最終回の今日は、終戦後、強制収容所を出た入江氏の農園での新たな生活と、GHQを辞め、野球外交に勤しんだキャピー原田氏の躍動について書きたいと思います。
特に、強制収容所における入山氏夫婦の複雑で特異な思いには、改めて感銘を覚えました。
写真は、1944年の鶴嶺湖リーグで首位打者のトロフィーを持つ入山正夫さん。因みに、米野球殿堂での日系野球展の記念ユニホームを着用(共同)。
その入山氏も”日系人にも良い選手は沢山いたんだが、相手にしてもらえなかった。随分と時代が変わった”と、懐かしさを隠せなかったみたいですね。
再び故郷へ
1947年、入山正夫は兄のいるコロラド州を引き上げ、5年ぶりにカリフォルニアに帰ってきた。故郷のガダループの農園でブロッコリーの収穫などをして、しばらく働いた。
農場の仕事は多忙を極め、少ない時でも1日10時間は働いた。しかし入山には、延々と続く単純作業に物足りなさも感じていた。
そこで彼は農場を離れ、ロスへ向かった。
その後、庭師として働き、白人の経営する金物屋で働いた。
そこでも入山は野球の事が頭から離れなかった。”二世オールスターズ”に入り、強打を誇った。
その後サクラメントに移り、友人の写真スタジオを手伝い、1949年に田端マツコと結婚する。結婚を期に、ロス近郊のラブハラに移り、庭師として独立した。
一方で同じ頃、キャピー原田も軍人将校を辞め、新橋で旅行会社を始めた。戦後初のアメリカの旅行会社だった。
ここでも原田はアメリカから多くの二世の助っ人を呼び寄せ、日本のプロ野球に大きく貢献する。
1953年には巨人軍をサンタマリアに呼び寄せ、日本プロ野球初の海外キャンプを成功させた。これをきっかけに常勝巨人軍の基盤が出来たのは言うまでもない。
同じ年、NYジャイアンツを招待させた事がきっかけとなり、極東担当のスカウトに就任する。日本人メジャー第一号の村上雅則を誕生させたのも原田の手腕であった。
そして1954年、彼の人生の中で最も華やかな瞬間がやってくる。モンローとディマジオの来日だ。
ディマジオから突然1本の電話が、日本にいる原田に掛かってきた。
”君を探してたんだ。俺は結婚するよ”
”おめでとう。それで相手は?”
”君にも前に紹介しただろ。マリリンモンローだよ”
”それはよかった。心から祝福するよ”
”実は頼みがあるんだ。ハネムーンで日本に行きたいんだ”
”本当か?”
”本当だよ、実はサンフランシスコで式を挙げて、君にに連絡をと思ったが、君はいないし、報道陣を振り切るのに精一杯で・・・”
”今何処にいる?”
”パソ・ロブレス”
”そんな田舎町にいるのか?とにかく、すぐに日本に飛んできなさい。準備はしておくから”
サンフランシスコ・シールズ軍(当時2A)を連れてきた時も原田は脚光を浴びた。ディマジオを連れてきた時も社会人やアマチュア野球の指導や復活でも、彼の腕前は讃えられ、二世助っ人の導入や巨人軍の海外キャンプも大きくクローズアップされた。
しかし、今回のモンローとディマジオの来日の時ほど原田の存在が大きく語られた事はなかった。
24日間の”モンロー=ディマジオ旋風”は今や伝説となった。
平和の時代と苦しみの終わり
キャピー原田と野球の関係は更に続く。
1966年原田はアメリカに戻り、カリフォルニア・リーグ(A級)所属チームのGMに就任する。彼はマイナーの試合でも年間前売券を売りさばいた。お陰で、最優秀GM賞を獲得する。
同年、SFジャイアンツに戻り、オーナーとの二人三脚が23年間続いた。特に”MLBプロモーション”の国際部長になってからは日米野球の交流に力を尽くし、同時に政界(共和党)への進出も試みた。
しかし、全てが順調な筈もなかった。彼はガンで4度の手術を経験したが、すべてクリアした。そんな不死身の原田氏も3度の結婚を経験した。
一方、ロス近郊のラブハラで12年間庭師を勤めてた入山氏は、1967年に長らく夢見てた造園器具の店を持つ事に成功した。
お陰で47歳になった彼は、益々多忙を極めた。
そして時代はあっという間に過ぎ去った。その間に合衆国政府の日系人に対する不正是正の努力が進んでいた。
元々、連邦最高裁は終戦の前年に、日系人強制収容を違憲とする立場をとってはいた。その補償の動きは1948年から始まっていた。
1948年の損害補償請求法を起点に、退職年金法が改正され(1972)、1978年には日系人にも退職金を受け取る資格を得た。
そして1983年2月、とうとうアメリカ政府は戦時中に日系人を収容したのは”重大な不公平”であった事を認めた。
カーター大統領によって作られた467頁にも及ぶ報告書には、”日本に対する恐れと憤りの中で行われたこの政策は日系アメリカ人に対する多くの人々の無知による所が大であった”と述べられてる。
同年8月、アメリカ政府は強制収容の償いとして日系人1人当り2万ドル(480万円)を支払う事を約束した。日系人の全てが満足した訳でもないが、多くは”大統領はフェアだ”と評価した。
そして、1988年8月、レーガン大統領は収容所に入れられた日系人に総額12億5千万ドルの支払いを命じる法案に著名した。
50年後の思い
入山はかの強制収容所を、時代が生んだ”やむを得ない出来事”と振り返る。
妻のマツコさんも、”当時は大変でしたが、今となっては貴重な勉強をしたと思ってます”と感慨に浸った。
”日本人というのは何と優れた文化や伝統を持つ民族である事を思い知らされました・・・全く何もない所に立派な庭園を作り、ギリギリの限界状況下で最高の芸術をつくる民族性を持ってる事に感動しました。
・・・夢中で生きて、そして今もこうして行きている。それに感謝するばかりです”
人生には割り切りが必要である。大きな歴史の中で自分1人の歴史を認める以外に生きる方法はないではないか。
自分の店を持って10年、やっと生活が安定した。入山夫妻は既に50代になり、店は益々繁盛した。
”アメリカ人になった私が懸命に日本製の製品を売っている。時代とは面白いもんですね”
キャピー原田が結婚披露宴もかねて日本を訪れてた1994年秋、入山夫妻もまた日本を訪れていた。
38年間たった1度も休みを取らなかった夫妻も、やっとそんな時間を取れる様になっていた。正夫は弟の稔が最後に生きてた場所を見ておきたかった。
中山競馬場は、弟が数十発の銃弾を受け帰ってきた所だ。稔は微かな意識の中で、何とかその広い土地に機を着けようとしていたのだ。
真っ直ぐで純朴な気持ちで、日本勝利の為に飛び立っていった弟を思うと涙が止まらない。そして、入山夫妻の胸のつかえが1つ取れたのは、言うまでもない。
サンタマリアの空
1944年11月1日、サンタマリアの空は真っ青だった。
入山正夫が高校の時以来、学校に足を踏み入れるのは初めてだった。トランクからグローブを取り出し、昔の様にグラウンドの方から入ろうとした。
”今日は本通りに面した正面から入りたい”
入山は校舎のある正面から入った。ちょうど放課後を知らせるチャイムが鳴った。
赤・白・青・黃とそれぞれの色に身を包んだ若い男女が屈託のない表情を見せながら、四方へと消えた。
約束の時間は近いが、野球はオフシーズンなので、グラウンドには誰もいない。入り口に入ると芝生の緑は目に映り、呼吸が荒くなった。
グランドの中央のセカンドポジションの所に男が立っていた。彼はサンタマリアの赤い野球帽を被っていた。
入山正夫は男の方に、53年の時間を掛けてゆっくりと歩いていった。
この2人の再会は、「二つのホームベース」の著者である佐山和夫氏の無知な問いかけがきっかけとして始まった。
以前、二人をそれぞれ取材してた時、”一度逢いたいな、ハイスクールで別れて一度も会ってないから”と2人とも同じ言葉を語ってたのに、佐山氏は驚いていた。
キャピー原田は、戦時中に負傷して以来、球を投げる事すらなかった。
しかし、実際に2人でキャッチボールをしてみると、”ダメかと思ってたけど、まだまだ投げられる事が分かって嬉しかったよ”と原田氏が言えば、入山正夫もまた
”肩が軽くてもっと強い球が投げられそうだった”と、二人の言葉はここでも同じだった。
最後に〜私たちの知らない戦争
4回に渡り、長々と紹介しましたが、それに耐えうる”二つのホームベース(運命)”だった様に思う。
戦争は、2人にとっては究極の悲劇でしたが、2人ともその悲劇を肯定的に捉え、積極的に生き抜く姿には気品すらをも感じた。読んでて感銘が途絶える事もなかった。
真の感動というのは、勇気をもらうとは、こういう事を言うのだろう。
この本に出会えて、私はただそれだけで幸せを感じた。
最後に、広島大付属小4年(当時)の菊池さんの作文で締め括るとする。
”「弟と戦場で会ったら・・・」
この見出しに私の目が止まった。そんなこと、今まで考えたこともなかった。そして、この記事を読んで、私はこわくなった。知らないことばかりだった。
米国で生まれて日本で育ち、高校から米国に戻った入山正夫さんは「ノー・ノー・ボーイ」だった。ノー・ノーとは、米政府のいかなる命令にもしたがうかを問う忠誠テストの中の2問にノーと回答した人のことで、危険だとみなされ強制収容所にかくりされる。
きびしい場所だと知っていたが、戦場でもし弟に会ったらと考えると、入山さんはイエスと答えられなかった。
私にも弟がいる。毎日けんかをするけれど私にはかけがえのない弟だ。その弟と戦えるか同じように聞かれたら、私もノーと答えるだろう。そして弟もまた、私と同じようにノーと答えるだろう。それがきょうだいだから。
私は広島に住んでいて、原ばくの話を聞く機会はある。だけど、戦争の話を聞くことはあまりない。私の知らない戦争。もっといろんな記事に目を向けて、戦争のことを考えようと思う”(中国新聞より抜粋)
でも、広島の地元の子供でも原爆の事は知ってても戦争は知らないんですよね。
結局、親たちは原爆の悲惨さだけを教え、戦争の仕組みや実体を教える事が出来ないんですかね。親が勉強しないと、子供も勉強しないの典型です。
パラリンピックを見てても
不思議と感動も心動かされることもない。
なぜかなって思う。
強制収容所でありったけの苦渋を舐めさせられた日系人たちとは、感動の質感が違うような気がする。
小学生の作文に<もっと色んな記事に目を向け、戦争のことを考えよう>とあるが、これは我ら大人に向けられた強いメッセージだと思う。