TBA

(仮)

いつかなんて、待ってても来ない

2019-04-24 | 本と雑誌

 

きょうも上着はいらないんだけど、

ふとした時にちょっと寒い、っていう微妙な天気。

雨降るかと思ったら降らないし。

あした降るほうがイヤなんだけどなあ。

 

変な夢を見た。

兄が母親を連れて田舎に帰るという。

深夜バスで。インコを連れて。

しかもインコは素手で持っていくと言う。

なついてもないし、鳥かごもなしにどうするのか、と。

なぜかうちにはヨウムとセキセイと2羽いて、

さすがにヨウムは無理だと思ったらしいけど、

一生懸命とめてた自分。

 

 

お金に余裕ができたら買うぞ。って決めて、

ずっとお店に行くたんびに、

いつか、いつか、って見ているうちに、

お店のほうが待ちきれなくてなくなってしまうっていう…

「いつか」なんて永遠に来ないんだな。

買いたいと思ったときに買わないと。

 

 

「すばらしき愚民社会」と、

「2020年新聞は生き残れるか」を読む。

 

大衆を啓蒙するべきと意気込んだ知識階級こそが愚民。

わかりやすく解説することのうさんくささや、

新書の濫造や「事実」よりもイデオロギーを優先する人たち。

いろいろおもしろかった。

 

タバコのにおいも煙も苦手で、TVで見るだけでのどがイガイガするので、

最後の章だけは共感できなかったけど。

騒音もたいへんだけど、喫煙者のひとよりは避けることができそうだし。

 

 

そして、新聞。

2020年が近づいて、この本に書かれているようなことが起きつつある。

個人的には新聞大好きで、チャンスさえあれば4紙読みたいくらい。

必要性が揺らいでいることもわかるけれど。

 

新聞が必要なものであり続けるためには、

『幅広く国民に情報を提供できているかどうか』

やっぱりこれにつきるのではないかな。

政府や官僚の意をくんで”特ダネ”をめぐんでもらって喜んでるのなら、

政府の広報を読めばすむ話。

だからといって、誰かの足を引っ張るだけでもしかたがないし、

自分でなんの取材もせずに週刊誌に書かれてる内容を聞くだけで、

取材相手を怒らせるだけが目的の記者も困るけれど。

 

そして、右も左もあっていいはずなのに、

中立や客観を装って、自分たちの意見や思想を押しつけるのはやめるべき。

必要性、というか、信頼性が揺らいでいるのはそこだと思う。

 

あとは、新聞の読み方とか、ネットの情報の扱い方なんかは、

小学校くらいできちんと教えるべきなのでは。

今度の選挙でも、けっこうとんでもない人が当選していたり。

 

演説やポスターでは人となりがわからなくても、

インターネットなら名前を検索すれば、どういう人かすぐにわかるのだから、

それすらやってない人が投票してるのだろう。

 

逆にネットのニュースはピンポイントすぎて、

流れがわかりにくいような気がするけれど、

しばらくのあいだ新聞を読んでいれば、なにがどうしてこうなったのか。

実は政治も経済も社会も文化も海外の動きも、全部つながってることもわかる。

 

まとめてるのがあったりもするけど、

そのまとめこそが新聞だったりするわけで。

 

そうだったのかとかサルでもわかるとか10分でわかるとか、

簡単にわかると謳ってるものなんて、わかるような気にさせられてるだけで、

まずはいろんな情報にふれてみて、そこから自分の意見を持つことに意味があるのだと思う。

コメント
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