昨日はクリスマス明けというのに、何だかシリアスな話題となってしまいました。
それを吹き消すかの様な、今日はサラっとした軽い話題でいきたいと思います。
双子素数と5億ドルの保証金
〜数学は我らが思ってる以上に高く付く
素数に関しては、”リーマンの謎”ブログで腐るように述べたが、素数は未だに数多くの疑問に包まれてる。その中でも一番の疑問は素数の分布である。
この問題には歴史上の偉大な数学者が数多く取り憑かれた。古代ギリシャのユークリッドとエラトステネスは無限個の素数がある事を既に発見してたが、その分布までは闇のままだった。
例えば、最初の100個では25個の素数が存在する。1001と1100の間には16個の素数しかない。100001と100100の間では僅かに6個。つまり、このままで行けば素数は非常にまばらになる。
19世紀の終わり、ルジャンドル(仏)とガウス(独)は素数の分布を調べ、ある素数Pと次の素数の間の間隔は平均してlogPぐらいであろうと予想した。いい換えれば、素数Pの出現確率は約1/logPとなる。
ここで、2と3、11と13、197と199など連続する素数を”双子素数”と呼ぶが、これらは1個の偶数により隔てられる。
4個の偶数により隔てたれた素数を”従兄弟素数”と呼び、6個の偶数により隔てられた素数を”セクシー素数”とも呼ぶ。
この双子素数に関して判ってる事は、普通の素数よりもずっと少なく、非常にまれであると事だ。最初の100万個の整数の中には8169の対しかない。これまでに発見された最大の双子素数は39万近くの桁数を持つが、多くの事は未知数である。
そこで、双子素数の対は無限にあるのか?無限にあるのか?
多くの数学者は前者を信じてるが、ゴールドストン(米)とイルディリム(トルコ)がこれを証明しようと企てた。
それは、例えPが無限に向かおうとも、logPよりも遥かに小さな隣り合う素数の間に無限個のギャップ(間隔)が存在するというものだ。この企ては無限個の双子素数対を証明するものではないが、双子素数研究の正しい一歩とされる。
その後、大きな双子素数対を追跡してたトマス・ナイスリー(米)は4×10¹⁵までの整数を調べた。このアルゴリズムはプルン定数(ウィーゴ・プルン、1919)とも呼ばれ、双子素数の逆数の和の極限として定義されるもので、B₂=Σₚ(1/P+1/(P+2))=1.902160583…で表される。
比較的平凡な計算式だが、ナイスリーが使ったコンピュータは、誤った結果を弾き出した。つまり、彼は双子素数を調べてる間に、かの悪名高い”ペンティアム・バグ”を見つけたのだ。このプロセッサエラーにより、インテル社は5億ドルの保証金を払わされた。
これは、数学者が彼らの研究と間違いにより、どこへ導かれるか誰にも予測できないという素数(プライム)、つまり第一級(プライム)のケースという事になった。
以上、「数学をめぐる50のミステリー」#7からでした。
ヒルベルト問題と数学ガールの大失態と
数学の証明は非常に複雑に入り込んでる為に、専門の査読チームによる骨の折れる作業が要求される。
前述のゴールドストンとイルディリムの双子素数予想では、お祝いが数週間後には失望に変わった。同僚たちが2人の論証に欠陥を見つけたのだ(2003年4月)。
この1年前には、MJダンウッディ(英)がポアンカレ予想の証明を公表した。しかし、2、3週間もしないうちに証明の欠陥が判明した。
3番目のケースは、アンドリュー・ワイルによるフェルマーの定理の証明だ。
これも査読の過程で証明の不完全さが発見され、この欠陥を取り除くのに1年半が掛かった。故に”フェルマーの最終定理”とも呼ばれる。
数学の未解決問題で有名なのが、”ヒルベルトの23の問題”である。
これまで解決されてるのは、20の問題だけで、残り3つの難題、つまり、第6(物理学の公理化)と第8(リーマン予想)と第16だ。この内、第8問題と第16問題は21世紀の最も重要な数学問題とされる。
魅力は危険と隣り合わせで、有名な難題はそれらを適切に取り扱う為に、必要な前知識を持たない人たちに魔法をかける。しかも、間違った相手を好きになるのと同じ様に、一旦虜になってしまうと、自身の適合性に対し、自己欺瞞に陥る危険が大きいのだ。
2003年11月、スエーデンの22歳の女子学生がヒルベルトの第16問題の一部を解決したというニュースが流れた。
彼女の論文は、既に査読チームによるチェックが済み、「非線形解析」の出版が承認されていた。エリン・オクセンヒールムは自身初の論文がバカ当りした事に、一層得意気になり、直ちにメディアに知らせた。
更に、インタビューまで行い、本を出す計画まで発表した。彼女の幸運はその後も続く。映画化の可能性、一流研究所のポスト、安定した資金の流れ、どれも確かな事に思われた。
因みに第16問題とは、2次元の力学系の解は単一の点に帰すか?またはサイクルに終わるのか?という問題である。
ヒルベルトは、この力学系を記述する微分方程式(多項式)を研究し、サイクルの数が多項式の次数にどの様に依存するのかに注目した。
彼女の8pに渡る論文は、シミュレーションによりある微分方程式が正弦関数に似た振る舞いをするとの観察から始まった。
次に、項の次数すら評価せずに方程式を近似した。更に近似がなされ、僅かな数値例とコンピュータ・シミュレートだけで正当化される。最後に、未証明の言明においては、この結果は”上記近似により偽であると立証されない”と主張した。
この様な全くの無頓着な主張は、彼女の仕事を完全に役立たずにした。まさに”数学ガールの無知”が招いた大失態でもあったのだ。
この数学ガールへの批判の嵐は留まる事を知らなかった。「非線形解析」の出版社は論文の出版を延期し、再査読を要求した。その後すぐに出版が取り消された。
未熟な科学者が、初歩的な誤りや欠陥のある論文を学術雑誌に提出するという事は珍しくはない。それらの間違いはすぐに露見し、質の悪い論文はカットされる。お陰で提出論文の90%以上は拒絶される。
しかし彼女の場合、この手続きが完全に破綻していた。査読チームの身元すら公表されず、彼らはエンジニアであったとされる。エンジニアにとって近似式の使用は日常茶飯事だが、この様な近似式のみの強引なやり方は数学界では受け入れられる筈もない。
さらに言えば、若い女性がメディアに接近した事実こそが、最大の失態でもあった。
数学者は生涯の大半を狭い部屋に閉じこもり、難題の研究に費やす。これは悲しいかな、数学者の不運で必然の宿命なのだ。
外の世界の喧騒から隔離された環境と気の遠くなる時の積み重ねこそが、数学のレベルと質を保証する。故に、メディアによる誇張宣伝は数学にとって一利なしである。
数学者の唯一の満足は、同じ分野における同僚からの喝采であり、専門家の数は僅か1ダース程度でも、彼らから承認のメールを受ける事は、しばし最高の賞賛となる。
ある定理の証明が成功しても、それが世間一般の知識になるのは何十年も先の事であり、堅牢な実用性が現れるのはもっと先である。
勿論、無名の陰に隠れた人生を通じ、欲求不満に陥った若き数学者たちが、公開競技場を探し求める事は理解できない事ではない。にも関わらず、多くの数学者は脚光を浴びる事を避けるものだ。
つまり、証明云々というより、メディアに通報する事が大失態の原因を作ったのだ。
微妙な一連の推論、綿密な考察、厳密な論証、これらはどれも、娯楽番組には向いてはいない。好むと好まざるにも関わらず、数学は人目につかない地味な科学の一分野なのだ。
以上、「数学をめぐる50のミステリー」#8からでした。
最後に〜数学とジャーナリズム
この本の著者ジョージ・G・スピロ氏は、イアン・スチュアートやジョン・ダービーシャーと並ぶ、世界的に著名な数学ジャーナリストの一人である。特に、この3人は一度は数学を離れている。故に、私にはとても他人には思えない。
私も一度は数学を完全に捨てた。”乞食の学問”と侮蔑し、決別した。しかし、捨てられたのは私の方だった。
私は数学を捨てるべきではなかった。数学を捨てずに辛抱強く付き合ってたなら、貧乏のままだったかもしれないが、ヘボを犯す”数学ガール”くらいにはなってたであろうか。
しかし今、何とか数学と向き合う努力をしてはいる。そして、数学も少しずつそれを認めてくれようとしている。
私がブログを書く理由は、昨日の”たかがブログ16”でも書いたが、実は、慰めでも自己満足でも自己主張でもない。一度は捨て去った数学を広める為に、脊椎が動物的に反射して書いてる様なものかもしれない。
神から授かったと言ったら大ウソだが(笑)、数学がブログを通じて拡散したとしたら、それだけでも嬉しい限りだが。現実はそうは甘くはない。
ケプラーのお袋が息子に言い放った様に、日本では未だに”乞食の学問”に近い。
神父を目指してたオイラーもリーマンも、親父に謝りながら数学を続けた。元々医学志望だったアーベルは、家族と数学との板挟みになり、若くして死んだ。
過去の偉大な数学者も、何度も数学との決別を企てそうになったのかもしれない。
しかし、現代数学には他の学問にはない無限の魅力と魔法がある。それ以上に毒性も強いが、扱い方に注意すれば、昔ほどには堅苦しくはない。
それに科学の全ての土台は数学にある。数学を理解せずして、脳神経医学も物理学も経済学も成り立たないのだ。
日本には、数学を世に広めようとするジャーナリストの数は異常なまでに少ない。故に、専門の数学者や教授が初心者に判り易く解説した本を出すが、どうしても専門書の域を出ない。
数学者も数学も人目につかない学問であり、人種である。故に、このブログにもどれだけの人が読み、理解し、どれだけのアクセ数がつくかは甚だ疑問だが・・・
数学とは、今までもこれからも”悲しみを背負った学問”なのだろうか。
全く同感ですね。
数学は元々神学に通じるものがありましたから、万能の学問であった事は確かですが、日本では今や受験に必要な数学のレベルです。
欧米では自然科学に積極的に数学を取り入れる事が当たり前となってますが、日本はマダマダみたいですね
数学は夢と悪魔が隣り合わせの学問ですから、扱い方を1つ間違えると、最悪の事態が待ってます。
そういう意味でも、開かれた数学は必要だとは思いますが、難しい所ですね。
でも今や、数学は多種多様化しすぎて、高度化するほどに近寄る相手を選ぶのでしょうね。
考えるほどに近づき難い学問ではあります。
予想だけで証明が完結するということと同じだろう。
このバカ女は何を血迷ったのだろうか。
安倍の国会答弁もアホっぽかったが、数学ガールの大失態もクソすぎる。
メディアへの露出はともかく、これからの近未来の数学は開かれたものであるべきだ。
殻に閉じこもってても、本当の扉は開かれない。
数学は今や未来の扉が開くのを待ち望んでる。
転んだ君が主張するように、数学もジャーナルの上に乗るべきだ。
数学を舐めたらいかんぜよ!
回りにチヤホヤされないから、レヴェルが保持できる。
数学とは悲しい学問であると同時に、天使と悪魔が共存する学問ですね。
それ故に、学ぶ人種を選ぶ学問でもありますね。
現代数学がこれだけ多方向に多様性を持てば、限られた人しか数学を扱えない時代がそこまで来てると思います。
隣の久留米市では、12月に入り感染者が目立ってきました。柳川市もうかうかしてられないです。無症状感染者を含めると、数字の3倍ほどはいるでしょうね。
今や感染経路を特定する事がほぼ不可能になりました。経済緩和もGoToも完全に裏目に出て、政府の大失態だけが目立つ1年にもなりました。
お互いにコロナには気を付けたいものですが・・・
コロナ感染の数字の中身が以前と違ってきてるような気がします。
殆ど感染源を特定するのが困難になってきてます。春先のクラスター対策が全く通用しなくなりました。
いくら外出を控え、3密を避けても、今や家族内感染というのが主流になりつつあります。
軽症者は中症者となり重症者となれば、8割の確率で死にます。無症状感染は5割の確率で感染します。
経済と感染対策のバランスという甘いことが通用しなくなりました。
考えるだけで鬱になってきます。籠もって鬱になり、ニュースを見て鬱になる。
今年も終わろうとしてますが、まさかこんな年になるとは思っても見なかったです。