前回の”2の16”では、素数定理とリーマンの明示公式には、ジャック•アダマールの存在がとてつもなく大きい事を述べました。
今回は、このフランスの大数学者であるジャック•サロモン•アダマール(Jacques Salomon Hadamard=1865−1963)について詳しく紹介します。
アダマールの積公式
アダマールに関しては、1896年の”緩い”素数定理の証明ばかりが注目されてますが。彼の本当の偉業は、”アダマールの積表示(積公式)”の証明(1893年)にあります。
この”積表示”の由来は、リーマンのクシー関数Ξ(s)(ゼータ関数の完備版)の零点に渡る積表示の公式である、Ξ(s)=Ξ(0)∏ᵨ(1−s/ρ)から来てます。
つまり、Ξ(s)=0の根ρ全てを渡る無限積が、各根ρとそれに対応する根1−ρとを対にしたものである事を示すものです。
この積公式の収束性をアダマールが証明し、Ξ(s)=0の根ρの分布密度をマンゴルドが解明したんです。
この積表示に関しては後に詳しく述べます(予定)ので、今はイメージだけでも掴んどいて下さいな。
この積公式はリーマンの論文の中でも、最も重要な部分で最も難解な証明とされてんですが、何とリーマンはこの証明をあらましだけ述べて省略してたんです。
故に、この積公式が証明された2年後の1895年に、リーマンの論文の主題である明示公式(強い素数定理)を証明したフォン•マンゴルド(1854-1925)は、アダマールのこの偉業を”34年間のこの領域における初めての進展”と語った。
つまり、アダマールのこの証明こそが、リーマン予想への最初の”一刺し”となったんですね。
ジャック•サロモン•アダマール
アダマールが幼い頃は、普仏戦争(1870)の敗北で、”パリ占領”された屈辱の時代であった。
家は内乱で焼け落ちた中、フランス人の父とユダヤ人の母の間に生まれる(1865)。
しかし彼の前半の人生はとても順調でした。26歳(1892)で博士号を所得し、結婚。翌年にはボルドーに移り、大学講師になる。
アダマールが憧れのパリに出る機会は、その5年後(31歳)に訪れた。
つまり、1892年からの僅か6年間で彼の職(教授)と名声の基礎は築かれたのです。
このアダマールを”最後の普遍的数学者”と評価する声もあるが、当時はヒルベルト、ポアンカレ、クラインらの著名な数学者と競っていた。
しかし、普遍的数学者の称号に相応しいのは、やはりガウスではないだろうか。気持ちは判りますが。
但し、19世紀初頭のフランス数学黄金時代を支え、多くの偉大な数学者や著名人を輩出した名門パリ工芸大学ですが。入学試験の最高記録を持ってるのは、このアダマールの1875点(2000点満点)です。
因みに、ガロアは”アホ臭”とほざき二度落ちてます(悲)。まともに勉強してパスしてれば、フランス数学の歴史も大きく変わってたでしょうか。以上、補足でした。
アダマールの師匠はフランスの大数学者シャルル•エルミート(1822−1901)で、”エルミート行列”の生みの親である。
因みに、エルミート行列とは、その要素が対角線(実数)を挟み、共役複素数になるという特殊な行列で、このエルミート行列こそが、後の”リーマンゼータ関数の自明でない零点は何らかのエルミート演算子の固有値に対応する”という重要な”ヒルベルト=ポリヤ予想”を引き出したんです。
因みに、この”ヒルベルト=ポリヤ予想”は、スペクトル理論によるリーマン予想へのアプローチの1つで、1910年代にヒルベルトとポリアが、”リーマン予想の証明は自己共役作用素を見つける事により得られるのではないか”と示唆した事に起因する。
つまり、ゼータとカオス、数論と量子力学を結びつけるきっかけとなったんですね。
スティルチェスの”狭い”リーマン予想
一方、このエルミートと交友のあった、若きオランダの数学者のトマス•スティルチェス(1856−1894 写真右下)は1885年に前回述べた様に、”狭い”リーマン予想を証明したと、ある雑誌の中で主張した。しかし、彼は証明は入れなかった。
”この証明は非常に厄介なので、もっと簡潔にしてみせます”
因みに、スティルチェスのこの”狭い”リーマン予想の証明には、”メビウス関数μ(n)とメルテンス関数M(k)(μの積算値)の振る舞いがゼータ関数と密に繋がってる”事より、1/ζ(s)=Σμ(n)/nˢの等式に起因する。
故にスティルチェスは、”M(k)=O(k^(1/2))の定理を証明できたら、リーマン予想は真である”事を示したのだ。Oはランダウの記号。
しかし、この定理が成立しなくとも、リーマン予想が偽である事にはならない事が解ってる。つまり、リーマン予想よりも”狭い”とはこういう事なのだ。
因みに、これより”広い”定理としては、非常に小さいあらゆるεに対し、M(k)=O(k^(1/2+ε))の定理がある。これが真なら予想も真であり、偽なら予想も偽である。
これこそがリーマン予想と全くの同値、つまり同じ広さの定理である。
このεの存在はとても重要で、素数定理”π(x)〜x/logx”は、π(x)=x/logx+εの等式で示され、xが変わるとそれに応じεも変動する。
つまり、リーマン”予想”とはこのεの大きさを予想してる。素数定理とリーマン予想の密な関係とは、こういう事なのだ。
一方で、リーマンの論文は綿密に検証され、スティルチェスの主張は整理され、前述のアダマールの積表示の証明(1893)は、大いなる前進を伴った。
そしてその2年後、フォン•マンゴルドが残ってた下草を払いのけ、素数の個数関数π(x)をゼータの零点に結びつける、リーマンの論文の主題(明示公式)を証明した。
一方でアダマールは、スティルチェスの主張(1885)を知っていた。しかし、それが不十分である事にも薄々は気付いていた。
”私が示そうとしてるのはリーマン予想(ζ(s)の虚根の実部が全て1/2上にある)ではなく、ζ(s)には実部が1に等しい零点はありえないという事だけだ”
その一方で、スティルチェスの主張(リーマン予想の証明)に期待を抱いてたのも事実だが、彼の証明が表に出る事はなかった。
事実スティルチェスの主張は、1985年のアンドリュー•オドリツコとハーマン•テ•リーレにより、”失われた証明”となった。
しかし、このスティルチェスの主張こそが、プーサンとアダマールの素数定理の証明(1896)を加速させたのは言うまでもない。
そのスティルチェスも、素数定理の証明を見る事なく死んだ(1894年)。もし生きてたら、この証明に関して何と叫んだろうか。
”オレだったら、2つとも証明してみせたのに”とでも叫んだだろうか。彼もまた、アダマールと並び称されるべき偉大な数学者だったのだ。
因みに、スティルチェスは連分数のスペシャリストで、モーメント問題の先駆者ともされてます。それにリーマン積分を一般化した事でも有名です。
彼は数学に特にガウスやヤコビに熱中しすぎて、名門の工科大を落第します。しかし、アダマールの師匠であるエルミートと出会い、数学に人生を捧げました。
お陰で天文台助手の仕事をやめ、数学の教授職に応募しますが、数学の実績が少ないという理由で落選します。
しかしスティルチェスは後に、”連分数の解析理論の父”と評される様になります。
このヒルベルト級の数学者が教授になれない時代の数学ってどんなに凄いものだったか、想像しただけでも恐ろしい時代です。
以上、補足でした。
アダマールの悲劇とドレフュス事件
19世紀末のドレフュス事件(1894)では、ユダヤ人であるアダマールにも火の粉が降り掛かった。実はドレフュスの妻が、旧姓アダマールと”またいとこ”の関係でもあったのだ。
アダマールは政治や世間には全く関心がなく、大数学者によくある、他の事は全く考えられないタイプであった。
勿論、反例も多くある。ルネ•デカルトは兵士であり、宮廷に仕えた。カール•ワイヤシュトラスは、大学の頃は酒と喧嘩ばかりで中退してる。20世紀最大の数学者の一人であるフォン•ノイマンは美人と早い車が大好きな遊び人だった。
アダマールは自分でネクタイを結べなかったし、(娘によると)4つより先は数えられなかったとして、”その先は全部nです”と言ったらしい。
そのアダマールがドレフュス事件に関わったというのは、この事件が引き起こした感情の深さを物語る。つまり、これほど浮世離れした人の心をもかき乱したのだ。
彼は、ゾラが裁判中の人権連盟(1898年設立)の活動家になった。故に、熱心な”ドレフェザール”に生まれ変わった若き29才のアダマールは、その後の生涯に渡って公人に留まった。
長期に渡る並の生産性と忙しさではなく、大きな悲劇もあった。2度の世界大戦では3人の息子全てを失った。
アダマールは、第一次世界大戦で2人の息子を失うと、平和主義に転じた。共産主義やソ連にもある程度染まった。
1940年のドイツ軍のパリ進駐に追われ、アメリカのコロンビア大で教えてた事もある。あらゆる所で講義し、熱心な博物学者でもあった。アインシュタインとは生涯の友人で、アマのオーケストラを集め、自らバイオリンを弾いた。
妻とは68年間添い続けた。妻と孫が亡くなり、気力も全く失われ、98歳を目前にして亡くなった。
アダマールは、自身の著書「数学における発明の心理」にて、自身の数学的思考を言葉を用いずに、解法をイメージで表現していた。つまり、彼もリーマンやアインシュタイン同様に直感型だったのだ。
最後に
以上長々と、アダマールに関して述べましたが、全く足りないくらいです。ガウスに匹敵する程の偉大な数学者に関する記述がここまで少ないとはとても驚きです。
「素数に憑かれた男たち」 (Jダービーシャー著)と「ゼータ関数とリーマン予想」(HMエドワーズ著)の2冊がなかったら、こうして紹介する事もなく、”素数定理を証明した人”と言うだけで忘れ去られてしまう所だったでしょうか。
リーマン予想を追いかけるという事は、それに埋もれた数学者や理論や定義を掘り起こす作業と同じで、様々な角度から色んなスパンで眺める必要がありますね。
でもこうやって書き続けるうちに、タイトル通り”リーマン予想と素数の謎”が、密に繋がってるのを発見出来るのは、少し嬉しい気がします。
でも素数定理を証明した30歳の時以降は、残念ながらドレフュス事件に巻き込まれました。
それにリーマンが死んだ前年に生まれたのも偶然にしては出来すぎです。
リーマンをスターダムにのし上げた「幾何学の基礎にある仮説について」が29歳(本当は29歳になる1日前)、世界で最も高く評価された「アーベル関数の理論」の時が32歳ですから、数学者といえどもピークってものがあるんでしょうか。
リーマンが30前後のピークの時に、リーマンの明示公式の論文を書いてたら、リーマン予想はもっと進展してたかもですが、あくまで推測に過ぎません。
ともかくも、そのリーマンですら多少は混乱したという積表示(積公式)の証明ですが、転んだサン指摘のようにそれを見事に証明したアダマールも、ガウスやリーマンと並び称される知の巨人です。
それに当時は今みたいに受験戦争というものがないから、余計に30代前後がピークになるんですよ。
確かにリーマンを輩した19世紀というのは、超天才が沢山登場した時代ですから、誰が一番かは決めかねますが。
スティルチェスってイラストの右下の人よね
何だかすっごくタイプ(•ө•)♡
気のせいか、
数学者ってイケメンが多い気がするな(๑˙❥˙๑)
彼は連分数のスペシャリストで、モーメント問題の先駆者ともされてます。リーマン積分を一般化した事でも有名です。
彼は数学に特にガウスやヤコビ(ヤコブ)に熱中しすぎて、名門の工科大を落第しました。しかし、アダマールの師匠であるエルミートと出会い、数学に人生を捧げます。お陰で天文台助手の仕事をやめ、数学の教授職に応募しますが、数学の実績が少ないという理由で落選します。
しかしスティルチェスは後に、「連分数の解析理論の父」と評されるようになります。このヒルベルト級の数学者が教授になれない時代の数学ってどんなに凄いものだったか、想像しただけでもワクワクします。
以上、余計な補足でした。(・・;)
でも格好いい男ですよね。Hoo嬢だけでなく私も惚れ惚れします。
でも凄く偉大な数学者だったんですね。リーマンの時代の前後には凄い数学者が数多く輩出します。天才と言える人は誰もが数学に憧れたんですよ。今では考えられない事です。
コメント何時も勉強になります。
ゼータの完全対称等式の事だよね
Ξ(s)=Ξ(0)∏ᵨ(1−s/ρ)こそが
アダマールの積公式だけど
これがリーマンの論文の一番厄介な所で
この積公式の収束と根ρの分布を
マンゴルドが調べたのかな?
形としてはオイラー積とよく似てるけど
考える程に不思議だな
Ξ(s)=0の根ρの分布密度はマンゴルドですかね。
コメント有難うです。