ワークショップの日。
久々に踊られたという先輩の踊りを見て、
一度習得すると、あんまり忘れないもんなんだな・・・と思った私。
そりゃ先生や、久しぶりに踊った方は
「いろいろ忘れてる」
と思われるのかもしれないけれど。
昨日、霊的司祭に会った。
洗礼受ける前のどん底から私を知ってくださってる神父様。
「(ジャズダンスするなんて)まさかこうなるとは思わなかっただろ。」
強烈に覚えているのは、初めて東京に行った頃。
人が信じられなくなって、またゼロからやり直しの頃。
その次は旅行業を勉強している頃。
江坂のホテルで研修があって、帰りの地下鉄がとても怖かった。
すーっとホームに引き込まれそうになるような時期。
一度虫の知らせなのか、とても安全が保障できそうにない日で、ホテルを出ると留守録に
「大丈夫か」と入ってた。
「いつかリタの父が電話してきて、リタが死んだ、と言われるのを恐れている」と言った友達もいたっけ。
でも、日々が必死で、とにかく日々、
小さな希望を紡いでなんとか命も紡いでいた感じ。
激痛の中でオペを何度か受けて、また倒れて。
寝たきりのまま頭脳ははっきりしたまま何十年も生きて死ぬのかな、
と思ってた数年。寝室の天井の模様をしっかり覚えてる。
そのくらい痛かった。
最後のオペでジェネレーターを入れて、その後お仕事をいただいて。
男性が苦手、人が苦手、得手不得手が凸凹。。。
男性が多い会社で、週に一度だけ会社に行き、あとは在宅。
みなさん良い方々で、男性への信頼も回復できた。
(病院はまだ。。。)
多少、自分の趣味を持てるような経済的余裕ができて、
オペ後1年、YAのアドレナリンラッシュのまま
ジャズダンスライフに突入。
始めたころは、みんな「ジャズダンス~ 笑」(笑)
私もこんな生活になると思わなかった。
ワークショップまでは、この一年のダンス生活は、
「嫌なことがあってもレッスンに行けば機嫌が直る」
身体のことも、ゆっくり発見していって、
辛く悲しい時期も身体に関してはあったのだけど
発見と驚きが支えになり、「お稽古まであと何日」という感じで
生きていることを頑張った。
でも、それは「日」単位で乗り越えるものだった。
かつて私がいつか死なないか心配をかけた方々には、
同じ心配をかけていたのだと思う。。。
ワークショップの次の日、前日に思いを馳せていた時
(ああ。私、もう大丈夫)
と初めて思った。
私は天に召されるまで、死なないな。
泉先生が引退されるまで、
あるいはまた痛みがコントロールできなくなるまで
私はきっと踊るんだろうな、と思ったの。
そのためにも働いて。
自分のために踊って、
自分の踊りのために働いて(仕事内容ではなくお給料の使い道というか)
自分のために与えられた人生を生きていくんだなって。
ずっとあの事件に負けない証明のためにいろいろしていたと思う。
そして、どうせ長生きしないんだから、
いままで自分をネグレクトしてきたから、
・・・と刹那的な生き方が抜けられなかった。
でも、今週からは世界が違って見える。
神父様も代母も
「ああ良かった。安心した。もう大丈夫」と。
いろんな方々に心配かけてたんだな。
うん、もう大丈夫。
身体の発見で喜ぶことは続けるけれど、
もっと大きな希望を持って踊れる気がする。
久々に踊られたという先輩の踊りを見て、
一度習得すると、あんまり忘れないもんなんだな・・・と思った私。
そりゃ先生や、久しぶりに踊った方は
「いろいろ忘れてる」
と思われるのかもしれないけれど。
昨日、霊的司祭に会った。
洗礼受ける前のどん底から私を知ってくださってる神父様。
「(ジャズダンスするなんて)まさかこうなるとは思わなかっただろ。」
強烈に覚えているのは、初めて東京に行った頃。
人が信じられなくなって、またゼロからやり直しの頃。
その次は旅行業を勉強している頃。
江坂のホテルで研修があって、帰りの地下鉄がとても怖かった。
すーっとホームに引き込まれそうになるような時期。
一度虫の知らせなのか、とても安全が保障できそうにない日で、ホテルを出ると留守録に
「大丈夫か」と入ってた。
「いつかリタの父が電話してきて、リタが死んだ、と言われるのを恐れている」と言った友達もいたっけ。
でも、日々が必死で、とにかく日々、
小さな希望を紡いでなんとか命も紡いでいた感じ。
激痛の中でオペを何度か受けて、また倒れて。
寝たきりのまま頭脳ははっきりしたまま何十年も生きて死ぬのかな、
と思ってた数年。寝室の天井の模様をしっかり覚えてる。
そのくらい痛かった。
最後のオペでジェネレーターを入れて、その後お仕事をいただいて。
男性が苦手、人が苦手、得手不得手が凸凹。。。
男性が多い会社で、週に一度だけ会社に行き、あとは在宅。
みなさん良い方々で、男性への信頼も回復できた。
(病院はまだ。。。)
多少、自分の趣味を持てるような経済的余裕ができて、
オペ後1年、YAのアドレナリンラッシュのまま
ジャズダンスライフに突入。
始めたころは、みんな「ジャズダンス~ 笑」(笑)
私もこんな生活になると思わなかった。
ワークショップまでは、この一年のダンス生活は、
「嫌なことがあってもレッスンに行けば機嫌が直る」
身体のことも、ゆっくり発見していって、
辛く悲しい時期も身体に関してはあったのだけど
発見と驚きが支えになり、「お稽古まであと何日」という感じで
生きていることを頑張った。
でも、それは「日」単位で乗り越えるものだった。
かつて私がいつか死なないか心配をかけた方々には、
同じ心配をかけていたのだと思う。。。
ワークショップの次の日、前日に思いを馳せていた時
(ああ。私、もう大丈夫)
と初めて思った。
私は天に召されるまで、死なないな。
泉先生が引退されるまで、
あるいはまた痛みがコントロールできなくなるまで
私はきっと踊るんだろうな、と思ったの。
そのためにも働いて。
自分のために踊って、
自分の踊りのために働いて(仕事内容ではなくお給料の使い道というか)
自分のために与えられた人生を生きていくんだなって。
ずっとあの事件に負けない証明のためにいろいろしていたと思う。
そして、どうせ長生きしないんだから、
いままで自分をネグレクトしてきたから、
・・・と刹那的な生き方が抜けられなかった。
でも、今週からは世界が違って見える。
神父様も代母も
「ああ良かった。安心した。もう大丈夫」と。
いろんな方々に心配かけてたんだな。
うん、もう大丈夫。
身体の発見で喜ぶことは続けるけれど、
もっと大きな希望を持って踊れる気がする。