空耳 soramimi

あの日どんな日 日記風時間旅行で misako

「美女と野獣 オリジナル版」 ガブリエル=シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ 藤原真美訳 白水社 

2017-05-29 | 読書


昨年、いつものように遅れて2014年版のDVDで「美女と野獣」を見た。野獣がヴァンサン・カッセル、美女にレア・セドゥ。
このフランス版は少し複雑で野獣に捧げられた心優しいベルと王子のハッピーエンドな、今まで知っていた物語とは少し趣が違っていた。

子供の頃から親しんだ話では
「呪われた野獣は」過去の無慈悲な行いの結果野獣にされていた、雪に埋もれた城に迷いこんだ商人が、持ち帰った一輪の薔薇のために、娘を嫁にするので一人差し出せ、と言われる。親孝行で美しい末娘のベルを連れて行くとそこは豪華な宮殿だった、無口だが優しい野獣と暮らしているうちに、夜になって帰ってくる野獣を一目見ようと、ろうそくをともして近づいていくとそこには輝くばかりの美しい王子が眠っていた、二人は結婚し王子の呪いも解けてめでたしめでたし。
確かディズニーのアニメも似たようなストーリーだった。

これが今まで知られてきたボ-マン夫人が先の版を子供用に書き換えて1756年に作ったという「美女と野獣」だそうだ。


今回のフランスの実写版を見ながら、王子の呪いの部分が念入りで違和感があった、この部分はクリストフ・ガンズという監督が物語を膨らましたのだろうかと思っていた。

ところが、初めの話に戻るが、ヴィルヌーヴ夫人が先に書いた「オリジナル版」を読んでみると、これを参考に作られたもののようで胸のつかえが少し軽くなった感じがした。。

求めよさらば…ではないが偶然はあって、図書館のカウンターで返ったばかりのこの本を見た。なに「オリジナル版」?ちょっとその話の周りを極めてみようかと、降って湧いたような本に手が伸びて、幸い週末の一夜を使って、疲れても休日があるさ、と読んでしまったが。
これは二部構成で、登場人物も多くあっさりと終わるような話ではなかった。

今回の映画、フランス版は、野獣にされた無慈悲な王子ではない、厳しい過去を持つ悲劇の王子で、美しいバラを育て、妖精に変えられた醜い姿で孤独な暮らしを続けている、心の優しさだけで結婚してくれる姫を待ちながら。

なぜ王子はそうなったか。そこで二部に移る。王子が生まれたころ、平和だった王国に邪悪な妖精で醜い老婆が現れ、子供を取りあげてしまう、果ては成長した王子を愛するようになる。当時王国は乱れ王と王妃は他国との紛争で忙しく老妖精を教育係にした結果だった。
取り返そうにも妖精間の力関係もあり、老婆は年の分位が高くて魔力もつよい、過去の秘密はこうして、王や王妃と密かに見守っている庇護者の妖精の語りが入り交じり賑やかな展開になる。

ベルは野獣と一緒に住み始めるが夜になると野獣は帰っていく去り際に「一緒に寝てもいいか」と必ず聞く、何かストレートで(笑)
そのたびにベルは「いいえ」と答える。
ところが、夜になると麗しすぎる王子が夢に出てきて、ベルは夜が待ち来れない。そこで「いいえ」を繰り返していた。

家族に会いに帰してもらったところ、少し離れている間に野獣の命が危ないという。約束の帰る日が過ぎていた。野獣の死を目の前にしてやっと愛情に目覚め、結婚の約束をする。見る見る回復した野獣は「一緒に寝てもいいかな」「はい」と言ったとたん花火が上がるは、石像にされた家来は目覚めるは、お祝いムードが盛り上がる。野獣は夢で見た王子の姿になる。めでたし。
だがここで、駆け付けた王妃が「身分違いの娘は嫁としては認められない」と言い出す。しかし今まで庇護者として見守ってきた妖精が一言「この娘は養子に出してはいたが私の姪です」
まだ人間より妖精の権威が上だった。ここまで来るのに、妖精の家族にも妖精界でも複雑な話があって物語は長かったが、悪い妖精にはいろいろと手落ちがあってなかなか愉快な所もある。

オリジナルだということなのだが妖精の世界の話は少し退屈した。この部分はボーモン夫人が、子供用にカットして書き直したという、この方がわかり易く後世に残った。

2017年版では「ハリーポッター」のハーマイオニー役の「エマ・ワトソン」がベルで評判がいいようだ。

よく見たら白水社だった、が、訳が少し砕けすぎというか話の美しさにそぐわないと感じた。




訳者のあとがきで興味深い部分があったので、受け売りですが。

この話のルーツは、文学的には先駆の作品が多く書かれていたことに影響を受けていますが、なにより面白いのは14世紀に書かれた「愛情地図」というものです。三本の川が描かれ、今風に言えば川は、資産か知性か美貌かを表すものとなるのでしょうか。まっすぐな川は「一目ぼれ」を表し、周辺には才気や心遣い、感謝、服従、等々、恋愛の要素を備えた町があり、人々はこの地図を見ながら語り合ったそうです。もう少し詳しく書かれていますが、こういった要素は、あと後まで波及して多くの文学作品に影響を与え、この「美女と野獣」にも取り入れられているようです。人間である限り、恋愛の形というのは、複雑な感情がもつれ合って物語を創り、大昔から、たぶん今でも尽きない恋愛ルートの線上にあるようですが、当時は地図を見ながらサロンの話題が尽きなかったようで、ここでも目に見えるものに弱い人間を書いたようだと結んでいます。先のヴィルヌーヴ夫人の作品はそういった文学性を踏まえていますが、後のボーモン夫人の作はすっきりして「美女と野獣」の恋物語であるのがわかりやすく今に残っているとのことです。。

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「越境」 コーマック・マッカーシー 黒原敏行訳 早川書房

2017-05-19 | 読書



図書館にこの単行本があった。狼の表紙を探したが文庫になっていてこの書影とは違ってしまっていた。やっと見つけて、何度も見直しながら感想を書くことにした。

まずは少年と狼の物語に胸がつぶれそうなくらい感動した。

国境三部作の二冊目にあたる。
主人公ビリー・パーハムは16歳でニューメキシコのアニマス山の麓に両親と弟とともに住んでいた。羚羊を襲う狼をつかまえる罠を仕掛けているが何度も逃げられていた。ついに前足を罠に挟まれた牝狼をつかまえる。ビリーは子を孕んだ狼に対峙したとき不意に故郷に帰してやろうと思う。親にも告げず前の右足をなくした狼の首に縄を撒いてメキシコ国境を越えて何日も辛い旅を続ける。これが一度目の越境。
国境で狼は警官に連れていかれ、祭りの見世物になり、次は闘技場で犬と闘わされていた。ビリーは二匹の犬を相手に二時間もの戦いに力なく横たわる狼をついに見つけ出して、撃った。毛皮商人にライフルと引き換えに狼を譲り受け、狼の故郷と思われる山の麓まで馬の鞍に乗せて運んでいく。
地面に座って血にまみれた狼の額に手を当てて自分も目を閉じ、狼の瞼を閉じてやる。
そこにはあらゆる生き物の匂いが空気の中に豊饒に満ちて狼を喜ばせ狼は多と切り離されずに彼らの一員として存在していた。ビリーは落ち葉の上から狼のこわばった頭を持ち上げたが、彼が持ち上げようとしたのはむしろ手に取ることができないもの、今はすでに山の中を駆け回っているもの、肉食の花のように恐ろしいと同時に非常に美しいものだった。
それは手に取ることが絶対にできないものであり花ではなく敏捷に走り回る女神であり風すらが恐れるものであり世界が失うことのありえぬものであった。

ここでビリーは言葉ではなく世界と自然の中にいる自分を感じる、コーマックはここで彼の世界を、狼の死と自然と、これからのビリーの歩む未来を描き出す。

彼は又国境を越えて故郷への道をたどるが、疲れ果て襤褸にまみれた姿を見て、老人が話しかける。
たとえ孤児であっても放浪はやめてどこかの世界に落ち着かなければいけない。世界と人間は一つだ。
ビリーは自分は孤児ではないと言い、馬を進めた。故郷に戻ると、両親は殺され馬は全部盗まれていた。生き残った弟を連れて馬を探す旅に出る。

荒れ地を抜け廃墟を通り過ぎ、少女を助けてまたメキシコに入る。そこで盗賊に襲われ弟が撃たれついにはぐれてしまう。重症の弟を見つけ出し手当を受けて一命をとりとめるが、弟は少女とともに彼の元から去る。二年後探していた弟は死んでいた。今度はその亡骸を故郷に埋めようと国境を超える。

困難な旅の途中の飢えと寒さ、疲労した体を引きずって帰郷し弟を生まれた地に埋葬する。

変わらない詩的で乾いた描写が冴えている。ビリーの過酷な運命と、すれ違う放浪の民や貧しい人々がより貧しく哀れに見えるビリーを休ませ食べさせて衣服を与える。そこには自然と同化した人たちがビリーを共同の命として受け入れる行為が、自他ともに生きることの意味が、書きあらわされている。

なかなか読み勧められなかったのは、ビリーが通り過ぎていく荒れ地に住む人たちや、すれ違う人が語り掛ける物語が彼の運命についての予言や寓話になっている。その物語は象徴的で、彼らが生きて来た人生の、見舞われた不幸の源についての発見であったり、長い幻想的な空間にそれも幻のように現れる寓話であったりする。言葉少なくただ旅を続けるビリーの心に広がる世界を、これらの荒れ地に一人で住む老人や、かつて兵士であった盲目の老人や、ジプシーが引く骨格だけになった飛行機の逸話がそれぞれに厚みを持たせて、それが作者が乗り移ったかのように読ませる。その世界観や人間の持つ命の不思議や、人種の混交の中に見える定住しない人たちの、命の継承に過ぎないという、運命を受容している形や、少年が辿る過酷な環境、時に荒々しい自然、それが本人の気づかない尊い輝きを見せている。すべては大いなる運命が見せる一時の幻かもしれず、作り出すものは物語の一つかもしれないけれど、言葉の紡ぎだす風景や大いなる世界の中を漂う感じは、読むのに時間がかかったけれど今でも何とも言えない大きな感動を受けた。

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「すべての美しい馬」 コーマック・マッカーシー 黒原敏行訳 早川書房

2017-05-11 | 読書


全米図書賞、全米書評家協会賞受賞作。

コーマック・マッカーシーの世界はグロテスクで残酷だ。が、国境三部作といわれる。第一作のこれは、ストーリー性が豊かでエンタメ小説の趣もあり読みやすかった。

故郷のテキサスからメキシコに不法入国するいきさつや、つねに寄り添っている馬、行動を共にする友人も、少年というより未成年、未成熟な年頃の、精いっぱい運命に向かう姿が痛々しくもありどことなく危うい。
16歳の少年の(アメリカだからもう充分大人だけれど)青春、成長譚だ。
コーマックのドライで区切りの少ない独特の筆は、ユニークではあるが読みなれると違和感がなくなり不思議なリズムに乗ることができる。

コーマック・マッカーシーを読むのは、その風景描写が美しい、だがただそんな風景を写し取るだけでなく、風や雨や、砂漠に舞う土埃、枯れた川の荒々しさなど、読んでいる周りにその気配が立ち込めてくるような文章が素晴らしい。言葉はそっけないほど細かな説明がない分、情感がすくないけれど詩的で快い。
こういった表現が 先に読んだ
「チャイルド・オブ・ゴッド」や 「ザ・ロード」 のような心にのこる作品になっていったのだろうか。悲哀、哀歓、人間の持つ究極の孤独を書くにふさわしい。
この国境シリーズ(と呼ばれている)の残る二冊も楽しみだ。


テキサス生まれの少年の名はジョン、グレイディという。彼は、戦後無気力になった父親と彼が生まれてから唯一の慰めであった牧場を売って出て行きたい、そんな母親の元を去る決心をする。
馬と過ごす牧場の生活を求めて、親友のレーシー・ロリンズと二人、リオ・グランデを渡る。
途中でひ弱で年下に見えるがやはり一人旅のジミー・ブレヴィンズが加わる。彼は過去に雷に打たれ身内が何人も死んだこともあり極度に雷を怖がっていて、広い草原や砂地で雷雲を見ると怯え、手を焼かせる。
そして彼のこの恐怖が、ふたりを苦境に陥らせる。
雷におびえている間にブレヴィンズの鹿毛が逃げてしまう。
彼はそれを探し当て取り返すのに三人を殺してしまう。

メキシコの牧場に雇われた二人は生きがいを感じて充分によく働き重宝される。しかし、グレイディは帰省していた牧場主の娘に恋をして、二人は突っ走ってしまう。しかし将来はなく、牧場から出て行かなくてはならなくなる。この牧場の実権を握る大叔母の説教は、彼女の生き方の長い歴史であり、若い二人に理解を示しながらもやはり大人の分別を超えることがない。この長い話を入れた叔母の意図はよく分からないまま二人は牧場を放り出される。

ブレヴィンズの起こした殺人事件で二人は共犯になり刑務所に入れられる。そこで、捕まっていたブレヴィンズに出会うが、彼は警官に連れ出されて射殺される。このあたり暴力が蔓延する刑務所の中、マッカーシーの描写の面目躍如といったところで迫力がある。牧場の大叔母の手引きだろうか、二人は奇跡的に救い出されるが、帰省する前にちょっと警官を探して気合の入った復讐に向かう、ここにきてまさに西部劇の世界。クレイディの若さと血の熱さ、無鉄砲なところ読んでいても力が入っていい。

旅の途中二人の若者がぽつぽつと語彙の少ない会話を交わす、それは深い意味を持つ言葉だったが、答えはいつも、わからないな、知らないな、で納得する。このあたりの会話も生き生きとして、このわからない世界の深みを少しずつ知っていくのだろうと何か愛おしくなるところが微笑ましくてうまい。

題名にある「美しい馬」がいる風景。
命がけで行方のわからなくなった馬を探したいブレヴィンズ、いつも腕を伸ばして首をなでて話しかけ、孤独を癒しているグレイディ。町に入ると横を車が走り抜けていく。そんな時代に野生馬を集め馴らして繁殖させる牧場の生活がグレイディの生き甲斐だった。
日が落ち無数の星が中空に向かってせりあがってくる。百合や野の花が咲く松林の下で焚火を熾し、ノウサギを狩る。突然の豪雨や雨上がりの霧に閉ざされたメキシコの草原、草丈に埋もれそうな盆地、小高い丘から見下ろす風景などが、くっきりと描き出されている。

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