空耳 soramimi

あの日どんな日 日記風時間旅行で misako

「QJKJQ」 佐藤究 講談社

2017-04-29 | 読書



第62回江戸川乱歩賞受賞作(平成28年)
読了後に改めて帯の惹句をしみじみと眺める。作家の方々(選考委員)の書いた帯のなんという煽り方だろう。
応援体制があからさまで、ほほえましいともいえる。
選評の言葉も興味深い。今回は辻村深月さんに同意した。湊さんもそうだが、女性委員の評が面白かった

冒頭から、長女が家族の惨殺死体を発見する。衝撃的でグロテスクな幕開けで、乱歩賞らしい趣向かと読み進んだ。
これが「家族全体が殺人鬼」ということなのだろう。その犯人捜しならそれでよかったのだが。
途中から幻想の世界が入る。心理的な逃げかなとも思えたが、そうではない。
作者のまじめな筆のせいか、もの悲しい部分を加えて影の部分を少しばかり醸し出してはいたが、あまり効果はなくてミスリード感も、重厚感も少ない。

ついに、これはというところで叙述性に気が付いたが、それもストーリーの流れの一部になって消えてしまう。
凝った構成は面白いが、モザイクのようにはめ込んだ伏線らしいシーンが浮いている。長女の現実が生々しく横たわるところこの話の面白さのポイントかもしれない。
幻想世界が広がっていけば、直面する家族の喪失感、存在感がミステリアスで、深みが出たのではないだろうか。
広がれば面白い着想なのにとても残念だ。
ネタとして様々な伏線は優れているがその組み合わせたストーリーがいささか物足りない。

題名の「QJKJQ」も、意味ありげな「Ca→Ab」も、ふたを開ければそうだったのかという程度で終わった。

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こびとが打ち上げた小さなボール」 チョ・セヒ 斎藤真理子訳

2017-04-18 | 読書


  
1970年代の韓国に住んでいた最下層の、家族の極貧生活について書かれていた。
作者は、表立って発表すること、社会批判ととられること危惧して、短編にして少しずつ発表したそうだ。
「こびと」一家をメインにした連作小説。三人子供が話してになって登場し、富裕層に生まれた子供たちが語るところもある。

劣悪な環境で、肩を寄せあって建つ密集した住宅は、ソウル市の再開発計画で、取り壊されていった。
代替住宅のためには重層アパートを建てて入ることを前提にしていた。一斉に調査し無許可建築物番号を与え、入居資金を支給した。しかし間貸りまでしている人たちは、アパートの入居には縁がなく資金もいった。

「こびと」の家族はアパートに入る金がなくて動けず居座っていた。撤去警告書が来たとき、父さんは本を読んでいた。父さんは今まで十分働いてきた。重い道具箱をかついて仕事を探して歩き回った。
父さんの考えでは生活はもっと良くなるはずだったが、撤去作業が始まってつるはしが壁を崩す音が聞こえた時、家族はまるくなって腰を据えご飯を食べていた。

長男、次男と長女が働きだした職場は、安い給与で 家族の最低の生活費がやっとだった。

大学中退で労働問題改善を進めていた青年が現れ、父さんはもらった本を読んだ。
宇宙にある星の国に行って暮らす。老いが見えるお父さんは現実から離れた、工場の高い煙突のてっぺんに立って、理想の星に向かって幻想の球を投げ上げた。父さんの体は煙突中から発見された。


本を読んで学校に行きたかった長男は諦めて働きに出た、労働者とともに組合を作って裁判に負けて死んだ。政治は力だった。お母さんは勉強し本を読む長男の未来を常に恐れていた。


奴隷制度の過去を持つ貧民の歴史も、こういった小説が明らかにしてきてはいる。しかし根本的な解決は誰も持たないことだと感じる。人は人以外になれず、自分は自分から出られない。
どんなに快適な社会が保証されてもアダムとイブさえ満足できなかった。
生きる最低の条件はどこに線を引くか。

どこにでも人がいる限り解決できない問題はあり、韓国だけでない、こういう本が読まれ今でも読み継がれているという。
本を読むことで人が成長でき自分自身を変えていけるなら知らないより知った方がいい。しかし結果は自分自身の中にある。

生活の質は変わっても人間の本質は変わっていないかのように見えた。こうやってレビューを書いても私の前の現実は動かせない。

映画化されたというので動画を見てみた。文字も読めないしセリフも分からなかったが、本のおかげでストーリーがよく理解できた。ただ映画の方は、舞台が紡績会社ではなく塩田で、労働争議のシーンはなく家の取り壊しで終わっていた。

人により読み方は違うだろう、読んでよかったがいささか重すぎた。


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「アンダーカレント」 豊田徹也 講談社(アフタヌーンCODX)

2017-04-18 | 読書



 
表紙が美しい。こうして横たわっていられるのは、すでにあらわれた出来事を超えて、激しさなどない世界に住み始めているのだろう。

生活をこなしていくには、時間の起伏を渡っていかないといけない。

夫が突然いなくなっても、急にあらわれて消える男も、一時の流れにしかならない。

何もしないわけではない。夫はなぜどこに消えたのだろう、と思いながら生きている。

謎が解けてみれば、わがままであっても自分勝手であっても、人はただ一日一日を積み重ねて生きていかなくてはならない。
言葉や行為が人を傷つけたり、救ったりしながらでも。
そうして生きることが、庶民の暮らしだと語っている。

心を傷つけあったり、気持ちの騒ぎを抑えて、憎んだり許しあう、はた目から見ればさほどでもない、ありきたりの出来事が、胸に残るようなしっかりとした、静かな筆致で進んでいく、繊細な物語にひかれた。

題名もいい。

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「野生のゴリラと再会する」 山極寿一 くもん出版

2017-04-14 | 読書



ヒト科は、哺乳類サル目(霊長類)の分類群のひとつ。ヒト亜科(ヒト属、チンパンジー属、ゴリラ属を含む)
旧来はヒトの種を分類するための分類項であったが、ヒトを中心とする古生物学の進展と、DNA解析の進展の結果、ヒトと類人猿、特にゴリラ属・チンパンジー属の遺伝距離は小さいことが分かり、両者もヒト科に分類される意見が主流を占めることとなった。ただし、遺伝子と表現型の関係は未だ明確ではなく、遺伝距離を即、分類に反映させることに対しては慎重論もある


ちょっと調べてみたのは、動物園に行っても猿を見るのが好きではない。動作は限りなくヒトに似ている。特に指使いなど部分的にヒトかと見間違いそうになるが、見ていると動きなどは野生そのもので、無造作に餌をばらまかれ、それに群がっていて無残な気もする、ネットで囲われて座っていたりするのが不当に思える。ましてや大型のオランウータンやゴリラとなると、そんな生活でいいのかと、動物園ってそういう所だとわかっていながら、ヒトに似ているだけについ眼を逸らしそうになる。

ペットにすれば鳥も猫も犬もかわいいし、ペット達も世話さえすれば不満はなさそうだし、動物園の動物もでものんきに暮らしているようにも見える。考えるといかにも人間は身勝手に思えるが、この本を読むと、野生もそれなりに暮らしにくくなってきている。ヒトのせいで自然が住みにくくなってきているともいえる、しかしヒトも生物の進化の途中かもしれない、今のように脳が大きくなったおかげでヒト文化やヒト文明も進化してきている。進化とばかり言えない所も多々あるが。

対面的<見つめ合い>の人間学、という本を読み始めたら文中でこの本に出合ってしまった。

なぜ対面的という本かといえば、よく知らない人と1対1で会わないといけないようなシーンは特に不得手なもので、本屋さんで目次を読んで興味をもった。対面して見つめ合うと独特の磁場が生まれるという、ボクサーやキスや顔を見ないツイッターや身近なところから対面という論を述べてあり面白い本だった、間抜けなことに1/3を残して返却期限が来てしまった。「延滞しないでください」のカードまで入っていた。そこで先に来た、「ゴリラ」を読む羽目になった。
すぐに再予約したが、人気本で(これはびっくりだった)なかなか回ってこない。

しかし、そこで同じヒト科について少し知ることができた、同じ類人猿でも、長い歴史の果てにヒトと猿とはずいぶん違ってきていることを少々学問的に知った。
「対面」から言えば「ゴリラ」は視野がぼやけるほど近くに顔を寄せる(仲間どうしても人に対しても)
猿一般は目を合わせるということは危険な行為なのだが、ことゴリラは顔を寄せることは威嚇ではない。彼らは相手の反応を見て親しみを見せることがあり、眼で語りかけたりする。「対面」は愛すべき行動だった。

この本のテーマは以前ゴリラの国で研究をしていて、この頃よく遊んだ子供ゴリラのタイタスは今でも覚えていてくれるだろうか、というので訪ねてみたということだった。そのころのタイタスはヒトにすれば6歳くらいだった。そのタイタスも今はヒトなら60歳を超えていた。

覚えているだろうか、再会したタイタスは群れのリーダーになっていた。しばらくして挨拶の声を出し、笑い声で答えた。子供に返ったように独特の形で寝転がって見せた。
ゴリラの世界を観察し続けた記録には、ヒトより大きい体で、草や木の皮を食べ、群れで身を守る智慧や独特の暮らし方は興味深く、改めて失った人の遠い過去を見る思いがした。

取りとめのない感想文になったが、対面的<見つめ合い>の人間学という本から、学生時代の参考本に出合ったように面白い本に出合い、新しい発見もたくさんあった。


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「陰りゆく夏」 赤井三尋 講談社文庫

2017-04-12 | 読書



大手の東西新聞に抜群の成績で入社が内定したのは、誘拐犯の娘だった。
が、週刊誌にスクープされ人事局が揺れる。社長は「矍鑠」という字が書けた優秀な成績にこだわる。
面接でも感じがよかった。ただ……

この内定した娘(比呂子)が非常にユニークで、叔父夫婦に引き取られ不幸の影もなくすくすくと育っている、多少天然ボケの性格も愛嬌で。
優秀な成績にも拘わらず人柄もいい。幹部たちは何とかして入社させて育ててみたい。人事局長、人事課長、果ては社長まで口説きに加わる。

葉山にいる社主から事件の調査命令が出る。喜んでお受けします、というところ。
20年前の事件捜査は、閑職にいる梶に任される。できる彼が編集資料室という窓際に追いやられたのは、過去にあった部下の勇み足が原因だった。責任を感じた部下が自殺した。彼は辞表を書いたが引き留められて今の職にいる。そこで再調査の命が下る。


資料室は時間に縛られず、仕事はやり甲斐がないといえばいえるが、この命には都合のいい部署で動きやすい。

20年前の事件は、現金の引き渡し場所で歩道橋の上から札束を撒くという犯人の指示で現場が混乱し、犯人を逃がしその上誘拐された男の子はついに見つからなかった。
だが逃走したクラウンを見つけて追跡中に、運転を誤った車が崖から落ちて大破、犯人は死んだ。

犯人は製薬会社のプロパーだった、病院関係者をはじめ周辺の人々を調べはじめる。なぜ犯人は逃走経路が判りやすい、すぐに発見されるような道を選んで戻ってきたのか。子供はどこにいるのか。

病院から男の嬰児を抱いて出て行く女の姿が目撃されていた。その子の両親はいまだに子供部屋で、死んだ子供の幻を育て続けていた。

内定者をスクープをした週刊誌の編集長は業界を渡り歩いた曲者だった。裏で株の取引もやっていたらしい。何か匂う。梶はこの線を追うことにした。

調べるにつれあちこちにつながる細い糸が見え始める。

内定を受けた犯人の娘(比呂子)は入社を断ってきた。

そして意外なところから、当時の嬰児の消息が知れる。そして、子供を失った親たちの異常な愛情が現れてくる。


「月と詐欺師」が面白かったので、赤井さんの江戸川乱歩賞受賞作を読んだ。あっさりわかりやすくて読みやすく、エンタメ全開作品でコリがほぐれた。誘拐の身代金の受け渡しも、歩道橋から札を撒くというのは、この手は今更ながらと思いつつ、面白かった。

後日談も少しあるが、比呂子は結局入社したのだろう。
得意の語学を生かして外国で特派員になっていて好感が持てた、だがもう一人の子供の将来はどうなったのだろうか。

よくできた比呂子のキャラクタ―がもう少し活躍すれば面白かったが残念。今ならスピンオフ作品にでもなるところだが、見当たらなかった。。

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「大和路・信濃路」 堀辰雄

2017-04-02 | 読書





堀辰雄全集を読んだのは中学生の頃で、私にもあった多感な時代にw、美しい風景描写ともの悲しい物語やエッセイを読んで一時頭から離れなくなった。クラブの休みにチームで出かけるなら広いお寺が都合がよく。時々お弁当をもって、遠足のような気分で一日鬼ごっこやキャッチボールをしていた。早春の観心寺は梅や乙女椿が咲きだしていた。唐招提寺の横には田んぼが広がり、薬師寺の横の線路はススキが銀色に光っていた。その頃は今のようにお寺の敷地が囲い込まれていなくて、まわりの農地に続いているような所が多かった。京都との境にある「浄瑠璃寺」や「岩船寺」はそのころ健脚だったから歩けたようなもので、今では車がないといけなくなった。堀さんご夫妻も徒歩で訪ねられたと書いてある。

みんなしばらく子育て時期は遠ざかっていたが、また気分転換が欲しい年になった。
今年は特に春を待っていた。なぜか浄瑠璃寺の馬酔木の頃には行ったことがなかった。浄瑠璃寺は秋でしょうと周りがいうので、私も秋にはたびたび訪れ、春の機会を逃していたが、道路が整備されたので時間もかからずいけるようになった。

平安、鎌倉の時代から戦火を逃れてきた建物は市街から随分離れた所にあってひっそりと寂れて古びているが、長い歴史を思うと遠くて近い人の営みの祈りや願いが今でも感じられる。

私は神も仏も実感できてはいないし、祈りは心に向かって唱えるのだとか理屈を並べて、縁なき衆生に近いけれど、古い裳階の形や屋根の優美な曲線や、並んでいる仏様の顔を見ると何か畏れのような気持が湧いてくる。

こうして庶民の願いや希望や歓びや嘆きの声を聴きながら仏たちは祈りの声を静かにそっとあずかってきたのかと思うと、長い歴史の中の庶民の暮らしの重みを感じる。
人はそれぞれ違った心の形を自分の中に持っている、疲れた時は、やはりここで祈って、荷物を預けて帰るのだろうか。
 
この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著(つ)いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸(や)っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。


いつ来ても参道の入り口にお土産の店があり、雑器や秘仏のレプリカや自家製の梅干しや漬物を売っている。
記念に小さな陶器の置物を買って帰る。


傍らに花さいている馬酔木(あしび)よりも低いくらいの門、誰のしわざか仏たちのまえに供えてあった椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木、秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも愉(たの)しいことのようにしている寺の娘、どこからかときどき啼(な)きごえの聞えてくる七面鳥、――そういう此のあたりすべてのものが、かつての寺だったそのおおかたが既に廃滅してわずかに残っているきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――というよりも、それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら、――其処にいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもその何処かにすこしく悲愴(ひそう)な懐古的気分を漂わせている。
 自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融(と)け込(こ)んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか? ――そういうパセティックな考えすらも(それはたぶんジムメルあたりの考えであったろう)、いまの自分にはなんとなく快い、なごやかな感じで同意せられる。……



また「風立ちぬ」の名文を読んで見よう。文章の書き方が少しは上達するかもしれない。


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