44編を集めたエッセイ集。初めて読んでみたが、じわっときたり、ぞぞぞときたりその怖さが面白かった。
話題の穂村さんのエッセイを初めて読んだ。題名が「鳥肌が」(?)
穂村さんの名前はよく見かけていたし訳された本(スナーク狩り)も読んだので、穂村エッセイに嵌まって全刊読了という人がいると知って借りて来た。図書館では話の予想がつかなかったが。怖い話を集めたものだった。怖いは、気持ち悪いから心理的に恐ろしいものまでさまざまで、後を引くような忘れられないような怖さから、訳が分かればナンダと解決するものまで44編。
いつも「びくびく」暮らしているそうだが、私だって正真正銘、引けを取らない小心者。だから閉所だって高所だって次のシーンを想像しただけで足がすくむ。思い当たるところが多くて面白かった。
☆「母」なるもの
優しくおいしい食事を塩漬けにして、お風呂は熱めで夫にすすめて、、、という話があるがいらないものを愛もどきにまぶして排除していく、というのもなかなか怖いものがある。
ここでは「母」の愛情が柔らかい竹の子の穂先をいつまでも娘には食べさせる。母を通して娘の生まれる前と生まれた後はつながっている。「愛」の極めつけが一面怖い。
「Fちゃんが死ぬのを見届けてからじゃないと、私も死ねない」
怖い。こどもの後に死にたいのか。
まぁ心情がわかるけれど。子供には「ありがとう。じゃね」といって先に死にたいが。
☆ 原材料という不安
ちょっと思い出して、薬品に含まれる「タルク」について調べたばかりで、薬や食品の原材料にはわからない怖さがある。タルクはアスベストに似て非なるもので一応危険なものではないらしいという結論だった。
誰かが甘いものは毒だという極論を言っていた。それにしても過度の肥満はよくない。私も商品の裏を見カロリーもチェックする。生産地も読む。
単純に化学式をカタカナ化したようなものは怖い気がする。カカオマス、麦芽糖はいい
そう、こういうものだとなんだか安心で穂村さんに一票。
☆ 現実の素顔
知識と現実は違う、殺人事件もテレビでは生々しい描写はひかえているし、臨終もあんなものかとおもっている。しかし現実の死はもっとおぞましい姿だろう。それが自分の将来かと思うと恐ろしい。自分だけは違うという今を生きている。父も母も苦しまなかった。未来が見えないのが幸せかもと思う。
手術室で思った。華岡青洲さんのおかげだ。麻酔というものがなかったら超えられなかったかもしれない。ノミの心臓だし。
☆ ヤゴと電車
蜻蛉を喰いたいと蛙がいうのだ。おたまじゃくしの仇を討つと
中村みゆき
一見すると異様な言葉の背後には「論理」の文脈があったのだ。
おたまじゃくしの間にヤゴに柔らかい足を喰われるということがあったそうだ。
穂村さんの、固い文脈、定型の限られた世界の中を想像して読みこなす柔らかい心が見える。
言葉数が限られた文藝では、背後の世界は読み手の持ち分で面白くなるのだなとあたらめて思う。
☆ 落ちている
道に手袋などか落ちているとドキッとする。哀しい存在に見える。
私もツタンカーメンのミイラはあまり怖くなかったが、枕元に展示されていた皮の手袋が一番気味悪かった。はるか紀元前、この中に肉体が入っていたのかと、生々しい妙に迫るものがあった。
同じように、博物館などで観る故人の肉筆というものなども、初めて見るとうら哀しい。
☆ しまった、しまった、しまった
この世界にこれ以上存在したくなくなって実行に移す人がいる。
「ビルの屋上に呼ばれて別れ話をしていたら突然、『俺のこと、忘れられなくさせやるよ』といって目の前から消えちゃった。笑顔でした」
あ~そういうことか。
少し前に似たような本を読んだ。尽くし過ぎた女の目の前で男が消える話だった。死んだわけは、恨みだろうか。絶望だろうか。復讐だろうか。作者が出家したことがあるというのだから宗教的な意味があるのだろうか。単純にもう此岸にいたくはない自分も彼女も自由にしてやろう、彼岸の方が居心地がいい。などと思ったのだろうか。
わからなかったが、こういうこともあるかもしれないと目が開いた気がした。
身近な人間の裏は知りたくない、と強く思った。知らないことは同じだろうか。
☆ ケジャン
この世には思いがけない危険が満ちている。でも立ち向かうための気合いや胆力が私には欠けている。
穂村さんも普通の人だ。そうだから立場を変えて思いやりも生まれる。そうでなかったら歴史に残るだろう。これは小心だが、今の私にだけ通じる人生観で、それも本を読むたびにころころ変わるが。
短編集をより短くしてしまったが、一編ごとに納得のじわっと来る怖さがあった
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HNことなみ