わらべ歌と詩をモチーフにしている。それは夢の中から生まれたように、今になって現実ににじみ出てくる、夢だったのだろうか。その不思議にとらえられた人たちの話がなにか妖しい情感を醸し出している。
前に読んだ「蝶」は詩や和歌が取り上げられていた。おなじように歌がモチーフになっている。
童話や童謡、わらべ歌などはよく読んでみると文字通り恐ろしい出来事などがさらっと歌われていることに気が付く。「わらべ歌は恐ろしい」とか一時はグリム童話などとともにも話題になった。
「ことろ」という歌があった「コトロコトロ ドノコヲ トロウ」と祖母の歌をまねて私も何気なく歌っていたし「はないちもんめ」も、「どの子が欲しい」とうたっていた。
ただ皆川さんのこの本には西城八十や白秋の「詩」と、「わらべ歌」も入っている。様々な工夫を凝らした短い話の底の底に、詩や歌になぞらえて、そこからにじみ出る幻想的な風景が哀しく、中には狂気じみたストーリーになっている。それが身近な生々しい現実につながって皆川ワールドが展開する。
図書館で見つけて借りてきたが、1994年の初版だった。とりあえず備忘録として。
「薔薇」 船の中の 赤い薔薇を 拾ったものは
水たまりに落ちていた本はここでちぎれていた。荒れた社の前で千釵子が「返して」といった。二人とも家族と馴染めなかった。女学生の千釵子は僕より7つ年上だったが不良だと言われていた。社の階段を上がると千釵子はサーカスにいた彼が行方不明になったといった。そして僕をきつく抱きしめた。そして。
「百八燈」兄さは川を超えなれも 兄さは舟にのりなれも
歌声が聞こえた。ペルゴレージの「スタバト・マーテル」この悲しみの調べにふと足が止まった。幻聴。
五人で映画を撮る相談をした、一億の半分は目途がついた。アミダで決めれば。「片眼、片足、片手、おれが三千万作る」「ばか、やめろ」
父親も映画を撮っていた。ちょっと話題になったそうだ。二度目の若い母に累子が来て女の子が生まれた。ナデシコと名付けた。「かさねとは八重撫子の名なるべし」父が曽良の句を引き合いに出した。「怪談累が淵」か。
兄さは川をこえなれも
累子の兄はバイク事故で死んだという。5千万あてができた時、金は父の脚本に流れた。5千万のために俺はバイクで当たって失敗した。思うと累子がけしかけたのだ。昔の累子と俺。これは俺、死者の記憶だ。
「具足の袂に」 具足の袂に矢を受けて 兄から貰うた笙の笛 姉から貰うた小刀
母が死んで預けられた叔父の家の空き部屋は、息子の肇の部屋だった。肇は頭の病で入院中だと女中がいった。押し入れには彼が買い集めたという本があった。禁断の本の中には禍々しい世界が蠱惑的な挿絵とともにあった。中にあった一節を口ずさんでいると、蔵の中から次女の百合子が出て来た。彼女も同じように口ずさみ、肇は蔵の中にいるといった。
「あの紫は」 あの紫は お姉ちゃんの振袖
水の面に手が咲いている。(印象的な書き出し)
子供時代の一つの夢の思い出がある。その花のように開いた掌に青い葩びらを落とした。つゆ草のひとひらと、女の手の記憶だった。
退屈しのぎに乗った金沢行き飛行機のシートで夢を見ていると、端の席の女の香りと重なった。なぜか手首の話を漏らした。初対面の女は今時珍しい匂い手袋をしていた。あの手と同じではないのに手首のことを話してしまった。
手首の女は紫の着物を着ていた、そんな矛盾した話も夢だから、、、。
口をついてでた死んだ姉の手帳にあった鏡花の詞、女はそれに曲をつけるといった。私作曲家なの。
そして彼女は「時」と「時間」について言葉を探しながら話した。時は刹那だし永遠でもあるの。
飛行機が揺れた。過去は今と同時に存在するわ、手袋を脱いだ掌に青いしみがあった。
あなたは水に沈む私を見ていたのね。
彼女はのぞいている子供を見たのだろうか。
「花折りに」 花折りにいかんか なんの花折りに 彼岸花折りに
うたいながら石段を上る小さな少女、少年も石段を上る。上は曼殊沙華が咲き乱れる墓地。二人は雨をよけて身を寄せ合って眠り、雨の中で曼殊沙華を手折って踊った。
浪人中の由比は相良に出会い映画作りの手伝いになった。現場は下手な女優久美、と叔父だという古藤がいた。
ふと古藤は久美が妹だと漏らした。姓が違うのは俺が私生児だから。添い寝するのは久美の悪夢を見てやるためさ。
石段を上る小さな少女、少年も石段を上る。上は曼殊沙華が咲き乱れる墓地。
俺は夢を見ているのか。これは古藤の夢か。
夕べさ、久美子孕んだかな。これも古藤の夢か。
「睡り流し」 睡り流し 睡り流し 睡り流して捨て申そ
雨をよけて入った喫茶店で隅に座っていた男から声を掛けられ、その話を聞いた。
医者の家系だったがなぜか男の子が短命だった。
姉が私のことを、捨てられっ子の拾われっこだといったのです。
子供の頃のことは,襤褸小屋に流れ鍛冶の家族がいたことしか覚えていないのですが、そこで鍛冶屋の女房が駆け込んできたのです。夫がけがをしたというので。傷が治って一家はどこかに移っていきましたが。
それは夢のような記憶です。
東北に、眠りながしという祭りがあるそうです。ねぶた流しの源流だとか。夏の眠気醒ましの祭りと言われていますが、不運不幸を眠りと一緒に流す催しだという説もあるようです。
でもあなた早世しなかったのでしょう。どうかな生きている実感が薄くて。
捨てられっ子の拾われっ子だった彼は無事育ったのですが。
この話はとりとめもなく、鍛冶屋の話がなにかしら、気味悪く面白かった。
「雪花散らんせ」雪花散らんせ 空に花咲かんせ 薄刀腰にさして きりりっと舞わんせ
足元に封筒が墜ちていた。――新聞で「雪花散らんせ」というエッセイを拝読したのですが――
納戸に「雪花散らんせ」という絵があり、ビアズレーの悪魔的な美と国貞の錦絵とを融合させたような画風であった。
女にしては凛々しく、男であるなら優雅に過ぎる。
しどけなくまとった曙染めの大振袖の衣裳は右肩から半ば滑り落ち、ふくらみのない胸から右腕にかけて肌があらわになっている。その右腕は肘から先がなかった。左の肩にかろうじてかかる衣の袖は、だらりと垂れている。つまり、左の腕もないのである。極彩色だった。金泥をぼかした背景に、散り舞う桜は渦を巻いていた。「さゆめ」という署名があった
これが皆川さんの語りで、既に妖艶な世界に誘われる。
エッセイが縁で、田上に差出人である作者の孫という喫茶店のマスターと、木版画に出会う「牡丹燈籠画譜 沙羅さゆめ」という題簽がついていた。
マスターは天野と言い筆を折った画家だった。
雪花散らんせ は偶然現れた詞だったが、夢の中の歌だと言ってマスターの前で歌った。マスタ―も歌い「私も夢で覚えたんです」といった。
そして立てかけてある屏風絵を見せた。
妖しについての友人との会話、マスターの持っていた絵の来歴。血の流れる絵のおぞましさ、などが歌のような雪花の舞う絢爛の中に秘められた歌舞伎役者の姿を絡め、最終章にふさわしい厚みがある。ただ最後のところ少し平仄が合い過ぎかも。
一気に読める短編集で面白かった。皆川さんは作品の数が多いので次は何を読もうかと楽しみになる。
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HNことなみ