり、素数とゼータ関数の零点の密な繋がりとはこういう事である。
しかしリーマンは、この難題中の難題の証明を放っておいたのだ。勿論、この難題を証明したアダマールが懸賞金を受賞したのは言うまでもない。
このパリアカデミーは1666年にルイ14世により設立され、当時は数学者はいなかったとか。一時は財政難に陥るも1699年に王立となる。当時数学は幾何学の、物理は機械学の、医学は解剖学の部門とされました。数学力を高めたお陰で、17、18世紀はフランスの黄金時代です。
1793年にフランス革命の影響で廃止されますが、1795年に学士院の一つとして再建され、この学士院の存在がドイツに数学の黄金時代をもたらすんです(追記)。
フォン•マンゴルドの偉業と明示公式
そしてとうとう1895年、ハンス•フォン•マンゴルド(独 1854−1925、写真右下)が論文の主題である素数に関する明示公式を証明した。つまり、”強い(キツい)”素数定理の証明ですね。
つまり、π(x)とゼータの繫りをはっきりさせるもので、マンゴルドはこれをもっと単純な形に書き直したんです。
当時は、リーマン予想より緩やかな定理”ζ(s)の虚根の実部が全て1より小さい”が証明できるなら、その結果をマンゴルドの式に当てはめれば、リーマンの”緩い”素数定理が証明出来る事は明らかとされていた。
翌年の1896年には、先述のジャック•アダマールとシャルル•ド•ラ•バレ•プーサン(ベルギー 1866−1962、写真右上)が、(リーマンの緩い)素数定理を別個に証明した。
2人同時に証明に成功したが、プーサンの方が(印刷するに)僅かに早かったらしい。アダマールの証明の方が幾分かは簡潔明快ではあったが。
しかし、このプーサンとアダマールをもってしても、リーマン予想を証明する事は出来なかったし、その必要もなかった。
素数定理が固い木の実であるなら、リーマン予想は大型のハンマーだったのだ。
つまり、前述した様に、”ゼータ関数の自明でない零点の実部が1より小さい”事を証明できれば、フォン•マンゴルドの明示公式の”書き直し”を使い、リーマンの(緩い)素数定理が証明できたのだ。
1896年の二人が行き着いたのは、まさにその事だったのだ。
素数定理からリーマン予想へ
素数定理が何とか片付くと、次の大きな難題はリーマン予想だった。この予想が正しい事が証明されれば、数多くの事が沢山導かれるのは明らかだった。
素数定理が”19世紀の数論の白鯨”だとすれば、リーマン予想はそれに代わる”20世紀の白鯨”だった。
これは"代わる"だけでなく、あらゆる数学者や後の物理学者や哲学者までをも虜にした。
事実1972年には、ヒュー•モンゴメリーと物理学者フリーマン•ダイソンが、ゼータ関数上の零点の分布式が、原子核のエネルギー間隔を表す式と一致する事を示した。
お陰で、素数と核物理現象との関連性が示唆され、以降物理学者も含め、リーマン予想の研究が活発化した。
また、数論と量子物理学との密な関係も示唆された。1986年マイケル•ペリーは、「リーマンゼータ関数は量子カオスのモデルか?」という論文を発表した。
数論と量子カオスの関係にては、「素数からゼータへ」(小山信也著)を参照されたい。
因みに、ゼータとスペクトルの関係ですが。
ゼータを目に見える収束域から目に見えないスペクトル域への解析接続こそが、数論的量子カオスの事です。つまり著者の小山氏は、このゼータの零点のスペクトル分析が量子物理学における波動的性質を持つのではと見てます。タイトルの「ゼータからカオス」へというのはそういう事なんですね(追記)。
面白い事に、素数定理が18世紀の終りに、ガウス(1792年)によって最初に考えられ、それから次の19世紀の終りに、アダマールとプーサンにより証明された(1896年)のだ。
その後、次の20世紀はリーマン予想で忙しくなる。しかし、いかなる証明にも達しないままに、この世紀が過ぎた。
しかし、この素数定理とリーマンの明示公式には、前述したジャック•アダマールの存在がとてつもなく大きい事は明らかだ。
そこで、次回の”2の17”はこのアダマールについて述べる事にしますが、長くなったので今日はここまで。
フランス科学アカデミーは1666年にルイ14世により設立され、当時は数学者はいなかったとか。一時は財政難に陥り非公式の活動を経て1699年に王立となったんです。数学は幾何学の物理は機械学の医学は解剖学の部門とされます。お陰で17、18世紀はフランスの黄金時代です。
1793年にフランス革命の影響で廃止されますが、1795年に学士院の一つとして再建されます。
転んだサン言ってるように、アダマールが超の付く難題であるクシー関数の積表示を証明できた事が、素数定理とリーマンの明示公式の証明の大きな原動力となったのは明らかですよね。
アダマールという名前は知ってましたが、ここまで偉大な数学者と走りませんでした。こちらこそ色々と勉強になります。
実を言うと、paulサン同様に私もアダマールって名前しか知りませんでした。「素数に憑かれた男たち」を読んで少し驚いてます。
アダマールの積表示に関しては、「ゼータ関数とリーマン予想」で知ってたんですが、明示公式の証明の一差しになったんですね。
こちらこそ本当に色々と勉強になります。
つまり小山信也氏は、このゼータの零点のスペクトル分析が量子物理学における波動的性質を持つのではと見てるのよ。
著書のタイトルの「ゼータからカオス」へというのはそういうことなのかな?
素数とゼータの関連は腐るほど述べてきましたが、ゼータからカオスへの展開は少し敷居が高いですかね。
これこそが数学革命になるかもです。
たかが素数といっても、歴史上の大数学者の色んなドラマが絡み合ってるんだね。
スティルチェスの”狭い”リーマン予想も今の時代なら、時代を揺るがす大騒ぎとなってた事でしょうか。
でも人間ドラマとしてみても、素数を巡る探検は面白すぎます。
プーサンに一歩譲ったかたちだけど
彼がいなかったら
リーマン予想がここまで広く世に知れ渡る事もなかった
ドレフュス事件に巻き込まれた時はあわやでしたが。
コメント有難うです。
哲学と神学は天文学繋がりで幾何学は予想出来そうですが。
昔の哲学者や神学者が”数は万物なり”と言って数学に憧れたのもそういった歴史から来てるのかなあ。
でも色んな数学者がこぞって素数の謎に挑んだんだぁ。素数という素朴なものに夢を描いてたんだろうか。
当時は整数は神様。素数は気まぐれな女神だったんでしょうね。
皆、子供のように純粋に素数の謎を追いかけてたんですよ。
スマホもネットもpaypayもないけど、逆に羨ましい時代ですよね。