ドブリーデン!
念願叶って行ってきました。負の世界遺産アウシュビッツに。
ここは第2次世界大戦中ナチス・ドイツが、占領した土地からユダヤ人だけでなくポーランド人や共産主義者、反ナチス、同性愛者などを強制収容し直ぐにガス室で殺したり過酷な労働の後殺したりした場所です。
28の民族、150万人の人がここで殺されたそうです。
あまりの残酷さにかなりの衝撃を受け2・3日は食事もできないかも? なんて話も聞いていたのでかなり覚悟をして行ったのですが私はそれほど衝撃は受けませんでした。
むしろ衝撃などは何もなく「今まで自分が知っていたことの事実確認をして来た」と言う感じでした。
残酷さは小学生の頃読んだ「アンネの日記」に始まり新聞や雑誌・テレビや映画などでよく見聞きしていたのでほとんどのことをすでに知っていたからだと思います。
ただユダヤ人というだけで強制収容され殺された人たちのことを思うと言葉では言い表せない複雑な気持ちになります。
可哀想という言葉を飛び越えてもっと違う言葉があるんじゃないかな?といつも考えてしまいます。
アウシュビッツの建物はそのまま保存され今は博物館になっています。
建物の中は撮影禁止なので写真はありませんが私が想像していたより明るくきれいだったので少しイメージが違ったなと思いました。
でも建物の中は修復されたものだそうです。
この修復はドイツの工科大学の学生さんが毎年休みを利用してボランティアで作業をしているそうです。とてもいいことだと思いました。
鉄の門の奥がアウシュビッツ強制収容所
門の上に「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)」の文字
収容者が蒔いた種から育った木
このアウシュビッツから約2km離れたところに第2のアウシュビッツと言われているピルケナウ強制収容所があります。
アウシュビッツに収容しきれずに改に作ったそうでかなり広い敷地に当時300棟以上のバラックが建っていたそうです。(アウシュビッツは28棟)
ここは映像でもよく見たことがある場所でした。
列車の引込み線があり当時貨物列車にすし詰め状態でユダヤ人達が連れてこられ下車と同時に強制収容所行きとガス室行きに選別されたところです。
真っ直ぐ数分歩いたところにガス室があるのです。
赤ちゃんや子供連れの人もそのままガス室に送り込まれたそうでここをガス室まで歩いた人の気持ちはどんなだったのだろうと思うと・・・・。
「死の門」を通りここで貨物列車から降ろされた
「死の門」を入って左側はレンガ造り。ほぼそのままの状態で残っている
右側は木造の収容棟 風化されて一部しか残っていない
機関車はまた収容者を運ぶためここで向きを変えた
引き込み線の終点
画面右側にガス室と焼却炉があったが終戦時にドイツ軍が慌てて破壊しその状態で今も残っている。
今日も遺族が花を手向けていた。
画面手前には大きな国際慰霊碑がありそのそばには28の言語で書かれた慰霊の石碑がある。
レンガ造りの収容棟に入ってみました。
ここは復元ではなく当時のままの状態で残されています。
復元された所とはまた違った、ずっしりと重いものを感じました。
アウシュビッツを見学した人は是非ここも見ておくべきだと思います。
ガイドブックには「蚕棚のようなベッドにぎゅうぎゅう詰めで寝かされていた」と書かれていましたが蚕棚の方がよほどきれいだと思います。
私がとても驚いたことが一つあります。
アウシュビッツ強制収容所の330Vの電気が流れていた有刺鉄線のすぐ隣に司令官の官舎があるのです。今もそのまま残っています。
終戦後この司令官は裁判にかけられたのですが夫人はずっとここに住み続けたそうです。
そしてこの両方の強制収容所の周りには民家が沢山あり人が住んでいるのです。
有刺鉄線の奥は木が生い茂っていましたが石造りの立派な家が立ち並んでいます。
150万人の命が奪われたところなのに嫌ではないのかな?と考えてしまいます。
でもここで働いていたドイツ人の人達は悪いことをしていると言う思いはなくむしろ誇りに思っていた、だから夫人もずっとそこに住み続けることができたのではないかと聞いてものすごい衝撃を受けました。
多くのアメリカ人が日本への原爆投下を「やって良かった」と思っているのと少し似ているのかな?と思いました。(一緒にするとアメリカ人は憤慨するでしょうが)
戦争とは何か? 平和とは何か? を全く違う視点で考えたひと時でした。
世界中の人たちが争いのない穏やかな気持ちで毎日を過ごせる日が来るのだろうか?
そんな日が来るのをより強く願う今日この頃です。
念願叶って行ってきました。負の世界遺産アウシュビッツに。
ここは第2次世界大戦中ナチス・ドイツが、占領した土地からユダヤ人だけでなくポーランド人や共産主義者、反ナチス、同性愛者などを強制収容し直ぐにガス室で殺したり過酷な労働の後殺したりした場所です。
28の民族、150万人の人がここで殺されたそうです。
あまりの残酷さにかなりの衝撃を受け2・3日は食事もできないかも? なんて話も聞いていたのでかなり覚悟をして行ったのですが私はそれほど衝撃は受けませんでした。
むしろ衝撃などは何もなく「今まで自分が知っていたことの事実確認をして来た」と言う感じでした。
残酷さは小学生の頃読んだ「アンネの日記」に始まり新聞や雑誌・テレビや映画などでよく見聞きしていたのでほとんどのことをすでに知っていたからだと思います。
ただユダヤ人というだけで強制収容され殺された人たちのことを思うと言葉では言い表せない複雑な気持ちになります。
可哀想という言葉を飛び越えてもっと違う言葉があるんじゃないかな?といつも考えてしまいます。
アウシュビッツの建物はそのまま保存され今は博物館になっています。
建物の中は撮影禁止なので写真はありませんが私が想像していたより明るくきれいだったので少しイメージが違ったなと思いました。
でも建物の中は修復されたものだそうです。
この修復はドイツの工科大学の学生さんが毎年休みを利用してボランティアで作業をしているそうです。とてもいいことだと思いました。
鉄の門の奥がアウシュビッツ強制収容所
門の上に「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)」の文字
収容者が蒔いた種から育った木
このアウシュビッツから約2km離れたところに第2のアウシュビッツと言われているピルケナウ強制収容所があります。
アウシュビッツに収容しきれずに改に作ったそうでかなり広い敷地に当時300棟以上のバラックが建っていたそうです。(アウシュビッツは28棟)
ここは映像でもよく見たことがある場所でした。
列車の引込み線があり当時貨物列車にすし詰め状態でユダヤ人達が連れてこられ下車と同時に強制収容所行きとガス室行きに選別されたところです。
真っ直ぐ数分歩いたところにガス室があるのです。
赤ちゃんや子供連れの人もそのままガス室に送り込まれたそうでここをガス室まで歩いた人の気持ちはどんなだったのだろうと思うと・・・・。
「死の門」を通りここで貨物列車から降ろされた
「死の門」を入って左側はレンガ造り。ほぼそのままの状態で残っている
右側は木造の収容棟 風化されて一部しか残っていない
機関車はまた収容者を運ぶためここで向きを変えた
引き込み線の終点
画面右側にガス室と焼却炉があったが終戦時にドイツ軍が慌てて破壊しその状態で今も残っている。
今日も遺族が花を手向けていた。
画面手前には大きな国際慰霊碑がありそのそばには28の言語で書かれた慰霊の石碑がある。
レンガ造りの収容棟に入ってみました。
ここは復元ではなく当時のままの状態で残されています。
復元された所とはまた違った、ずっしりと重いものを感じました。
アウシュビッツを見学した人は是非ここも見ておくべきだと思います。
ガイドブックには「蚕棚のようなベッドにぎゅうぎゅう詰めで寝かされていた」と書かれていましたが蚕棚の方がよほどきれいだと思います。
私がとても驚いたことが一つあります。
アウシュビッツ強制収容所の330Vの電気が流れていた有刺鉄線のすぐ隣に司令官の官舎があるのです。今もそのまま残っています。
終戦後この司令官は裁判にかけられたのですが夫人はずっとここに住み続けたそうです。
そしてこの両方の強制収容所の周りには民家が沢山あり人が住んでいるのです。
有刺鉄線の奥は木が生い茂っていましたが石造りの立派な家が立ち並んでいます。
150万人の命が奪われたところなのに嫌ではないのかな?と考えてしまいます。
でもここで働いていたドイツ人の人達は悪いことをしていると言う思いはなくむしろ誇りに思っていた、だから夫人もずっとそこに住み続けることができたのではないかと聞いてものすごい衝撃を受けました。
多くのアメリカ人が日本への原爆投下を「やって良かった」と思っているのと少し似ているのかな?と思いました。(一緒にするとアメリカ人は憤慨するでしょうが)
戦争とは何か? 平和とは何か? を全く違う視点で考えたひと時でした。
世界中の人たちが争いのない穏やかな気持ちで毎日を過ごせる日が来るのだろうか?
そんな日が来るのをより強く願う今日この頃です。
システムが変更されてから 送れなくなっています。
これで なんとか書き込みが出来るようになり安心です。
アウシュビッツの写真と文・・・とても良かったよ。
行ったようによく分かったし、現在の自然豊かな穏かな空気を悲しい程 感じました。
私も多くの映画や書物で見聞きしているので たくさんのことを感じました。
可愛そう・・そんなコトバじゃ言い現せませんよね。
許せない非人道的なことが 国家規模で行われたのですもの。
原爆は一瞬だけど 継続して多くの人がかかわって行われた犯罪なんですから・・。
同じ場所にたくさんの人たちが住んでいる・・戦争が風化したのもだけど ただ単に住めば都なのかも知れませんよ。
私もここに行ってみたいです。
カメラのセンスが良いような気がします。
どこかで見たことのある写真のような気がしますね・・・
敷地の広さは実際に行かないと伝わりづらいですね
色々なことを考え直せる気がします。
このことがそんなに昔では無い事も何だか考え深くなってしまいます。
ヒトラーじゃ無かったら、日本が勝っていたら、歴史に「もし」と言うのは無いですけど、かなり変わった世界になっていたのは間違いないですね
次はどこに行ってくれるのか楽しみにしてます。
半角に切り替えなくてはいけないんですよね。つい忘れがちですが・・・。
これからもよろしくお願いします。
長文になってしまったけれど行った気持ちになってもらえて嬉しいです。
1人でも何かを感じていただければ・・・
むかしむかしの出来事ではなく本当に数十年前のできごとですからね。
決して忘れてはいけない歴史の事実です。
平和を平和をと世界中の人たちが願っているのに今日も地球上ではあちこちで戦闘が繰り返されているということも忘れてはいけません。
平和な国の平和な時代に生きていることに感謝したいですね。
私も テレビ等で見てショックを受けたことを覚えています。収容所に向ってる線路の写真は 今もしっかり覚えています。
今も 地球の何処かで戦争が起こっていますが・・・
勝っても 負けても 犠牲者は出るものです。
世界が 早く平和になることを祈っていますが・・・
ところで 写真の腕あげましたね
又 楽しみにしてますから
昔見た映像で私もあの引き込み線の終着点をとても強烈に覚えています。
あの映像のように貨物列車も強制収容者もいなく静寂の中に残っているのが何とも言えず物悲しく感じました。
写真の腕、上がってますか?
きっと息子が喜ぶと思います。
同じ所を撮ることになるので自分のカメラではここを撮らなかったのです。
「あとで頂き~」と言って(笑)
息子にここにUPすることの了解を得てないので著作権の侵害をしている事になりますね。(笑)
ちゃんと謝らなくては
私のほうは、相変わらず、何かと忙しくパソコンいじっています。実は、私なりに、アウシュビッツについて、インターネットで調べていました。予想通りの写真です。たぶん実際の写真はもっと大きいサイズで撮っていると思いますが、線路と建物のアングルが、すばらしいです。今回建物の内部撮影禁止になっているようですが、私は建物内部の写真、見ることができました。下のアドレスで、見られます。やっぱり写真と実物とでは違うのでしょう
やはり実際に見てみるのが、一番ですね。その点うらやましく思います。
http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora01.html
久し振りの投稿でした。それじゃまた
追伸 今私のところでは、花火大会、お祭りが開催されています。露店もメイン通りに歩行者天国で、すごい数が並んでいます。
アウシュビッツについて、写真と感想、とてもよかったです。
それぞれが感じる思い、実際にその場にいても、いなくてもリョウさんの思いが伝わりました。
事実を自分の目で見ること、確かめることは怖いですね。
先日、雲仙普賢岳に行って来ました。噴火14年後に発見された、日本テレビのカメラの、その復元されたテープ約300秒の最後の映像・・・カメラマンの最後のやりとり、など。
やはりショックでした。
アウシュビッツに行ったときも無口になり、また普賢岳でも言葉になりませんでした。
さて、さて、ポーランド料理はいかがでしたか?
ビゴスやジュレックのお味は???
ド・ビゼーニァ!
内部の撮影禁止というのはやはり遺族の方達への配慮ではないかと思います。
ここを一般公開するときにも遺族の方達から随分反対の意見もあったそうです。
身内が苦しんで逝った場所を見世物にはしたくないと。その気持ちよくわかります。大きな声でしゃべったり笑い声も慎むべきだと思います。
そういう意味からもバチバチ写真を撮るのも控えた方がいいと思いました。
写真も随分出回っていますが実際はもっと暗く冷たくデコボコした感じがしました。
アウシュビッツについて調べたそうで良かったです。
私もUPした甲斐がありました。
ほんの数十年前のこんなむごい出来事を1人でも多くの人により深く知ってもらえれば何よりです。