図書館の書架の間を歩いていて、何冊か、いつももう一度読んでみたいと思いながら、読んだこととしか覚えてない本がみつけた。
一冊の予約本を引き取っただけで、コレなら後三冊は読めるかな、と思って借りてきた。
心ある人は、この本のことはとっくに知っているという。ヒトラーと言う男がどうして、ユダヤ人を憎んで強制労働につかせたか。ガス室というものを作ったか、知っている人は知りすぎるほど詳しく知っている。
この本は、自ら被収容者として、訳もなく拘束され、劣悪な環境に投げ込まれ、いつも死と生の二股道が目前にあって、人はどちらに道を歩くか分別される。異動、移動の命令が出るたびにどちらの道を歩くのか不安に震えている。
横にもなれない狭い土間で立ったまま眠り、朝早くから、厳しい規律の中を労働に出て行く。
過酷な収容所での体験談である。
しかしそれは、人とは生きる瀬戸際では、いかに卑怯で汚く自分を守ろうとしたか、またある人はここにあっても他人には慈悲深く、自分は平然として運命を受け入れる強さを示したか。
この本のいたるところに書かれている言葉に中には、極力ひかえてはいるが悲惨な光景の描写もある、靴がなく歩くのがやっとの人に列を乱すなと嵩にかかって暴力を振るう、ひとつの小さなパンで一日ツルハシを振るう。そんな中を生きながらえる希望は、ひとつには家族への愛であり、家族の肉体がどうなっていようと愛する思いは生きる支えになった。なにも感じなくなってただ本能のままに息をしていて死ぬことだけがあり、全てのことにも無関心になってしまう。人間でなくなるには様々な形がある。
医学者である筆者は、まだ生き続ける意志をなくさないことに努力をし、介抱をし、話をした。
だが、それを聴くことが出来たのはやはり強い人たちだろう、中にはお互いに助け合った温かい胸を打つ話もある、だがそれも、たとえば祈りであり、ちょっとした僥倖に守られていた時間であったり、希望は小さくなっていくにせよ自由な心をどこかに隠して見続けていた人たちだった。
開放されたあとに見聞きする収容体験や、動物にも劣る数減らしの死や、そこまでにいたる肉体的な痛みなど、うけた心の葛藤がどれほどのものか。
驕りや、過信や間違った自信が、支配するものとされるものを生み出し、それに従わ無くてはならなかった群衆と、処刑された600万人とも言われる人たち。
こんなに平和が続いている、
人はいつ生き方を間違うのだろう。間違いは庶民に見えるのだろうか。
こうしたレポートや犠牲者の声を様々な形で読みながら、600万人と言う人数が、私一人、という数の積み重ねで、死んだ私も生き残った私も、ともに渦中にあった一人であって、生きているか死んだのかのだけ違いしかない。
もう今自分であって欲しくないと言うような甘い考えは、大量殺戮兵器の前では無力である。
生き方を見つけるか、大部分の力の無いものの力を改めて見直すか。
胸の中になくなった人たちの無念の未来、生き残った人たちの禍根と、戦犯と言う、熱にうかされ自分を見失った人たちの過去。
人は心も体も弱くなってきている。
勝敗までも、生き残りと言う場とは関係なく通過するもののように思われている。
こどものころに読んで、身近ないい言葉として書き出したことがある。だが家族を持ち、私の環境も変わった。
再読して、勇気場ない自分が、人間らしさまで捨てなくてはならない、そんな未来が来ないことを願った。