空耳 soramimi

あの日どんな日 日記風時間旅行で misako

「やし酒飲み」 エイモス・チュオーラ 土屋哲訳 岩波文庫

2017-11-29 | 読書
  


この変わった本との出会いは、1990年の花博まで遡る。忙しい時間をやりくりしてラフレシアを見に行った。あわよくば青いけしも見たいとそれだけで大嫌いな混雑に紛れ込んだ。ラフレシアは時期が遅くしぼみ始めていたが、帰り道に「やしジュース」の店を見つけた。これはチャンスかも。ストローを突っ込んで飲んでみると味は青臭く、薄甘く、健康飲料に似た味でいざというときの水分補給以外に飲みたくなるようなものではなかった。

本屋でこの本を見た時は、「やし酒」か、あのジュースを発酵させたものだろうか、わずかな糖分が飲めるほどに発酵するものだろうか。深く考えもしないで、書き出しの大酒のみの部分だけ読んで本棚に押し込んであった。
今回引っ張り出して読み返すと、これが見事に発酵していた。たまらなくユニークで面白かった。

金持ちの長男で十歳ごろからやし酒を飲むだけの生活だった。この頃はまだタカラ貝が通用する世界で父親は大金持ち。やし酒のみの息子に広大なやし園を与えやし酒作りの名人も雇ってくれた。
これが話の始まりだが、この幸せは父親が突然死に、やし酒作りも死んで消えてしまった。
やし酒以外水も飲めない体で、残っていたやし酒も飲み尽くし、そうなると取り巻きも去り、代わりのやし酒作りも見つからなかった。死者の国からやし酒作りを連れ戻そう。この話はここが発端で、彼は「死者の国」に旅立つ
ジュジュという妖術か魔力を身に纏い、父親のジュジュまで重ね着をして、一歩を踏み出す。
「死者の国」は死者が天国に行く前に仮住まいをするところらしい。まだやし酒作りはいるだろう。

当時まだあちこちの道の奥にBushと呼ばれる深い森林があった。そこには未知の生物や魔物が隠れ棲んでいた。死者たちはきっかりと区分された国境線の中で暮らしていたが、その中でやし酒作りを探すのはほとんど運任せだった。

恐怖にさいなまれながら不思議な旅が続く。
チュツオーラの想像力はマジシャンが空中から鳩を取り出すように、「死者の国」を作り出す。
一つ一つの物語は、「死者の国」に住んでいるモノとの遭遇で、恐怖と命がけの戦が続く。

まず「死神」に頼まれ娘を取り返して嫁にする。彼女は市場で見かけた完全な紳士の後をつけて、彼が借り物の体のパーツをを次々に返し代金を払って頭蓋骨だけになるのを見る。骸骨紳士がいる「底なしの森」で娘は「頭蓋骨一族」にとらわれていた。これを救い出す方法が面白い。
連れ出した娘の親指から子供が生まれ、これまた輪をかけたやし酒のみで怪しい生き物だった。「ズルジル」という名前がある。幸い出会った「ドラム」「ソング」「ダンス」という善良な生物の中に赤ん坊を置いて出発する。

死者の国々を通過する有様は、チュツオーラの脳内でさまざまに変化し、読んでいるとまるで「ドラム」「ソング」「ダンス」を見せてくれるように揺さぶられ踊らされる。

運よく危険な魔物から逃れ、親切な一族に助けられ、探し出したやし酒作りは、死者は生者のところには戻れないという。
やし酒をたらふく飲ませてくれたが、別れ際に「卵」をくれた。その望むものが何でも出る魔法の卵をもって故郷に戻り、旱魃・飢饉で飢え死にする人々を救い、こっそり出しておいた金貨で大金持ちになる。
飢饉は「天の神」と「地の神」の争いで始まったものだった。貢物をもって行くと「天の神」は怒りを沈め。雨を降らす。

これはアフリカの風土から生まれた人たちの話で、チュツオーラが味付けして作り上げた神話に似た物語りではないだろうか。
我が国にも古事記から伝わる、神話、民話、伝承、文字のない時代の口伝の御伽噺などがある。異国の長い歴史の中で生まれ魂の奥深くに根付いたもの、根源的な死の恐怖や、想像力が作り出した妖怪変化や、アニミズム・力の及ばない大きな自然に対する畏れ、魂の救済も司どり心の支えになっている祈りの対象に持っている深い信仰心。このぶっとんだ「死者の国」の話は読んでいると遠いアフリカが少し身近に感じられる。
チュツオーラを読む、人間の原風景ともいえる、これらの話を読むとき、いつの間にかやし酒のみの旅が親しく響いてくる。
それにしても「打ち出の小槌」か「玉手箱」のようなものはどこにでもあるもので。人類共通の「望み」かも。

チュツオーラという作家は、アフリカでも文化都市に生まれ、そこで途中まで教育を受け飛び級するほど優秀だったそうだ。ただやはり風土のせいか教育費に事欠き、望むような道に進めなかったらしい。

このあたり、独立戦争でやっと勝ち取った自由や長い悲惨な歴史、今も続く部族の争いなどが浮かんできた。豊かな資源がかえって不幸を呼び寄せたことも考える。


やし酒はあのヤシジュースから作るのではなく、やしの幹に出る芽を欠いて、そこから出る甘い樹液を発酵させたものだとか。




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「ネジマキ草と銅の城」 パウル・ビ-ヘル 野坂悦子訳 福音館

2017-11-21 | 読書


こんなに楽しく温かく、美しいお話に出会って読めたことがとてもうれしかった。

もし1000年生きることができたら、このマンソレイン王のように銅のお城で一人ぼっちになってもかまわない。こんなに次々に優しい動物がお話を持ってきてくれるなら。1000年後だしなんて思ってしまったほど。
ひげの中に潜って心臓の音を聞いてくれる優しい野ウサギがいて、壊れた心臓のねじを巻くために薬草のねじまき草を探しに行ってくれるまじない師がいるなら寂しくないかも。


まじない師が王様の寿命を延ばすネジマキ草をさがしに行く道で、出会った動物たちに王様にお話をしに行ってくれるように伝えた。

夜になって、オオカミが来た。そしてこだまの魔女と闘った話をした。その時脇腹の毛をむしられから今も毛が生えていないけれど。
次にリスが来た。
砂丘ウサギもきた。遠くから聞こえる「大きなザブーン」を兄ちゃんと聞きに行った。危険だと言われていたが兄ちゃんは「大きなザブーン」の近くまで行って帰らなかった。
カモもヒツジも来た。
羊飼いは羊の毛を背中で二つに分けて櫛できれいに梳かして王様に挨拶をした。
毛の中から小さなハナムグリが顔を出して、玉座の背中に乗せてもらって、蜘蛛と花の話をした。
カモが満月の夜にしか咲かない、ねがい花の話をした。
ライオンが来た。時間をくみ出す魔女のポンプの話をした。ライオンは魔女に働かされて命が尽きたが、天使が王様のところに連れてきてくれたのだった。
馬もきた。3つの頭があるドラゴンも来て、かわいい舌足らずで話をした。
畑ネズミと町ねずみがきてネズミの歌を歌って大うけした。
ツバメは、魔法使いのお父さんとわがまま娘の話をした。
ロバが来た。かわいそうなロバは素敵な帽子を風に飛ばされたので、お嫁さんが来なくなった。今も帽子を探している。あれがあれば結婚できるんだよ。
小人アノールは古い話をした。昔、小人たちは二派にわかれて争った。若いマンソレイン王と13人のイドゥールは暖かい国にのがれ銅の城を立てた。
広間に立てた千本のろうそくが燃え尽きようとしていた。千年の寿命。一本のろうそくが届けばまた千年の寿命がはじまる。

そこに火のついたろうそくが運ばれてきた。まじない師がねじまき草を煎じて持ってきた。

まじない師は北の高地から薬草を持って帰った。途中で小人に出会って、銅の城がどうしてできたのか伝えてくれるように頼んだ。


なんて素晴らしい話でしょう。広いお城で暮らすことになった動物たちの話も夢や暖かい思いやりを伝えてくれる。昔々銅のお城に住む王様と動物たちのお話だった。
忘れていた、村上勉さんの挿絵もピッタリでとても素晴らしい。



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「利休の闇」 加藤廣 文藝春秋

2017-11-18 | 読書



秀吉は針売りから身をおこし立身出世に邁進する、時代の流れに天才的な勘を持ちおまけに運までついていた。対、潔い求道者の利休という構図が浮かぶが。


前に読んだ山本兼一著「利休にたずねよ」はまさに期待通りの展開で面白かった。
今回の加藤廣著は、より信憑性を求めているのか、文献に沿って物語がやや細かく進んでいく。
やはり、資料だけでは不明なことが多く、歴史書はここをどう埋めるかに腐心するのだろう。
構想15年という「信長の棺」が話題になって評価されていて、とても期待していた。

面白かった。
秀吉の出自を引きずるいじけ具合や、出世第一の生き方、機を見るのに敏で、戦国時代ではこれに尽きるが、その上何かにつけてついていた。追従術にたけ呵責もなかった。やはりこれも秀吉の才能ということだろうか。

こういう風に利休を語るには秀吉が付いて回る。利休はその時どうしていたか、この本では歴史の歯車は二人を乗せて回っていく。

信長は、天才だったが、本能寺で焼き討ちに会い、ここでは生死も行方もはっきりしなくて、さっさと舞台から消える。光秀も討たれる。

秀吉と茶道・侘茶との接点は、信長の好きな赤烏帽子だった。高名な茶道御三家の一人宗易(のちの利休)に弟子入りする。
その頃の藤吉郎は利休の言う「遊び心の深さ」が言葉からしかわかっていなかった。

藤吉郎は信長から「茶会許可証」をもらい得意満面で姫路城で茶会を開いた。それは自他共に密かに天下取りの一人者と認め、認めさせる外部アピールの瞬間だった。

秀吉なりに向かう姿勢は違っても茶の湯茶道を理解していた。天下一になり湯水のように財力を使って、名器といわれる茶器を集め献上させて、それを披露し(見せびらかし)、手柄を立てた武将に下賜して、大いに力を見せたとしても。鑑賞眼がなかったのではない。

ただ、利休は求道者だった。当時重用されていた宗家の二人を置いて秀吉の下で勝ち組筆頭になっていた。

信長時代に認められ、茶器の巻手を任され、財力も蓄えていたが、秀吉は人使いが巧みだった。利休は面目をほどこし押しも押されもしない地位に就いた。

このあたりから彼にあからさまに様々な波押しよせる、信長の死、朝廷の介入で叱責を受け逼塞、秀吉との立場の逆転など、茶の道を究めようとする中で、世俗の風にさらされることになる。

弟子として見ていた秀吉が頭から指図を始める。賜った利休という名も気に入らない。
それでも彼なりに処世を見極め、茶道で生き残るために節を曲げることも多かった。
利休は若いころ放蕩もつくし、女もかこっていた。立場が危うくなると女の下に身を隠すこともした。

一方秀吉はますます忙しく、東奔西走して、各地の武将を操り、力を広げていた。
そして、子種なしと思い養子縁組までしたところにひょっこり茶々が懐妊した。

得意絶頂で茶道の遊びは脇に追いやられ茶会の数も減って利休の陰も薄くなっていった。

求道者という姿を持ち続けていた利休は、日が当たる秀吉という庇護者の光が陰ってくるにつれ、彼の闇は深くなる。

彼も多少意固地で頑固だった。誰しも目指すところが深ければ深いだけそれに助けられて生きていくことが多い。自尊心・プライドに導かれている。
利休はそれを捨てず貫いたというべきだろう。

石田三成は、賢明だった。主君の命を察し利休の罪を探した。彼は見逃せば見逃せる大徳寺の木造を理由にした。

堺に逼塞していた利休は刑の中でも多少軽いとされる切腹に決まった。

その時秀吉は
「愚か者め、ただの遊びにすぎぬのに」とつぶやいた。

歴史の闇も深い。利休関係の本をただ二冊読んだが、山本兼一さんのものは茶器に造詣が深くそちらの面でも読み甲斐があり、ストーリーに利休の茶道にかける執念がにじみ出ていた。

加藤廣著の方は、利休の生き方の生々しさと、立身出世という執念とともに茶道に向かう秀吉との対比が面白く、それぞれ違った味わいを持っていた。
こういうテーマはやはり事実がどうであっても物語に入りこんでしまう。




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「七人の使者 神を見た犬」ほか13編 ブッツァーティ 岩波文庫

2017-11-17 | 読書


よく知られた短編集「六十物語」から、15編を選んで訳されたそうで、これだけを読んでもブッツァーティの作風を存分に知ることができる。
「七階」は北村薫編の短編集で読んで、面白い、これはヨマネバと思って買ってきて、いつものように積んでいた。
今回 「#はじめての海外文学 vol.3応援読書会」に上がっていて、読みます宣言をしてやっと読み終えた。

不条理な日常の中に、不安、恐怖、恐れが潜んでいる。
周りの群衆に惑わされて後になって気が付く、眼には見えないもの、奇妙なものを恐れる気持ちは、人であればどこかに抱えている。
好んでそんな状況に飛び込むこともあれば、向こうからじわじわとやってきて巻き込まれたり、不意に突き落とされたりすることもある。
平穏な日常を、何気なく過ごしてはいるが、次第に導かれるように恐怖に近づいていくこともある。
ブッツァーティはそういった人間の根底にある恐怖を、特殊な環境設定であぶりだしている。平凡な日常にいると思い込んでいると、ふと気が付くこういった状況にいるということが実に興味深く、時にはあるだろう、不幸にも出会うかもしれない、という設定が興味深い。
ありそうな、でもまず出会いそうもない出来事も、独特の風景や環境設定が面白かった。

☆ 「七人の使者」
王国から出発して国境まで踏査しようと出発した。その時、年齢は30過ぎで7人の使者を連れていく。途中で母国に手紙を託して状況を知らせていたが、遠ざかるにつれて使者の帰りが遅くなった。すでにどことも分からなくなった国境に向かっていて、次々に使者を出したが、帰ってくるのに歳月が流れ、ついにはもう出した使者が追いつくかどうかわからないくらい遠ざかった。砂漠を越え村を通るが国境には目印もない、とっくに超えてしまったのか。目的が曖昧になりながらも先に向かって歩く話。なぜ、どうして。始めたことはもう引き返せない性もある。寓話的だがうら悲しい。

☆「七階」
微熱が出たので評判のいい病院に入った。7階は眺めも良く気に入った。ところが6階に移ってくれという、6階でも眺めはいい、まぁいいか。そうしているうちに5階に移った、細胞が少し破壊されているという。腕のいい医者は下の階にいるので移った。そのうちに湿疹ができた、治療機械が4階にある。などなどもっともな医者の話とともに治れば上に戻れるという希望とともに下へ下へ、重症患者のいる下の階に移っていく。一階はシャッターが下りている部屋も見える。よくなります。請け負います。あなたの病気は軽い軽いと言われながら、下の階に落ちていく。

☆ 「それでも戸を叩く」
☆ 「マント」
☆ 「龍退治」
☆ 「水滴」
などは非現実の中にまで潜む恐れを書いている。よくこんな題材でと思いながら印象的だった。

☆「神を見た犬」
街の人々は神や祈りとは無縁な暮らしをしてきた。
デフェンデンテ・サポーリは裕福なパン屋の老人から財産を譲られた。公開の場所で毎朝貧しい人に50キロのパンを恵むという条件付きだった。
デフェンデンテは籠に穴を開けて裏から数を減らしながらそれでも毎朝パンを配っていた。
丘の上の崩れかけた教会に貧しい隠者が住み着いた、町の人は地元の教会にもいかず丘の上など気にしないで隠者に近づきもしなかった。一匹の犬が毎日丘から降りてきてパンを一つ咥えて隠者の下に持って行っていた。隠者がいるとき丘の上に不思議な白い光が見えた。その光が白く輝いて大きくなったのが見え、隠者が死んだ。人々はしぶしぶ習慣で隠者を葬った。
しかし犬は変わらずやってきてパンを持って行った。隠者の犬なので神を見たかもしれない。人々はその姿を見て少しずつ生活が変わり始めた。人目につかない形ではあったが。
神を敬う心がない人々と、欲の皮の張ったパン屋と、いつもあちこちで見かけていた犬が教会の塀の上で死んだこと。そういった中からじわじわと滲みだしてくるような、人々の心の変化が、珍しく最終章でたねあかしもあって、いい話になっている。

☆ 「山崩れ」
☆ 「道路開通式」
☆ 「急行列車」
変わったこともない所から、次第に先が見えない状況に向かっていく恐怖。

☆ 「自動車のペスト」
普通ならありえない状況でも人は右往左往する。喜劇的な中に潜む滑稽な事件

☆「聖者たち」
生きていた時は神に仕える身でも評判は様々だったが、「聖者」と呼ばれて死ぬと天国に何不自由のない隠遁地が与えられた。ガンチッロは何かの間違いでこの「聖者」の中に入ることができた。
しかし本物の聖者になりたくてそっと奇跡をおこしてみたが、不発に終わり次の手もダメだった。珍しいコミカルな話。

☆「円盤は舞い降りた」
これもありえない状況で、教会の尖塔に舞い降りた異星人と話す、かれらは状況が全く読めないままなんとなく去っていく。異星人の描写もおもしろく可笑しい。



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「高峰秀子と十二人の男たち」高峰秀子 河出書房新社

2017-11-15 | 読書



亡くなられたけれど、高峰秀子さんが好きだった。今でも。 「渡世日記」や「まいまいつぶろ」を読んだことがある。


好きだなと思ったのは、何だったか忘れたけれど週刊誌で読んだ一言だった。多分答えから思うと「ポルノは読みますか」という質問だったろう。そこで「読みません、教わらなくても知ってます」というストレートな答えだった。
その頃は、宇野鴻一郎などのきわどい官能小説をよく見かけていたので、私などは時間を使って読む本は純文学がいいなどと生意気だった頃で、この言葉に痺れた。それだけでなく意見を述べるのに媚びない姿勢にも痺れた。

そして、先日図書館で見かけたこの本を読んで、「知っています」というのは、結婚しているので男女のことは判っています、ではなく後年に出演した「浮雲」のように、男のために愛と恨みの波にのまれたような女を演じた、清純なイメージから、ついに泥沼を見た女になったこと。ただ「知っている」だけではない体で覚えた人生観も含まれていたのだろうと気が付いた。
体験と演じることは違うなどと小難しいことは考えない。人を殺さなくても作家は書けると理屈も浮かんでくる。
私などは名女優といわれた人の中にこの方を入れている。
そんな高峰秀子が亡くなった後に出版されたこの対談集は遠慮なく編集しただろうと肉声を聞いた思いがした。

26歳から80歳までの対談集で、今は鬼籍に入った人がほとんどだが、時代の香りを纏いながら懐かしい世界にふれた。興津要さん以外の方は私でも知っている。やはり時代の一端を担った人たちだろう。交友関係も広い。

☆谷崎潤一郎との対談も興味深い。「細雪」が映画化されたときの話で、高峰秀子は元気なこいさん役だった、ただ大阪弁ができなくて訓練したそうだ、音程などとともに、文豪谷崎は関西にいて詳しく、話が面白い、言葉のことと和服にはこだわりがおおく、姉妹のそれぞれにあった着物がきちんと分けられていることに、新しい発見があった。
阿部監督「もちろん『恍惚の愛は』ご覧になりましたでしょう」
谷崎「全然直してあって、自分のもののような気がしなかった。だけれどそういうことを離れて見ましたがね」原作者はこういう見方もするのかな、印象的だった。
だが、阿部監督の奥畑(オクハタ)敬一郎が…。
というのに、それはね、オクバタケと読んで下さい。と訂正している。

☆三島由紀夫とは年が近いせいもあってやや先鋭的な三島に斜に構えた発言で返している。

☆何もかも捨ててパリに行ったことをフランス文学者の渡辺さんと率直に話している。フリーになって新しい生活を求めて飛び込んだことなど何度も読んだ記憶があるが、自由な暮らしに憧れて決行(実行)した勇気は高峰さんらしい。

☆近藤日出造さんには「そんなほんとうのこというと評判落とすよ」と笑われて題名にもなっている。その後も自分の言動に率直だった、聡明で思慮深いが、こういう生き方なので次第に思い残すものが減っていったのではないだろうか。

☆森繁久彌さんとは「恍惚の人」で共演して、老いについて語っている。森繁さんも亡くなったけれど、こうして疑似体験できる役者の生き方に学ぶところもあった。言葉に重みがある。

☆林房雄「あなたは若いときから哀しいひとでしたよ」

「上手で残っているか、丈夫で残っているかって」田中絹代さんや山田五十鈴さんと話したんですが」
生き残りについて林さんは「芸の力ですよ」といっている。
そういえばこの方々が亡くなったときは新聞に大きく掲載されていた。

水野晴朗、長部日出雄とは二人の映画薀蓄が素晴らしく、長部さんの時は高峰秀子最晩年80歳で、電話対談になっている。

父母が映画好きだったので、少しだけれど見た記憶もあって懐かしかった。

伝説のようになった多くの名画を残した高峰秀子さんという人の生き方は、できればこう生きたいと思うような、身ぎれいで無駄がなく冷たいようで芯は暖かく、この世を渡っていった人のように感じた。




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「もう一度読みたい教科書の泣ける名作」 学研教育出版

2017-11-06 | 読書

 




「ごん狐」などはよく知っているはずなのに、大雑把な話しか知らないので、ずいぶん前から気になっていた。ふと思いついて図書館の本を検索してみると、この本が出て来た。


選考はさまざまな世代にアンケートを行い、有名な作品から、隠れた名作まで16編が選ばれているそうで。
採用された教科書の学年の紹介があると書かれているのですが、記憶にあるのは「かわいそうなぞう」「杜子春」だけだった。

後年、作者の全集などで読んだものが多いが、初めて読むのもあって、教科書には、こんな作品が載っていたのかと、読んでみると又特別な感動や感激があった。


教科書の作り手が検討に検討を重ね、学習に適した面白い作品を選び抜いた結果が「教科書の物語」だそうです。名作ぞろいなのも当然といえましょう。

厳選16編の目次は

☆「ごん狐」 新実南吉 

☆「注文の多い料理店」 宮沢賢治

☆「大造じいさんとガン」 椋鳩十
  がんのわたりのリーダーに「残雪」という名前を付けた。利口なので爺さんが狙っても  一羽も撃てなかった。「残雪」と爺さんの知恵比べ。

☆「かわいそうなぞう」 土屋由岐雄 小学校二年生の教科書 

☆「やまなし」 宮沢賢治 小学校六年生 
   蟹の子供たちが話している。「クラムボンはわらったよ」「クラムボンはかぷかぷわらったよ」独特の擬音が印象的。川の中から見た風景も幻想的。

☆「モチモチの木」 斎藤隆介 小学校三年生
   一人で外のセッチンに行けない小さな豆太が、ある夜モチモチの木に灯がともったのを見た。

☆「手袋を買いに」 新実南吉 小学校四年生

☆「百羽のツル」 花岡大学 小学校三年生
   百羽の鶴が飛んできた。長い道のりにやっとついてきた小さな鶴が落ち始めた、99羽のツルが網のように重なって広がりと幼い鶴を受け止めた。

☆「野ばら」 小川未明 小学校六年生
一株の野ばらが咲く国境で、二つの国から来た兵士が一人ずつ隣り合った小屋で警備していた。二人は仲よく日を過ごしていたが、若い兵士が戦場に出て行った。残ったおじいさんは若者が死んだのだろうと思ったが、前を通り過ぎる軍隊に彼が見えた。でもそれは夢だった。戦いが終わりじいさんは暇を取って故郷に帰りバラは枯れた。

☆「ちいちゃんのかげおくり」 あまんきみこ 小学校三年生
  影法師をじっと見て青空を見上げると、空に影が映って見える。と出征前のお父さんが教えてくれた。戦争が激しくなり、空襲を受けた。光が顔に当たってまぶしくて目が覚めると。一面の花畑の中にいた。

☆「アジサイ」 椋鳩十 小学校六年生
  小さな谷に小さな沢があり一面にアジサイが咲いていた。危険なのでとってはいけないと言われていたが妹が恐れ気もなくアジサイの群れに入り腕いっぱいのアジサイを抱えてきた。

☆「きみならどうする」 フランク・R・ストックタン 小学校五年生
  ファルは銃と写真機をもって森に入った。見事な鹿の親子がいた。写真を撮るか、撃つか。
  
☆「とびこみ」 トルストイ 小学校四年生 
   世界一周の帰路に就いた船のマストに猿が上った。少年も負けるまいと登った。下を見て恐ろしくなった。船長はマストふるえている息子に銃を向けた。「飛び込まないと撃つぞ」

☆「空に浮かぶ騎士」 アンブローズ・ビアス 小学校五年生
  カータという補償は前線で眠りこけていた。目を覚ますと眼前の崖にある平らな石の上に馬が見えた。その姿は晴れた空に浮かんでいるようだった。彼は銃の引き金を引いた。空から降りてくるように見えた騎士は崖から落ちた。「誰が乗っていたのだ」「私の父です」「なんていうことだ!」と軍曹がつぶやいた。

☆「形」 菊池寛 
  戦場で勇名をとどろかした武将、新兵衛の兜と猩々緋の服折りを初陣の士に貸した。彼は敵陣に討ち入り、悠々とひとり引き返した。一方代わりの武具を付けた新兵衛は勝手が違った。彼は押し寄せる敵の槍が、彼に向かい、突き出されるのを見た。

☆「杜子春」 芥川龍之介 小学校六年生


時代を写すものもあれば多少道徳的な話もある。「かげおくり」は子供の頃遊んだことを思い出して懐かしかった。

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「突然紅茶で」… 秋が来た と思ったら木枯らし一番が吹いた

2017-11-01 | その外のあれこれ

買い物から帰りほっとして椅子に腰を下ろしたら「突然」紅茶が飲みたくなった。

出かけて「お茶でも」と喫茶店はいると、ほとんどの人が「コーヒー」という。そして「ホットで」とか「ブラックで」私は「砂糖もミルクもいります」

今は「紅茶で」と思っても、体制に逆らわない生き方で「同じでいいです」といってしまう。みんなといるときはコーヒーで、まぁ一人でいるときの紅茶はいいものだ。

何年か前、それも秋。サークルの流れで喫茶店に入り、お店の顔なじみが多い中でうっかり「アールグレイで」といってしまった。
「それ今切れてまして…」
 
あわてて「ミルクコーヒー 冷たいので」と訂正した 大汗。


そんなこんなで(どんな?)秋になると午後にはなぜか紅茶が飲みたくなる。


食器棚でカップを探していると、昨日使ったばかりの泡硝子のコップにひびが入っていた。
夏中お世話になって、なんか上向きの昼顔のような形が手に馴染んできたのに、なぜひびが?
お勤めが終わりそうなのを察してか。気が弱いヤツ、短いお付き合いだった。

毎朝使い続けている、コーヒー豆と産地のイラストが付いた粗品のコーヒーカップは10年来丈夫で、母用だと家族にも認識されているくらい丈夫。

さて紅茶のティーバックは、何気なく手元にある使い残りから淹れてきたが、今年のカップは昨年買って来た砥部焼のそれらしくない薄青いのを出してみよう。

紅茶は陶器より磁器かなと思いつつ、イヤイヤ渋い陶器もいいものだが、と考えふとネット君に訊いてみた。
おぉ紅茶の淹れ方飲み方、道具などやはり作法はあるもので。ハーブティーの淹れ方以来紅茶の勉強した。

いつからか我が家にあってついぞ見なくなった紅茶プレス、今更探すのも面倒だし、無事でいるのかもわからないし。いつもの煎茶用のガラスポットも使えるし。

そのうち静かな窓辺でティータイムもいいだろう。
まだ開けてない缶入り紅茶もあることだし。

冬になると暖かい日差しを求めて、猫を抱いて縁側で日向ぼっこもいいなと、紅茶より渋茶の似合う年になったみたいでとつい笑いつつ。
そうだうちに猫もいないしもう少し先にしよう。

そうそう、昨日拾い読みしていたら、昔、庶民はご飯の後、お茶を入れて残りの米粒をすすいで飲むので茶碗という名前になったそうで。
ほおぉ。





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