蒲池藩の領主の蒲池氏が、鎌倉時代以来の筑後国の一族であり、鎌倉時代には地頭職、室町時代には大身の国人領主、そして戦国時代には”筑後十五城”の旗頭の大名分で柳川城主であった事は”前回”(要Click)で述べました。
そこで2回目の今日は、その蒲池氏が支えた蒲池藩と蒲池地方の歴史を長々と語ります。
蒲池と蒲池藩の歴史
蒲池(かまち)とは、福岡県柳川市にある地域の地名です。東蒲池と西蒲池に分かれ、 戦国時代には、今の福岡県の南半分に当る筑後国(約32万石)を統轄した、筑後十五城の筆頭大名である蒲池氏発祥の地(蒲池藩=約20万石)であり、その蒲池(かまち)姓の由来地でもある。
蒲池地区は”前回”述べた様に、柳川地方で初めて人が居住した地域とされ、今の西蒲池地区に約2千数百年前の弥生式土器が出土し、その頃からこの地域で稲作が始まったと推定される。
平安時代以前は、多氏一族の火国造肥公一族の後裔が居住した。その後の平安時代末期には蒲池城を建てた大宰権帥の橘公頼の子で、橘敏通の子孫の大宰府府官•筑後橘氏が領主となる。
鎌倉時代から室町時代初期までは、嵯峨源氏の源久直(蒲池久直)を祖とする蒲池氏の、室町時代中期から戦国時代の終り頃までは、その名跡と遺領を継いだ筑後宇都宮氏の蒲池久憲を祖とする蒲池氏の領地となる。
安土桃山時代には田中吉宗氏の、江戸時代は立花宗茂を藩祖とする立花氏の柳川藩の藩領でありました。
前述した様に蒲池氏(かまちし)は、鎌倉時代以来の筑後国の一族ですが、鎌倉時代の地頭職、室町時代の国人領主を経て、戦国時代には筑後国の約2/3(20万石)を支配する大名格の柳川城主でした。
当時、筑後国は”筑後十五城”と呼ばれ、15の大名が群雄割拠する状態でした。その中でも蒲池氏が群を抜いてました。
蒲池氏の歴史を大まかに見ると、嵯峨源氏そして嵯峨源氏渡辺党松浦氏族の”前蒲池”時代(鎌倉時代~南北朝時代)と、藤原氏系宇都宮氏族の”後蒲池”時代(室町時代~戦国時代)に分けられます。
最初に蒲池を氏名とし、蒲池氏の祖とされるのは、前述の鎌倉時代初期の嵯峨源氏の源久直(蒲池久直)である。久直は、平安時代後期の平清盛の全盛時代の1168年に、九州の肥前国の天皇家直轄荘園の神埼荘(山代氏)に荘官として下向し、従五位下の貴族の位を保持した、嵯峨源氏の源満末の孫とされる。
源久直は元々肥前国神崎(佐賀•神埼)にいたが、治承•寿永の乱にて、”壇ノ浦の戦い”で源家方に与した功により、鎌倉幕府の鎮西御家人となり、1190年に筑後国三潴郡の地頭職に任じられた。
久直は三潴郡蒲池邑に土着し、以降、地名の”蒲池”を苗字とし、初代蒲池藩の領主として蒲池久直と名乗る。
前蒲池と後蒲池
先述の嵯峨源氏の”前蒲池”時代(鎌倉~南北朝時代)には2つあります。源久直(初代蒲池久直)に始まる”嵯峨源氏の蒲池氏”と、山代源圓(源圓)を祖とする”嵯峨源氏渡辺党松浦氏の蒲池氏”(渡辺党蒲池氏)の2つです。
因みに、”渡辺党蒲池氏”とは、渡辺氏の分派の”松浦党蒲池氏”の事です。
この渡辺氏は、嵯峨源氏の渡辺綱に始まる一族で、孫の渡辺久(松浦久)の嫡子の松浦直の六男•山代囲(山代源囲)の三男•山代圓(山代源圓)が、承久の乱(1221)の後、蒲池氏の娘婿となり、嵯峨源氏の源満末の後裔•初代蒲池氏(蒲池久直)の遺領を譲られ、山城圓が領地の地名の蒲池から新しく蒲池氏を興します。
この山代圓(源圓)からはじまる5代蒲池氏を渡辺党松浦氏族の前蒲池時代と言います。その後、6代蒲池久氏、7代諸久、8代久家、9代蒲池武久まで続きますが、武久は嫡子の無いまま討ち死にします(1336)。
その後、筑後宇都宮氏の宇都宮久憲が10代蒲池氏を継ぐ迄の約20年間、領主不在の状態となって零落します。この藤原氏系宇都宮氏族の蒲池氏を”後蒲池”時代(室町時代~戦国時代)と言います。
因みに、上述の山代囲(山代源囲)に始まる山代氏と蒲池氏の関係ですが。元々、肥前国(佐賀)神崎荘は山代氏の本拠であり、そこへ都から嵯峨源氏の源満末が荘官として下向く。同地にて源満末は都の下級貴族から地方土着の武士になる。この源満末の孫の源久直(蒲池久直)が蒲池氏の初代となります。
つまり、神埼(佐賀)の松浦党山代氏の武力を背景に、元皇族の嵯峨源氏(源満末)が武士として土着し、源満末の孫の久直が蒲池藩を築き、山代氏の子の圓がそれを引き継いだ訳ですね。
蒲池氏の分割と蒲池藩の崩壊
蒲池氏の後の本城となる現在の柳川城(御花)は、蒲池氏14代•後蒲池5代当主である蒲池治久により蒲池城の”支城”として築かれ、本城であった崇久寺(西蒲池)を蒲池氏の菩提寺とした。
因みに、蒲池城は藤原純友の一族によって築かれ、その後の蒲池氏代々の居城となり、その後、支城である柳河城に本城が移された。
柳川城を本城とした蒲池氏の勢力は拡大し、それを危惧した筑後国の大大名の大友氏は、14代蒲池治久の子の代の時に、蒲池氏を兄•蒲池鑑久と弟•蒲池親広の二家に分割し、蒲池氏は柳川の蒲池鑑久の本流(下蒲池)と山下の蒲池親広の分流(上蒲池)とに分かれる。
因みに、この時期の蒲池藩は筑後国の約2/3(20万石)を支配してましたが、筑後国を統括する大友氏も絶対権力ではなかった為に、蒲池氏を脅威に感じてました。しかし、15代鑑久と17代鎮漣は親が偉大すぎた無能なボンボン息子でしたから、大友氏にとっては蒲池氏を潰すチャンスと見たんでしょうか。
結果的には、この分割が蒲池氏を弱体化させますから、大友氏の策略は見事に当った事にはなりますが、大友氏自身を潰す事にもなります。
位置的には、下蒲池が今の西蒲池で上蒲池が東蒲池で、私の地区は上蒲池(東蒲池)となる。
この様に、蒲池藩は上蒲池と下蒲池に分かれますが、本流の下蒲池は”柳川城の戦い”の後に滅亡し、その生き残りの末裔が松田聖子さんとされます。
初代下蒲池の15代蒲池鑑久の後を継いだのが、”義心は鉄の如し”と称えられた16代蒲池鑑盛であり、鑑盛は祖父の治久が築いた柳河城を本格的に改修し、柳川城を本城として整備した。
蒲池氏の最盛期は、戦国時代の16代蒲池鑑盛(蒲池宗雪)とその子の鎮漣の時で、柳川の蒲池鎮漣の嫡流(下蒲池)は約12万石、山下(上蒲池)の蒲池親広の孫の蒲池鎮運の庶流は約8万石の勢力を有しました。
しかし17代蒲池鎮漣は、かつて父•鑑盛が命を救った肥前国の龍造寺隆信に謀殺され、下蒲池は滅びる(1581)。蒲池城は跡形もなく焼き尽くされ、事実上、蒲池藩の滅亡でもありました。
因みに、蒲池鎮漣の度重なる戦線離脱を見咎めた龍造寺がブチ切れ、柳川城に攻め入った(柳川城の戦い)とされるが、いくら裏切りを働いたとはいえ、蒲池家は龍造寺氏にとって大恩ある家であり、これを滅ぼす事については疑問も残る。
下蒲池の生き残りと松田聖子と
一方、柳川城は落城するも破壊を免れますが。筑後国の大友氏が”耳川の戦い”で島津氏(薩摩藩)に大敗すると、肥前国(佐賀•長崎)を平定した勢いで龍造寺隆信は筑後に進出します。その勢力は蒲池氏を筆頭とする筑後国を上回ってました。
つまり、大友氏が蒲池藩を分割したのが大きく裏目に出た訳です。
結局、勢力で劣る蒲池鎮漣は龍造寺隆信の与力として尖兵となるが、やがて両者は反目し、隆信は柳川城を包囲します。その後一旦和睦となるが、鎮漣が薩摩の島津氏に通じてた事が発覚し、キレた隆信は鎮漣を肥前に招き謀殺、下蒲池を滅ぼし、難攻不落であった柳川城を制圧したというのが真相です。
鎮漣の弟の蒲池統安は先の”耳川の戦い”で討ち死にし、嫡子で塩塚城主だった蒲池鎮貞は龍造寺氏との”柳川の戦い”で討ち死にしたが、次男の蒲池応誉は僧籍にあり、瀬高上庄の来迎寺の第四世住職を勤めていたが、柳川藩主となった立花宗茂に招かれ、宗茂の正室の誾千代の菩提寺である良清寺を開き、その初代住職となる。
応誉の子孫は蒲池氏を再興し、江戸時代は柳川藩主の立花氏の家老格となる(家老ではなくて家老格なのは、蒲池氏が柳川の領主であり、立花氏の家臣筋ではなかったから)。松田聖子(蒲池法子)はこの蒲池応誉の子孫である。
一方、蒲池親広にはじまる山下の蒲池氏(上蒲池)は、蒲池鎮運が豊臣秀吉の九州進攻の時は島津氏方にあり、秀吉から領地没収され大名家としては滅びる(上蒲池の滅亡)が、立花宗茂の弟の高橋統増(立花直次)の与力となり三千石を領した。
その鎮運も、秀吉の朝鮮の役に出陣するが釜山で病死。秀吉から大名家としての再興の内諾を受けてたが、秀吉が死去。
また、関ヶ原の戦いでは、鎮運の子の蒲池吉広は立花氏与力として西軍に属し戦うが、石田三成率いる西軍敗北により今度は徳川家康により領地没収される。その後、吉広は、黒田藩に召抱えられ、その子の蒲池重広は500石を与えられ郡奉行となる。
鎮運の弟の蒲池鎮行の5代後の蒲池正定は肥後細川藩の藩士となり、奉行を経て中老となり、900石の知行を与えられた。
つまり、上蒲池はバラバラに散らばったんですな。
未だ謎の多きの蒲池藩?
計2回に渡り、紹介した蒲池と蒲池藩の歴史ですが、歴史学者の太田亮によれば、蒲池氏は”筑後屈指の名族”だが、その出自については諸説あるという。
太田氏は、「藤原純友説」「嵯峨源氏松浦党説」「藤原氏北家宇都宮氏説」の3つを挙げる。
これらは、蒲池氏の長い歴史における”祖蒲池” ”前蒲池” ”後蒲池”時代の3つ出自に関するものだが、蒲池氏の祖ともいうべき”祖蒲池”時代の出自の伝承としては、次の様なものがある。
①古代の多氏の子孫説、②藤原純友の子孫説、③橘公頼の子孫説。
蒲池氏の源流については、九州の古族説があるがその場合、①説は尤も有力な根拠とされる。②の藤原純友の子孫説は、蒲池城の築城者が藤原純友の一族であり、その子孫が三潴郡蒲池邑の領主だったという伝承から純友の子孫と、地元柳川では語り継がれてもいる。
蒲池城の築城者は、藤原純友一族ではなく、大宰府をめぐる戦いで純友の弟の藤原純乗の軍勢を迎え撃った大宰権帥の橘公頼であり、その子の橘敏通の子孫が蒲池城に拠り蒲池の領主となったとする説③もあるが、これもまた上2つと同様に、伝承の域を出ない。
但し、地元の関係寺社に伝わる伝承によれば、蒲池氏は古代以来の名族であり、その名跡を多氏、藤原氏、嵯峨源氏、嵯峨源氏渡辺氏、宇都宮氏その他の多くの氏族が、婿養子などの形で継承したのではないかともいわれてる。
つまり、複雑な出自と歴史が故に、様々な血が混じってるかもという訳ですね。
最後に
以上長々と、蒲池藩の謳歌と衰退の歴史を書いてきましたが、栄枯盛衰を地で行く様な歴史ですね。
私が小学校の頃、西蒲池で弥生式土器が見つかったという噂があり、蒲池城跡の近くに土器を掘りに行った事がある。
しかし目にしたのは、粉々に砕かれた泥器の残骸であり、とても土器と言えるものではなかった。故に、殆ど話題には上らなかった様にも思える。当時はまだ、蒲池は未開の蒲池村に過ぎないと思われてたのだ。
それが今になって、急に忙しく脚光を浴びてきた蒲池藩と蒲池氏はかつて筑後国一体を支配する旺盛を誇った時期があり、哀しいかな最後は、柳川城主の地位を立花宗茂(立花藩)に取って代わられてしまった。
前回、寄せられたコメにもある様に、蒲池藩が分裂してなかったら?蒲池氏が筑後国の領主になってたら?福岡県は蒲池県になってたでしょうか?と。
多分、その可能性もなくはないと思います。蒲池藩が分割されなかったら、大友氏を下し、筑後国32万石を支配したでしょう。
それに、秀吉に”東の忠勝、西の宗茂”と称された九州随一の立花宗茂が筑後国•蒲池藩の跡を継ぎ、もっと勢力を拡大してたでしょうか。つまり、”蒲池県”はともかく、蒲池藩を起源とした”立花県”もあり得たかもです。
私が住んでる蒲池という地域の全てを知って、何だかもっと蒲池と柳川が好きになりました。「翔んで埼玉」じゃないですが、”翔び過ぎた蒲池藩”という事で(^^)v
福岡県が蒲池県に、そして立花県に。
ウ~ン悪くはない展開ですよね。
でも歴史って不都合なほどに不愉快なほどに面白い。
跳んだ蒲池藩の物語
お陰でとても愉しませてもらいました。
歴史ってあんまり好きじゃなかったんですが、不都合なほどに愉快になっていく。
結局、人間て何処までも残酷に出来てんですね。
蒲池藩の歴史をじっくりと
学ばさせてもらいました
でもたまにはいいね
日本古来の風土の歴史も
何だか剣を取って暴れたくなった
何もないどころか
福岡県の九州の歴史を
変えたかもしれない
真実がギュっと詰まってたんだね
龍造寺隆信、許さんぞって
言葉がここまで聞こえてきそうだ
それにしても松田聖子さんも由緒ある家に生まれた人なのですね。
私の住む川西市は源氏発祥の地として有名ですが、家来に渡辺綱という人がいたようです。上の記事の渡辺氏と関係があるのではないかと思ってしまいました。
折角の偉大な歴史が曖昧なままになってしまいますから。
でも何で龍造寺隆信が、そこまでブチ切れたのか?私にも理解できません。
源久直(初代蒲池久直)に始まる”嵯峨源氏の蒲池氏”と、山代源圓(源圓)を祖とする”嵯峨源氏渡辺党松浦氏の蒲池氏”の2つです。
渡辺党蒲池氏とは、渡辺氏の分派の松浦党蒲池氏の事です。渡辺氏は嵯峨源氏の渡辺綱に始まる一族で、孫の渡辺久(松浦久)の嫡子の松浦直の六男の山代囲(山代源囲)の三男の山代圓(山代源圓)が、承久の乱(1221)の後に蒲池氏の娘婿となり、嵯峨源氏の源満末の後裔の蒲池氏の遺領を譲られ、山城圓が領地の地名の蒲池から新しく蒲池氏を興します。
この山代圓(源圓)からはじまる5代蒲池氏を、渡辺党松浦氏族の”前蒲池”時代と言います。その後、9代蒲池武久まで続きますが、武久は嫡子の無いまま討ち死にします(1336)。
その後、筑後宇都宮氏の宇都宮久憲が蒲池氏継ぐ迄の約20年間、領主不在の状態となります。この藤原氏系宇都宮氏族の蒲池氏を”後蒲池”時代(室町時代~戦国時代)と言います。
何せ、蒲池藩の資料が全て燃やされた(1581)ので、色んな説が伝承され、未だにはっきりした事は解ってません。
因みに地元柳川では、藤原純友の子孫説が強いです。
歴史はもっと楽しいよ。
柳川の本場うなぎの蒸篭蒸し食った事あります。
元祖本吉屋の方が味付けが濃かったですがサービスは若松屋の方が良かったかな。
でも分家すると勢力が拡大ししそうな気がしますが逆に勢力が分散し弱体するのだろうか。
そして蒲池氏もこれまた同じ肥前国の龍造寺隆信に潰されます。
こうしてみると歴史って複雑なようで単純で思わず笑ってしまいます。
#114さんじゃないですが剣を振ってみたくなりました。