前回”その7”の後半では、ペレルマンの論文を査読する3つのチームの奮闘ぶりを述べました。
第一のチームはコロンビア大のジョン・モーガンと中国人のテイエン・ガン。第二のチームはブルース・クライナー(ミシガン大)とジョン・ロット(同)。この2つのチームはそれぞれ473pと192pに渡る分厚い査読論文を発表していました。
そして、後々大きな問題を引き起こすのが、第三のチームであるペンシルベニア州リーハイ大のツァオ・ファイ・トン(曹懐東)と中国中三大のチュウ・シー・ピン(朱熹平)。
この中国人チームは、”その2”でも紹介した様に、2人はアメリカ系中国人のヤウ・シン・トウン(丘成桐=ハーバード大)の弟子で、ヤウは親友ハミルトンのリッチフローが成功するものだと信じ切っていた。
ヤウは、”リッチフローこそが多様体を素多様体に分解できる”とサーストンに近い幾何化予想をしてのだ。
つまり、ペレルマンに先を越された形となり、口惜しいヤウは、弟子の2人にペレルマンの論文のアラ探しをさせた。
その上タチが悪い事に、ヤウは2人が”ポアンカレ予想の新しい独立した証明を考案した”と発表し、ペレルマンにケチをつけ、数学界に大きな混乱を引き起こします。因みに、テイエン・ガンもヤウの弟子で、2005年には”田剛=丘成桐事件”を引き起こします。
というのも、ツァオとチュウの査定論文にはクライナーとロットの論文の一部が含まれていたんです。つまり中国人の2人は、ペレルマン論文の理解できなかった部分を盗用により補おうとした。
故に、この混乱と騒動こそが、ペレルマンとヤウ自身を大きな困惑の中に落とし込んだ。
そこで今日は、この奇怪でドラマチックな奇悲劇について述べる事にします。
2つの査読チーム
ペレルマンの論文は極度に圧縮された簡潔なもので、要点だけしか書かれてなかった。
リーマン予想と同様、最先端の論文は教科書や解説本ではない。著者は読者が基本的な事を全て知ってると考える。故に、全ての論文をアダムとイブから始める訳にはいかないのだ。
しかし数学的慣習を考慮しても尚、彼の論文は簡潔だった。詳細な論文を書くのを拒否するペレルマンの態度は、一部の数学者からは批判の対象にもなった。
2004年の夏、上述の2つのチーム(モーガンとテイエン、クライナーとロット)は、ワークショップを開催し、ペレルマンの論文の全てが正しいと断言は出来なかったが、重大な過ちを犯していなかった事だけは確認できた。
この4人組は2005年の夏に、「リッチフローの3次元多様体幾何化の周辺、特にペレルマンの業績について」の講演を開催した。因みに、この講演にはハミルトンらが加わり、講師を務める。
モーガンとテイエンにとって、ペレルマンの才能と途方もない洞察力は明らかで、ペレルマンの大成功を確信する様になっていた。しかしペレルマンが、自らの論文をこれ以上書くつもりがないのも明らかだった。
そこで2人は、彼のポアンカレ予想の証明を本にしようと考えた。一方、クライナーとロットにはサーストンの幾何化予想の検証が委ねられた。
彼らの作業は3年近くにも渡った。そして、彼らの労力は想像を遥かに超えていた。
しかし、ペレルマンの科学的精密さと簡潔さに感動が深まっていく。それでも理解するには多くの苦悩を伴う。そこで、多くの質問をペレルマンに送ったが、返事はいつも速くて正確で適切で、次第にその簡潔さは気にならなくなった。
特に、ペレルマンの英文は驚く程に正確だった。”ホーン型をした先端を取り除き、ほぼ標準形のキャップを接着する。この時曲率ピンチが保存され・・・この標準キャップ付き無限円筒中の対応するポールに対しδ’近似となる様にする”と書いてる様に、専門家による修正済みにも思えた。
確かに、ペレルマンの論文には幾つかの誤った主張や不完全な議論が含まれていたが、重大で致命的な誤りは1つもなかった。
事実、ペレルマンは最初の論文にあった幾つかの誤りを2度目の投稿で訂正している。それ以外の誤りも、彼が導入した手法で修正できるレベルのものだった。
それに簡潔とはいえ、ペレルマンはサーストンの幾何化予想の証明に必要な要素を全て提供していた。
このプロジェクトを始めて1年が過ぎる頃には、ペレルマンとのメールの交換が止まった。”ペレルマンは数学から身を引いた”と、モーガンはため息をつき、”それが彼の意向なら仕方がない”とテイエンも肩を落とす。
もう1つの査読チーム
多くの数学者の知らない所で、中国人の2人の学者がペレルマンの論文のアラ探しをしていたのだ。
前回”その7”でも紹介したツァオ・ファイ・トン(曹懐東)とチュウ・シー・ピン(朱熹平)だ。
59年生まれのツァオ(リーハイ大教授)は師匠であるヤウの影響を受け、リッチフローへ目覚め著しい業績を挙げていた。
一方、チュウ(中山大学教授)は国外ではツァオ程は有名ではなく、偏微分方程式が専門だった。
ペレルマンの論文がウエブ上に表われた時、2人の師匠でもあり、フィールズ賞(1982)受賞者のヤウ(丘成桐=現ハーバード大)は面食らった。”その2”でも述べた様に、彼は”リッチフローこそが多様体を素多様体に分解できる”と予想し、ハミルトンのプログラムが成功すると信じ切ってたし、同時に、その問題点も解っていたからだ。
しかしヤウは、ペレルマンの論文が詳細を欠き、もっと詳細な説明が出来るものと期待した。そこで彼はチュウとツァオに助言し、2人はペレルマンの助けを借りる事なく、約3年をかけ厚さ4㌢を超える原稿を完成させる。
2人は、ポアンカレ予想の完全なる証明を確信した。いや少なくともその筈だった。
そこでヤウは、そのテストランをハーバード大で行ったのだ。
2005年11月、セミナーは最高潮に達し、その論文は<亜洲数学>誌(Asian Journal of Mathematics)に投稿され、同誌編集部に受理された。
「ポアンカレ及び幾何化予想の完全な証明〜リッチフローに関するハミルトン=ペレルマン理論の応用」というタイトルで論文は紹介され、次号予告には”中山大学のチュウ教授、100年来の数学の謎を解く”とも記された。
そこでヤウは、”先駆者(ペレルマン)は基礎を築き、骨組みを完成させたのは中国人です。あのゴールドバッハ予想よりも遥かに重要で、素晴らしい業績なのです”と自慢げに語った。
中国の<新華社>は、素早くこのニュースを取り上げた。
”2人の中国人数学者が、1世紀以上に渡り世界中の科学者を悩ませてきた最後のパズルを完成させた。ペレルマンはポアンカレ予想の証明のガイドラインを発表したが、この難題を解く方法を明確に指摘してはいなかった”
<人民日報>は、”一流の数学者、ポアンカレ予想解決での中国人の業績を認める”と報じた。
ニュースはインドにも伝わり、<インディア・ウエブサイト>は、”数学の最難問を解決、中国人数学者の素晴らしい聖火”と報じ、世界中の中国の大使館も”中国人数学者が世界的な難問を解いた”と大喜びした。
中国人数学者たちの愚かな主張?
これらマスコミの騒ぎ様は世界中に衝撃を与えた。
しかし、誰もが別証明があり得る事など信じてなかったし、中国人数学者たちの主張はバカげた話に聞こえた。
一方、モーガンとテイエン、クライナーとロットの<4人組>は、この騒ぎを知ってて知らぬふりをした。しかし数学界は騒然としていたのだ。
但し中国人の2人は、論文の冒頭ではハミルトンとペレルマンの業績を認めてはいたように思える。
”この証明はリッチフローに関するハミルトン=ペレルマン理論の無上の達成とみなすべきだ”と概要の中で始め、”大きな寄与をしたのは間違いなくハミルトン=ペレルマンである”で終わっている。
だが彼らは、”我々はポアンカレ予想とサーストンの幾何化予想の完全なる証明を提供する・・・我々の特異点構造定理の証明がペレルマンの証明とは異なる事を指摘したい・・・その違いはこれらの点においてペレルマンの論旨を理解するのが困難な事である”とも書いている。
彼らの意図は見え見えだった。
つまり、ペレルマンの証明はあまりにも不明瞭だから、俺たちが正しい(別の新しい)証明をしたんだとでも言いたかったんだろう。
事実、序文の終わりにかけ、”ペレルマンの主要な論旨の幾つかは我々の新しいアプローチに置き換える必要があるが、これは幾何化プログラムの完成に必要なペレルマンの論旨が、我々には理解不能だったからだ”と述べ、2人は幾何化プログラムに必要な材料の一部をクライナーとロットの注釈から取り込んでいた。
序章では、ヤウへのご大層な感謝の言葉とハミルトンへの大きな恩恵を明確に記している。しかし、ペレルマンへの謝辞はもっと隠れた所にあった。
”ペレルマンはハミルトンプログラムに残った生涯を克服する為の斬新なアイデアを持ち込んだ。我々の仕事はハミルトンの基本的アイデアとペレルマンの新しいアイデアに基づく、ポアンカレ予想と幾何化プログラムの証明が1つにまとまるかどうかを理解しようとする試みが後押しとなって生まれた”と、2人はペレルマンの仕事を”目覚ましいもの”として評価し、論の文全体に渡り、個々の観察や声明及び証明は”ペレルマンによる”とも指摘した。
しかし多くの数学者は、中国メディアの曲折した報道を耳にし、序文だけチラリと見ただけで腹を立て、論文を読む事すらしなかった。
但し、2005年12月に提出されたこの論文は僅か4ヶ月で受理されてる事実だけでもレッドアラート(警告灯)ものである。その上、受理した雑誌社<亜洲数学>の編集長がヤウだった。
そして3つ目の警告灯は、ツアオとチョウの原稿が受理から僅か6週間後に出版された事にある。つまり、ペレルマンのフィールズ賞受賞が正式発表される前に強引に出版を試みたのは、誰の目にも明らかだった。
それに加え、2人の論文を出版する決定は、<亜洲数学>誌の審査員26名の意見を求める事なく下されていた。事実、受理決定は編集長のヤウにより強引に決められ、審査員の誰一人も抗議の声を上げなかった。
長くなりすぎたので、今日はここ迄です。
次回は、ヤウを含めた中国人査読チームの盗用疑惑の真相について掘り下げたいと思います。
でも次回で書くつもりですが、中国に数学アカデミーを作るには巨額な資金を国家から引き出す必要があったんです。
それであえて汚い手に出たと思うんです。それにしてもやり方が強引すぎました。
ライプニッツ=ニュートン論争なんかと比べると
やり方は汚いし幼稚だし
今の中国と同じで何にでもチョッカイを出す意地悪爺さんと同じよ👅
それに、数学だけでなく物理学も神の領域にありました。それでも彼は数学に携わる人種の卑しさに若い頃から辟易してたといいます。
因みに、フィールズ賞受賞は”幾何学への貢献とリッチフローの解析的・幾何的構造への革命的な洞察力に対して”でしたね。
少しWikiっぽくなりましたが、コメント色々と勉強になります。
ヤウはカラビ予想でフィールズ賞を受賞しますが、おかげでポアンカレ予想にも大きく踏み込みます。
ヤウの家庭はペレルマンほどに恵まれてなく、父が死んだ時は赤貧に陥りました。そうした複雑な環境がポアンカレ論争に足を踏み込ませたとしたのかもです。それに母国と後輩のためにと、自らの名声を世界へ轟かせる為に、あえて無謀な道に踏み込んだとしても。
面白いのは、そうした喧々諤々な論争を避けるために、ペレルマンのフィールズ賞受賞の理由にはあえてポアンカレ予想が入ってないということです。
しかしペレルマンはポアンカレ予想を証明したことで、クレイ研究所が提示する懸賞金1億ドルをも受け取ってはいない。
結局、ペレルマンにとって、フィールズ賞も懸賞金も泥臭く思えたことでしょう。勿論、ヤウの存在も。
ヤウもそんなペレルマンの異次元の偉業に嫉妬?したとも言えますね。