象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

天才から眺めたベルンハルト•リーマン、その1〜”素数を奏でた”大数学者の4つの論文がもたらしたもの

2019年12月13日 04時25分22秒 | 数学のお話

 未解決問題であるリーマン予想のお陰で、”素数の音楽家”と、ヨーロッパ中で称されたベルンハルト•リーマン(1826-1866)の生涯と功績を自身の4つの論文を辿りながら、考察してみます。
 個人的には、”数学の大道芸人”といった方がピッタリだと思いますが、かのオイラー(1707-1783)”息を呑む様に数学を奏でた”と称された様に、リーマンは素数の謎の中に調和を見出したんですね。
 以下、「数学の真理を掴んだ25人の天才たち イアン•スチュアート著」と「リーマン論文集」を参考にします。 


”見事な程の豊かな独創性”

 ベルンハルトが5歳の時、ポーランドの悲劇の歴史にとても興味を持った。10歳の時には、計算に関する決定的な才能を見出した。13歳で実家を離れ、ハノーファーとリューネブルグに移り住む。
 学校への徒歩での往復は、貧弱なベルンハルト少年の身体を酷使した。後にギムナジウム(義務教育校)の教師ゼファの所に下宿する。他の教科も優秀だったが、数学はズバ抜けてて、卒業時は最高点をとった。
 校長は直ぐに少年の才能を見抜き、高等数学の本を読ませた。少年は熟読するだけでなく、全てを理解する。オイラーの著作やルジャンドルの数論もこの時期に読んだとされる。

 19歳になったリーマンは、文献学と神学の学生としてゲッティンゲン大に入学。しかし、数学に関してはリーマンを満足させるレベルには程遠かった。翌年、ベルリン大学に留学し、ヤコビの解析力学と代数学、ディリクレの数論や定積分に偏微分方程式の講義を受けた。
 因みに、アイゼンシュタインの楕円関数論の講義では、関数理論における複素数の導入に関し、真っ向から対立した。式計算に固執するアイゼンシュタインに対し、リーマンは偏微分方程式(コーシー•リーマン方程式)の中に”複素変数関数の基礎”なる原理を既に見出していたのだ。因みにガウスは、このアイゼンシュタインを高く評価し、”一世紀に一人の大天才”と見ていた。
 こうしてベルリン大時代の21歳の若者は、生涯を通じて基本となる考えが、この時に初めて芽生え、徹底的に考察されたものと思われる。

 ところで、リーマンを教えた師の一人モリッツ•スターンは、”彼は既に、カナリアの様に歌っていた”と後に語った。
 一方、”数学の巨人”ガウスはそこまで強い印象は受けなかったが、すぐにリーマンの並外れた才能を見抜き、博士研究の指導教官となる。

 そのガウスをもってして”見事な程の豊かな独創性”と評し、リーマンがゲッチンゲン大学の教職につけるよう手配したのは有名な話だ。
 当時のドイツでは、博士号の後にハビリタチオン(大学教員資格)というステップがあった。因みにリーマンは、1851年にガウスの元で学位論文「1複素変数関数の一般理論の基礎づけ」を提出して博士号を取得、1854年には「幾何学の基礎にある仮説について」で、大学教授資格を取得した。


ガウスの大きな賭け

 ゲッティンゲンに戻ったリーマンは2年半掛けて、フーリエ級数の理論を大きく展開させた。その研究は見事に完成し、結果も上々だった。
 因みに、フーリエ級数の未解決問題を研究し、最初に貴重な成果を上げたのはディリクレでした。それに注目したリーマンは、フーリエ級数が収束する条件とフーリエ級数が逆変換で元に戻る条件である、”フーリエ反転”の未だ2つの未解決問題を”リーマン積分”を使い、大きく前進させました。
 つまり、リーマンは定積分の概念を拡張し、連続関数以外は積分不可だった関数も積分可能(リーマン積分)にしたんです。これは”収束する三角級数の研究”として、一時は教授資格論文の候補にもなった「三角級数による関数の表示可能性について」(1854)でした。
 つまり、ディリクレとリーマンのフーリエ解析の研究こそが、今日の”実解析”の礎石となり、”定積分とは何か?”というリーマン積分の概念を如実に物語ってますね。

 しかしリーマンは、大学教授(教員)資格を取得しようとする自分は、高望みし過ぎてるのでは?と考えた。”その2”(要クリック)でも述べましたが、「複素関数の基礎」の建設にあたり、リーマンの念頭にあったのは代数関数論で、この理論の主役がアーベル積分でした。
 このアーベル積分を3種に分け、それらの存在を「ディリクレの原理」を使って証明するんですが。以下で述べるヴァイエルシュトラスが、数理物理学で発見された「ディリクレの原理」にケチをつけた。それでリーマンは迷っていた。

 一方、リーマンは2つのテーマで迷っていた。1つは、ヴィルヘルム•ヴェーバーの元で研究した電気の数理物理学に関するものと、もう1つは、もっと野心的な「幾何学の基礎」に関するテーマであった。
 選択を求められたガウスは、自身の親友でもあるヴェーバーとの共同研究に強い興味を持っていた。しかし、リーマンが幾何学について何が語るかを聞きたがった。つまり、ガウスは賭けに出たのだ。


「幾何学の基礎について」(1854年)

 リーマンが出発点としたのは、ガウスの「驚異の定理」である”周囲の空間を考慮しなくとも局面の形を特定できる”という、微分幾何学の分野を大きく切り開いたものであった。
 この「驚異の定理」からガウスは、通常のユークリッド平面と比べ、曲面がどの程度曲がってるかを表す量(=曲率)の研究を始めていた。
 そこでリーマンは、このガウスの「驚異の定理」を任意のN次元の空間という全く新たな方向に一般化させる事を目論んだ。
 しかし当時はまだ、3次元空間より次元の高い”空間”でも幾何学を明確に考え、有用である事を、数学者や物理学者がようやく理解し始めた頃だったのだ。

 その根底には、多変数の方程式(多様体)という完全なる土台があった。変数が座標の役割をする為、変数が多くなれば(概念上の)空間の座標も多くなる。
 因みに”多様体”とは、座標を書き込む事で曲面を3次元空間ではなく平面上で表現する位相幾何の概念です。一方で、”リーマン多様体”とは、高次元空間上の曲面を2次元上で表現する為に、角度や長さを定める”リーマン計量”に依存する事で拡張したものです。イメージとしては、地球儀の地図を紙の上で表す様なものです。

 この時期のリーマンは物理研究にも性を出し、衰弱しかけた。しかし、ヴェーバーとの共同研究の電気と磁力の相互作用からヒントを得て、力を空間の歪みに置き換えるという、幾何学に基づく”力”の新たな概念が浮かぶ。
 丁度その何十年か後に、アインシュタインが一般相対性理論を導くきっかけとなったのと同じ考え方であった。
 この切羽詰まった取組みの中で、多次元多様体(リーマン多様体)の概念と、リーマン計量により定義される距離の概念を手がかりに、現代の微分幾何学の基礎を確立したのだ。
 因みに、”リーマン計量”とは極めて近い2点間の距離を与える数式の事だ。リーマンは今では”テンソル”と呼ばれるもっと複雑な量を定義し、特殊なテンソルとして曲率を表す一般的な公式(リーマンテンソル)を導き、測地線を定義する微分方程式を書き出します。

 リーマンはそれだけではなく、微分幾何学と物理世界との関係についても考察した。
 ”空間で量を測定する際に、基礎となる経験的概念である剛体(固体)と光の概念は無限小においては、幾何学の前提に適用されない様に思う”と語り、ミクロな世界でのリーマン幾何の破綻をも予言していた。
 つまり、もうこの時点で一般相対性理論の基礎を考察してたのだろう。 
 勿論、「幾何学の基礎について」の講義は大成功だったが、その内容を完全に理解したのはガウス一人だけであった。このリーマンの独創性に大いに感銘したガウスは、その深遠さに対する驚きを親友のヴェーバーへ語った。
 ”全く見事なまでの斬新さと独創性だ”

 つまり、ガウスの賭けは報われたのだ。そしてこの翌年、ガウスは帰らぬ人となる(享年77歳)。


複素解析の基礎付けと理論的発展

 複素解析の分野は、オーギュスタン•ルイ•コーシー(1789-1857)の独力の研究であった。
 しかし、リーマンは1851年の学位論文「1複素変数関数の一般理論の基礎づけ」の中で、”コーシー=リーマンの微分方程式”を複素関数の定義とした(コーシーは複素関数の一種として定義し、単性関数と呼んでた)。更に、写像やリーマン面(連結する複素1次元の複素多様体)など新たな成果を組み込む事で、複素解析の基礎づけと共に、理論的な発展をさせる事になる。
 因みに、学位論文のタイトルは厳密に言えば、「1個の複素変数量の関数〜1変数複素解析の源流」となるが、「複素解析の基礎」とした方が判りやすく思う。

 リーマンには弟が一人と姉妹が4人いた。母は幼い頃に亡くなり、10歳までは父から教育を受けた。地元の小学校には3年生として編入した。上述した様に、校長はリーマン少年の才能を見抜き、自宅にある数学の書物を読む事を許可した。
 リーマン少年は、ルジャンドルの「数の数論」(第3巻の300頁)を僅か1週間で読み干してしまう。”この本は全くの驚異に満ちている。お陰でそら覚えしちまった”との少年の言葉は、今や伝説となってますが、子供が語る言葉じゃない。
 ゲッチンゲン大に入学したリーマンは、翌年にはガウスの薦めもあり、ベルリン大学へ移り、上述した様に、ヤコブやディリクレやアイゼンシュタインの下で、楕円関数や数論と代数学それに複素解析を習得する。 
 前述の様に、微積分を実数から複素数に拡張したのはコーシーであり、複素解析が誕生したのは、ニュートンの流率(時間に対する変化率)に対するバークリーの批判を、ヴァイエルシュトラスが論破し、”極限に近づく”事の厳密な定義を打ち立てた事による。
 当時、この複素解析をめぐる最大の難題が、互いに独立した2つの複素周期を持つ楕円関数の研究でした。解り易く言えば、”楕円の弧の長さを特定する”という問題である。


アーベルからヤコビ、そしてリーマンへ

 楕円函数とは楕円積分の逆函数として、ニールス•アーベル(1802-29)によって発見され、楕円積分は楕円の周長を求める問題に関連し、研究されていた。また、複雑な二重周期性(2方向に周期を持つ)という性質を持ち、三角関数をより深遠な形で一般化させたものと言えます。 
 因みに、複素関数の基礎理論は、先述のコーシーが先駆けとなり、従来の複素積分では数値を導くに困難であった為、”留数定理”の手法を提案した。これに対し、ヴァイエルシュトラウスとリーマンが追い求めたのが楕円関数の世界でした。

 この”楕円関数の源流”を辿れば、オイラーに始まりラグランジュとルジャンドル、そしてアーベルとヤコビの発見に繋がる。
 アーベルは一般的な代数関数の考察から、アーベル積分の”加法定理”を発見し、ヤコビはアーベルのこの発見を”ヤコビの逆問題”という基本課題に作り上げた。そして、これらの問題を解く事がヴァイエルシュトラウスとリーマンの目標になっていく。
 つまり、複数の複素平面も”リーマン面”上では1つの連続した代数関数として扱えるので、学士論文の成果は後の楕円関数の研究でも生きていた。
 楕円関数に関しては、”その3”で詳しく述べる予定です。

 一方、ジョセフ•フーリエ(1768-1830)は自身の解析法で、三角関数の基本的性質である”周期的であり変数に2πを足しても同じ値になる”という性質を利用し、”任意の関数は三角関数の級数で表わせる”という「フーリエ変換」を発見した。
 一方、楕円関数は互いに独立した2つの複素周期を持ち、複素平面における格子状で同じ値を取る。故に、複素解析と対称群(格子の平行移動)との美しい関係を体現する。
 フェルマーの定理に対するワイルズの証明はこのアイデアを使ってる。楕円関数は力学にも登場し、振り子の周期を導く正確な式を与える。因みに、最新の暗号理論にも楕円関数が使われてます。


最後に

 リーマンは、”位相幾何”(トポロジー)の概念すら確立していない時代に、複素平面上の分岐被覆面としての”リーマン面”を導入し、「ディリクレの原理」を用いて、与えられた境界条件と不連続性条件をもつ関数をリーマン面上で構成しました。
 これらリーマン独自のアイデアと独創がどれほど時代を超越したものであったか・・

 リーマンの学位論文の副題は、「1変数複素解析の源流」ですが。”1変数複素解析の基礎”とされるコーシーの積分定理•積分公式や留数定理や有理型関数の特異点での挙動などには殆ど触れられてません。
 一方で、多価関数である複素関数を一価とみなし、自在に扱える基盤を確立し、その上でアーベル積分(アーベル関数)の理論を展開するのがリーマンの真意でした。
 つまり、1851年の第一論文が”複素関数の基盤の構築”に相当し、1857年の第四論文である「アーベル関数の理論」こそが複素関数の応用(楕円関数)とアーベル積分論の展開(リーマン積分)に相当します。

 かなり長くなったので、今日はここ迄です。次回の”その2”では、リーマンとディリクレの関係と、その後に頂点に登り詰めるリーマンの輝かしい功績と隠れざる苦悩についてです。



16 コメント

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数論において (paulkuroneko)
2019-12-13 06:59:35
特に数論においては
リーマンの先輩であるディリクレの影響を強く受けてます。勿論偏微分方程式もですが、ここで得た複素関数の基本的な概念がアーベルの楕円関数に結びつきます。そのディリクレもガウスの数論を大きく確立させました。

一方で第二の解析接続で使ったテータ関数もアーベルが発見したものだったんですね。リーマンはこのテータ関数のお陰でゼータ関数を大きく拡張させ、リーマン予想につなげるんですが。

アーベルがガロアがもう少し長生きしてたらリーマンが後10年生きてたら、数学や自然科学だけでなく人類全体が大きく変わってたように思います。大げさですが少なくとも2つの世界大戦は起こらなかったかもしれません。

転んだサンの記事を読んで不思議としんみりとなります。
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paulさんへ (象が転んだ)
2019-12-13 08:51:50
次回では、リーマンとディリクレについて述べますが。リーマンの論文の中では必ずと言っていい程、ディリクレの名前が出てきます。このディリクレのお陰でガウスの数論は広く世界に知れ渡るようになり、また同じ様にリーマンのお陰でディリクレの名も世界に広く知られる事になりますが。

それにpaulさん語ってるようにリーマンとアーベルの関係もユニークです。そのアーベルもガウスに認められたくて必死に頑張ったんですが、時間がなさすぎました。あと数年彼に彼に時間があったら、ガウスはリーマン同様にアーベルの無限蔵の才能に圧倒されてたかも知れません。

何かここら辺になってくると熱くなってきますね。コメントとても嬉しかったです。
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IQ250? (#114)
2019-12-13 17:51:39
ガウスのIQが250と言われてるけど
そのガウスを驚嘆させたリーマンのIQは
どれ程なんだろ
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#114さん (象が転んだ)
2019-12-13 21:40:41
250ですか。多分、推定でしょうが
知能を数値化する事自体が無理がある様に思えますが、ウウーン難しいですね。
ただ言えるのは、ガウスやリーマン用に知能検査の指標を用意する必要があるでしょうか。答えになってませんね(^^)
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危険な賭け (HooRoo)
2019-12-14 13:03:16
師匠のガウスが賭けに出て
リーマンがそれに乗ったってこと?
それで大成功ってわけね🐭
何だか出来すぎ(^^♪
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してやったり (象が転んだ)
2019-12-14 14:47:48
リーマンの4つの論文のうち
最初の2つはガウスが絡んでます
つまり、ガウスにとってもリーマンにとってもしてやったりだったんでしょうか。
Hoo嬢も少しずつ数学に慣れつつありますね、感心感心。
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2つの解析接続って (#114)
2019-12-17 07:24:38
リーマンブログその1を
ざっと読んだんだけど
簡潔にいえば
絶対値で挟み撃ちにすることと
テータ関数を使うことだよね

3つ目はジーゲルが完成させた
ゼータの根の解法のことかな
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#114さん (象が転んだ)
2019-12-17 08:48:57
正解です。
2番目の解析接続がちとややこしいです。
3編目の解析接続は、リーマンが計算式を伏せたので、ジーゲルが必死で探し出し、ゼータの解法を必死で再現させたらしいです。
コメント有難うです。
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余計な補足(^^♪ (paulkuroneko)
2019-12-19 03:37:11
ルジャンドルの数論の本というのは多分『数の理論』全2巻(900P)で、その第3版(1830刊行)ですか。とても小学生で読めるような本ではないです。呆れてグーの音も出ません(?_?)
「この本は全くの驚異に満ちている。お陰でそら覚えしちまった」のリーマン少年の言葉は、今や伝説となってます。本当に子供が語る言葉じゃないですね。

複素関数の基礎理論はコーシーが先駆けとなり、従来の複素関数の微積分では定積分の数値を導くのに困難であったため、留数定理の手法を提案しました。これに対し、ヴァイエルシュトラウスとリーマンが追い求めたのは楕円関数と代数関数の世界でした。

勿論この源流を辿れば、オイラーに始まりラグランジュとルジャンドル、そしてアーベルとヤコビの発見に繋がります。アーベルは一般的な代数関数の考察から加法定理を発見し、ヤコビはアーベルのこの発見をヤコビの逆問題という基本課題に作り上げました。そしてこれらの問題を解くことがヴァイエルシュトラウスとリーマンの目標になったんですね。

以上、余計なお節介でした。
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paulさんへ (象が転んだ)
2019-12-19 11:05:19
貴重過ぎる補足、有難うございます。
コメント少し修正です。

リーマンと言えば、リーマン予想やゼータ関数や幾何学にテンソルといった多種多様なイメージが強いんですが、全てはこのアーベルの楕円関数の中に潜む複素関数にあった様な気がします。

一方でリーマンの(アーベルの)楕円関数論というのは、ヤコビが提示した”ヤコビの逆問題”の解決の軌跡です。
 このヤコビに、”逆問題”の示唆を与えたのはアーベルでした。アーベルこそが、”ヤコビの逆問題”の真実ですが、アーベルの数学研究は僅か3年程にすぎなかったんですが、アーベルの値打ちを洞察した所に、ヤコビの真価があります。アーベルとヤコビは楕円関数論の研究で優先権を争うかの様な時期がありましたが、ヤコビはもっと評価されるべきだと思います。

 因みに、リーマンの博士論文のタイトルは「1複素変数関数の一般理論の基礎づけ」と堅い表現ですが、厳密に言えば、”1個の複素変数量の関数の”となりますが、「一変数の複素解析の基礎の構築」とした方が判りやすいですか。
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