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今日は、”最後の日本兵”と称された小野田寛郎さんのアナザストーリーです。少し長くなりますが、一気に論破します。
NHKBSアナザーストーリーズ「小野田少尉 帰還~戦後29年ジャングルの中で」を見て、小野田氏に対する印象が少し変わった。
私が子供の頃に見た彼は、勇ましく賢く忠誠心に溢れ、帝国軍人の誇りに思えた。
”スパイというのは頭が良くなきゃなれないのよ”と、お袋はよく言ったもんだ。
事実、小野田氏の家系は天才揃いだ。長兄の敏郎は東京帝国大学医学部で軍医将校、次兄•格郎は東京帝国大学で経理将校。弟•滋郎は陸軍大学校に入り、陸軍少尉なった。
あの横田庄一が少し軽く幼稚に見えた。彼もまた戦後28年に、グアム島で発見された残留日本兵(陸軍伍長)なのだが。
”戦後29年間、フィリピンのジャングルで戦争を続けた陸軍少尉の小野田寛郎。スパイ養成機関の中野学校で受けた特殊な教えは、数々の捜索を跳ね除け続けた。
そして1974年、ついにルパング島から姿を現した。鋭い眼光の裏で見せた不思議な笑顔とは?さらに小野田が潜伏していたルバング島住民や小野田と銃撃戦を行った元軍人の証言で、謎に満ちた29年間に迫る”
小野田寛郎という人
中野スパイ学校での教えは、”生きて虜囚の辱めを受けず”とする戦時訓の教えと異なり、”玉砕せず捕虜になっても死ぬな”とされ、主力撤退後も任務を全うするよう教え込まれ、反撃に備え、敵陣内で諜報を行う残置諜者となるよう叩き込まれた。
スパイ学校を卒業後、予備陸軍少尉として、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられ、フィリピンへ派遣。日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるという無謀な任務であった。
引き上げ命令が既に出ていた為、戦意が低い日本陸軍の各隊は、1945年2月、アメリカ海軍艦艇の艦砲射撃の大火力に撃破された。小野田はルバング島の山間部に逃げ込んだ。
同年年8月を過ぎても、任務解除の命令が届かなかった為、小野田は仲間と共に戦闘を継続し、密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。
1950年に仲間の一人が投降した事で、小野田ら3人の残留日本兵が存在する事が判明。
フィリピンは戦後、アメリカの植民地支配からの独立を果たすも、協定によりアメリカ軍はフィリピン国内に留まる事となる。
ルパング島での30年間
これを”米軍によるフィリピン支配の継続”と解釈した小野田は、その後も持久戦により、在比米軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、計百数十回もの戦闘を展開した。
小野田への秘密裏の聞き取りによれば、侵入してくる者に対し、個人であろうと島民であろうと報復の為に部落への攻撃を加えていた事が明らかになる。
つまり小野田は、”ルバング島が未だ日本軍の占領地だ”と認識してたのだ。
事実、小野田が潜伏してたジャングル近郊の住民が、何回となく捜索に来たので、夜襲をかけ、銃撃や放火などを行った。
主食は、海岸の岩間にできた塩や自生するヤシの実と島民の農耕牛であった。
30年間継続した戦闘行為により、フィリピン警察軍や民間人や在比アメリカ軍の兵士を、30人以上殺傷したとされる。しかし、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半だった。
捜索隊は、現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考えた。しかし、彼らが残した日本の新聞や雑誌で、小野田は当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていたという。
しかし投降を呼びかけられても、スパイ学校での教育を思い出した小野田は、”終戦は欺瞞である”と考えた。
長い長い戦争の終わり
小野田にもたらされた曖昧な情報とスパイ学校での作戦行動計画の為に、30年間も戦い続けたとあるが、実際には、捕虜になり処刑されるのを恐れた?のだろうか。
多数の民間人を殺した罪の意識は、小野田にもあった筈だ。それに、ラジオを改造したトランシーバーを持ってたので、ある程度確かな情報を掴んでたのは確かだ。
しかし、唯一の仲間である小塚金七が死亡し、孤独により疲労を深めた。
1974年2月に、探検家の鈴木紀夫がルバング島を訪れ、小野田との接触に成功。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明し、帰国をうながした。
同年3月9日、かつての上官である谷口元陸軍少佐から、任務解除•帰国命令が下る。
小野田はフィリピン軍基地に着くと、フィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言う。
軍司令官は、一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。司令官は小野田を、”軍隊における忠誠の見本”と評した。
小野田の投降式には、マルコス大統領も出席し、武装解除がなされた。その際、大統領は小野田の事を”立派な軍人”と評した。
小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法の処罰対象になる。
しかし小野田は、終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張。日本の外務省の力添えもあり、フィリピン政府は、刑罰対象の小野田を恩赦した。
本当に終戦を知らなかったのか?
この時に交わされた外交文書によれば、小野田ら元日本兵により多数の住民が殺傷された事が問題視された。
そこで、日比両政府による極秘交渉の中で、フィリピンの世論を納得させる為に何らかの対応が必要とされた。日本政府はフィリピン側に対し、”見舞金”という形で3億円を拠出した。
因みに、フィリピンに対する戦後賠償自体は、1956年の日比賠償協定によって解決済みとされてたが。小野田によるフィリピン民間人殺傷と略奪の殆どは、終戦以降に発生したものであり、反日世論が高まる事への懸念から生じた対処でもあった。
こうして、小野田にとっての”長い長い”大東亜戦争が終わり、1974年3月12日、日本へ帰国を果たした。
帰国の際に、”天皇陛下万歳”と叫んだ事や、現地軍との銃撃戦で、多数の軍人や住民が死傷した出来事が明らかになり、また本当に日本の敗戦を知らなかったのか?という疑問が高まるに連れ、マスコミからは”軍人精神の権化”とか”軍国主義の亡霊”といった批判も受けた。
同じ長期残留日本兵として2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田は、一部マスコミの虚偽報道もあり、戦前と大きく価値観が変貌した日本社会に馴染めなかった。
帰国の半年後に、次兄のいるブラジルに移住する事を決意し、日本帰国後に結婚した妻と共に、牧場経営に従事する。
小野田氏の世界での評価と
2009年に、小野田の話が中華人民共和国のウェブサイトで紹介されると、”この兵士の精神を全世界が学ぶべきだ”、”大和民族は恐るべき民族、同時に尊敬すべき民族”などの賞賛する書き込みがあり、肯定的に評価する投稿の方が多かった。
小野田死去に際し、NYタイムズは、”戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失してる誇りを喚起した。彼の孤独な苦境は、日本人に義務と忍耐の尊さについて知らしめた”とし、小野田が当時のマルコス大統領に、投降の印として軍刀を手渡した時の光景を、”多くの者にとっては格式のある古いサムライのようだった”と形容し、論評した。
また、ワシントンポストも、”彼は戦争が引き起こした破壊的状況から経済大国へと移行する国家にとって、忍耐•恭順•犠牲といった戦前の価値を体現した人物だった。
多くの軍人は<処刑への恐怖>から潜伏生活を続けたが、小野田は任務に忠実であり続けたが故に、多くの人々の心を揺さぶった”と論評した。
”最後の日本兵”の実像と虚像
小野田寛郎の手記「わがルバング島の30年戦争」(1974)のゴーストライターであった津田信は、「幻想の英雄〜小野田少尉との三ヵ月」(1977)で、小野田氏を批判してる。
小野田氏が、島民を30人以上殺害したと証言した事、その中には”正当化出来ない殺人があった”事などを述べ、小野田氏が戦争の終結を承知しており、1974年に至るまで密林を出なかったのは”片意地な性格に加え、島民の復讐を怖れた事が原因だ”と主張する。
事実、これには明白な裏付けがある。以下は、津田信氏の息子である山田順の証言だ。
”40年前、お風呂場で小野田さんがポツリと呟いた終戦を知っていたと”
山田氏の父は手記を書く為に、小野田さんと共同生活をしていた。
”小野田さんは世間が騒いでいる様な人ではなかった。戦争がどうの、帝国軍人がどうのという話は抜きにして、私には単なる気が小さいおじさんにしか思えなかった”
山田少年は、小野田さんと一緒に風呂に入り、彼の背中を流しながら話をした。
少年は私は恐る恐る聞いた。”小野田さん、戦争が終わったのを知っていたんですか?”
すると小野田氏は、何かに怯えている様な目つきになり、”そうだ”とぽつりと呟いた。
少年は”やっぱり”だと思った。それから、小野田氏は湯船に浸かりながら、持っていた銃の話をした。”坊主、銃というのはこうやって構え、こうやって撃つんだ”みたいな話だった。
小野田氏は戦後、ルバング島で生き残った仲間と住民を襲い、食料を奪いながら生きてきた。村人を何人か射殺し、銃は肌身離さず持っていた。だから、戦争が終わっていたのを知っていても、報復が恐くてジャングルを出られなかった。ただ、最後に残った仲間の小塚一等兵がフィリピン警察軍に殺されたので、観念したのだろう。
つまり、元上官の任務解除命令やフィリピン軍に投降などの一連の儀式は、フィクションの上に成りたっていたのだ。
ただ、今思うのは、”戦争は人の運命を狂わせる”という事だけだ。小野田氏が亡くなってから、ネットに書き込まれた若い世代の意見を読んだ。また、彼を戦前の強い日本人とか、誇り高き軍人の象徴と捉えている識者の追悼コメントや追悼記事も読んだ。でも、なぜかしっくりこない気持ちを、今日も抱えている。
以上、山田順氏の回顧録でした。
最後に
結局、戦争は全てを狂わすという事ですね。正義も信念も使命も、そして忠誠も信頼も全て狂わしてしまう。変わらないのは、仲間への思いと故郷への郷愁だけだ。
結局、”最後の日本兵”となった小野田寛郎氏も、スパイのスペシャリストなんかではなく、何処にでもいるごく普通の日本人だったのだ。幾ら、スパイの専門教育を目一杯叩き込まれても、人間の本質が変わる事はない。
腹が減れば、民間人を襲ってでも食べ物を奪おうとするし、仲間が危険な目に遭えば、命を張って守ろうとする。
それが人間の本能だ。
しかし、山田氏と同様に、何だかココマデ書いても、しっくりこない気がする。
戦争に答えも理由もない。思想も信念も信仰も主義も神様も、全てをまるごと破壊するのが戦争だ。
小野田氏がブラジルへ渡ったのは、全てを忘れたかったからであろうか。自らが創り上げた”29年間の虚構の戦争”を。
それでも彼は、その”虚構の時空”を命を懸けて生き伸びたのだ。
戦争とは、そういうのも含めて戦争なのだろう。
戦争を経験した人にとっては、死ぬまで戦争は続くんですね。何だかジーンと心に深く沁み込むコメントです。
29年ぶりにかみしめた祖国の地は、小野田氏にとっては皮肉の地でしかなかったんです。全ては戦争が狂わせたんです。
小野田氏にとって戦争は続いてるべきだったし、続いてないと困るものでもあったのでしょうか。
ジャングルに赴任後、すぐにアメリカに撃破され、あっさりと戦争が終わり、その喪失感に深く苛まれたんでしょう。そういった複雑な葛藤が失われた29年を生んだとも言えます。
小野田氏にとっては、最初の戦争こそが生きる希望だったのかもしれません。どんな理不尽な戦争であろうとも、仲間と共に戦い共に生き抜く事が本望だったんですかね。
殆ど戦争が終りかけてた時に、フィリピンのジャングルに赴任せよという命令自体、クレージーですよね。結局は陸軍上層部の判断の失態であり、その犠牲になっただけですもの。
結局、小野田さんにとって「リアル戦争ごっこ」をもっと続けたかったんでしょうか。
と叫びたい気持ちになる記事です。
戦争の全てに仕掛けとトリックがあるように
忠誠心や使命感も所詮はフィクション。
太平洋戦争末期の特攻精神も軍上層部が勝手に作り上げた神話でした。
この時期はこうした戦争の悲劇がドキュメント化され番組を賑わします。
もう一度戦争の赤裸々な姿を見届ける勇気も今の日本人には必要でしょう。
今や真実ではなく、フィクションが暴かれる時代。
コメント頂いて、久しぶりに読み返してみました。自分ながらよく出来た記事だと思います。
コメントありがとうございます。