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"Life is either a daring adventure or nothing at all"

通院問題 その後

2007年12月27日 11時03分01秒 | 二分脊椎
脳外科と泌尿器かは妹の運転でなんとか行けた。
でも一緒にいてもらうのは苦しいので、(妹はEasyな性格だから「ついてこなくていいから適当に待ってて。」というと適当に待つ)受診は一人で。

コーディネーターの人と少し話して「病院はいつまでも待ちますから、気持ちの整理がついたらまたはじめましょう」「でも新しいことにもジャンプすることも大切ですよ」

そして偶然にNZ人の脳外科の先生に会って
”You don't look happy today"と言われてしまった
そこで”I am having problems..."
”What kind of problem?"

コーディネータもいたので、が日本語で医師に伝えにくかったことを英語で話し、補足で日本語で話し・・・

そのKiwiの先生にI understand your feeling... Everything is so fast here...so New Zealand time. OK?と言われた

もし、長い装具が必要になれば、気に食わなかったらNZに行き、できるだけ近いものを作ってもらう。
杖はとりあえず一本、薬剤師の友達に注文してもらった。
でも腕にわっかがついている杖や長い装具は、どうもたくさんの「棒」が回りにあって、拘束されている感じや、小さい頃に装具でがちゃがちゃいったり、油が切れたらうるさかったりでいじめられたし、靴ずれを起こしたりするので、どうしてもデメリットしか見えなかった。

じょくそうに関しても、また新しいドクターに会うことや、手術しても、もう4回ほどじょくそうの手術をしたので、またどうせうまくいかないんじゃないかという諦めモードで、踏ん切りがつかなかった。

結局ものすごくしんどくなって、記憶は飛ぶし、物事が手につかないし、また代母と話し合い・・(話し合いというよりもがぐちぐちゃと、なぜ嫌なのか言って、代母がひとつひとつの利点を説明しても・・・が納得せず「もう、」となり、
それにも関わらず、また
「長い装具はガチャガチャ言うから嫌だ」
「杖は腕のわっかが嫌」

・・・懲りない頑固な

その繰り返しの中で少しずつも気持ちの整理がだいぶついた。

「結局が、自分の体を受け入れてないから大変なだけで、はたから見たら杖ついても、装具が長くなっても大して変わらないよ。今はパンツも(ズボン)千差万別なんだから、長い装具も隠せるよ。じょくそうもいままでまともに食べてなかったんだし、今は栄養状態も良くなってるし、座る時間も減ってるんだし、うまく行くよ。今より全てが悪くなることはないよ」

「私はそういうことも不安だけど、それを一人で考えて、一人で決断して、一人で受け入れるって言うのが重いんだよ。いっぺんに」

「じゃあ付いて行くから。最初だけ不安なのよ。何回か一緒に行けば慣れるよ」
うまくあたらしい義肢とはなしたり、ドクターと話すことが極端に苦手ななので、年明けにもういちど代母についてきてもらうことになった。

そのあとで教会で神父さまに出会ったとき
「あのね神父さま、、長い杖を2本つかなきゃならなくなるかもしれなくて、腕をわっかに入れて松葉杖みたいに歩いて、この装具も棒付いて長くなるかもしれない」

神父さま「でも歩きやすくなるんだったらいいじゃないですか」

・・・ガクッ

「それでもし、今みたいに(祭壇に向かって)前に座ってたら、杖を置いて(聖体拝領というキリストの体のウエハースみたいなパンを頂くとき)普通に御聖体いただけるけど、後ろに座るとき、杖ついて前に歩いて行ったら、(両手で御聖体を頂くので)杖が邪魔で両手出せないんです。典礼聖歌(聖歌集)持って、プリント持って(じょくそうの)ざぶとん持ってって出来なくなる。教会で身動き取れなかったら、ほかの場所でどうやってやっていけばいいんだろう」

「御聖体は後ろにが座っていたら、前に来なくても、私が席まで持って行きます。本とかプリントとかいろんなことはそのとき考えたらいい」

なんだか悩んでいるのがあほらしくなってきた。

そしてクリスマスの日、教会のエレベーターを降りて、プリントを受け取ろうとして、ひっくり返って、とっさにじょくそうを打っては大変、と体をよじって逆を強打した。
そのあとカーペットの繊維に躓き、長い長いミサでおしりが痛くなり、じょくそうをかばったため足と腰を痛めた。

これはホントに杖が要る。装具も要る。覚悟を決めよう。一人で受け入れなくて良くなったのだから、来月行ってこようと思う