暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

スウェーデンからのお茶だより・・・Oさんのメール

2016年09月19日 | スウエーデンの茶友から

    1990年に建てられた、新・瑞暉亭の広間

スウェーデンのOさんからメールが届きました。
新・瑞暉亭のことを知りたい、日本にも紹介したい・・・という要望に応えて
関連の記事を翻訳してくださっています(アリガトウ!)。
そんなOさんの近況を今日はお茶だよりとしてご紹介します。
瑞暉亭という茶室を中心にイキイキと活動されているOさんやスウェーデン淡交会のお仲間の様子が垣間見られ、
お茶仲間として心からエールを送ります。


スウェーデン民族博物館

 Oさんからのメール

暁庵さまへ

暑さが和らぎ これからはいい季節ですね。 
私は毎年10月から11月ごろ日本へ旅行するのですが、今年は帰ったばかりなのでちょっと残念です。 
先日瑞暉亭を借りて、スウェーデン淡交会の仲間で茶箱の月点前をやりました。 
残念ながらお天気がいまいちで満月はみれませんでしたが・・・。
私は和菓子をつくり好評でしたよ・・・。


       お月見の菓子

遅くなりましたが1990年代の民族博物館長のウーラ・ワグナーさんの書いた記事を訳したので送ります。 
あくまで私の訳だから、文章は先生の手で直してください。
何しろ翻訳したのは何年ぶりかで、日本語がちょと怪しいかもしれませんので、よろしくお願いします。
一応新瑞暉亭の建設について少しはわかると思います。 
瑞暉亭についていろいろな方が書かれたのがあり、瑞暉亭のタイトルで一冊の本になり1996年出版されています。
今回のウーラさんの文はその中のものです。 
その本の中にイーダさんのお孫さんが書かれた文があり訳してみますが、もう少し時間をください。

                       
                                新・瑞暉亭の躙り口

去年(2015年)は瑞暉亭25周年記念で修復工事が行われました。
これもすべて寄贈金で行われ、京都から3人の職人さんがみえました。 
この時のビデオが博物館のサイトにあるので見てみてください。
   https://www.youtube.com/watch?v=Y-UUBFf2YRY

旧瑞暉亭を寄贈した藤原銀次郎さんの親戚の方もスウェーデンへ来られて、この修復工事に力を注いで援助されました。
修復工事の案を出され、活動をした方が資金集めに今年「瑞暉亭の友の会」を発足されました。


     Oさん宅の林檎の木

Yさんお稽古頑張ってらっしゃいますね。 
それにお茶サロンの話や先生のブログをとても楽しみにしています。
こちらは日本の柿のように枝が垂れ下がった林檎の木をよく見かけます。 
我が家も2本の林檎の木がありますが、年によっては取れすぎて困ることもあります。
自然の中で採れるブルーべりーはやはりスウェーデンならではでしょうね。

瑞暉亭 先生にこんなに興味を持っていただいて、訳した記事がお役に立てば嬉しいです。 
では次はイーダ・トロツィグのお孫さんの記事を訳して送ります。           Oより
                                             


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長月の稽古だより・・・三重棚で盆香合

2016年09月13日 | 暁庵の裏千家茶道教室


9月7日(水)は長月の最初の稽古日でした。
8月の夏休みモードに終わりを告げ、気合を入れて稽古に励まなくては・・・と、気持だけは前向きです。

その日は、FさんとN氏が残暑にもめげず、颯爽と着物姿で来庵してくださいました。
・・・ところが、暁庵は暑さでバテ気味のため洋服で失礼しました。

購入したばかりの三重棚を使ってみました。
関西のS先生宅で三重棚の稽古をして以来、いつか購入して使いたい・・・と憧れていた棚です。

三重棚は利休が初めて用いたと記憶にありましたが、調べてみると、お好みが多いのにびっくりです。
    三重棚は、地板の他に三枚の棚板が三重に重なっている棚をいう。
    元来は仕掛棚といって棚が五重の水屋用であったものを、
    千利休が桐木地で三重に好み直して席中に用いた。
    再好みとして、宗旦好みは一閑張で、表千家七代如心斎好みは桑木地、
    九代了々斎好みは真塗、裏千家十代認得斎好みは黒掻合せ、
    久田宗全好みは真塗爪紅(つまぐれ)です。   茶道大辞典(淡交社)


暁庵のは表千家如心斎好みの桑三重棚写で、指物師・仙正(仙水正之)作です。
一番上には花や香炉を飾っても好いそうで、これも楽しみです。


   三重棚 
(カメラ故障にてS先生宅の三重棚です)

さて、肝心のお稽古ですが、Fさんが盆香合と貴人清次薄茶、N氏が茶杓荘と唐物です。

棚を使う盆香合は久しぶりです。
8月に入って茶友Kさんから電話があり、
「盆香合で棚を使う場合、貴人畳の角に置いた炭斗はいつ元の場所に戻したかしら?」
・・・う~ん、つい先だって「夕去りの茶事」で盆香合をしたのですが、棚なしでした。
そんなこともあって、棚ありにしました。

盆香合は、いつもと同じ初炭手前ですが、香合が名物であったり、由緒がある場合
香合を炭斗に入れずに、後から盆に載せて運び出し、香を手で焚きます。
香合は初雁蒔絵香合(春斎作)、盆は真塗四方盆、心入れの香(稽古では白檀3枚)を香合に入れます。

・・・(前略)・・後掃きをし、羽箒を炭斗の上へ置いてから、炭斗を持って客付を向き、
貴人畳の角に炭斗を置き、風炉正面に戻り、左ひざを下げて灰器を持ち、香合を取りに水屋へ下がります。

香合をのせた盆を左手で持ち、右手で香合を持ち添えて運びだし、風炉正面に座ります。
棚の前に盆を両手で置き、香合を両手で取り左掌にのせて蓋を取り、盆の上に置きます。
香は手で焚き、蓋を閉め、盆の上に香合を置くと、拝見が掛かります。

盆を持ち客付にまわって拝見に出し、一膝下がって、手をついて控えています。
盆を取りに出た正客が自席へ着くと、一膝進み、貴人畳の炭斗を持って正面を向き、
棚の前に炭斗を置きます。
客付へ戻り、カンをかけ、釜を上げた位置へ引き、カンをはずし、水次を取りに水屋へ下がります・・(後略)。


 雁金草 (季節の花300)

盆香合のハイライトは問答・・・と思っていますが、さて問答は
「香合のご由緒は?」
「先年茶室披きをした折、恩師から頂戴しました「初雁蒔絵香合」でございます。
 ちょうど9月でございましたので、この時期になりますと恩師のことを思い出しながら
 使わせて頂いております。作は前畑春斎でございます」
「それは何よりのお品と存じます。
 美しい木目が、重なる雲のようにも波のようにも見えますね。
 はるばると空や海を渡って来た初雁(ご亭主)をきっと恩師の先生も嬉しく迎えたことでしょう・・・
 お盆は?」
「真塗四方盆で、輝斎作でございます」
「先ほどから好い香りがしておりますが、お香は?」
「茶室披きの時と同じにと思いまして、鳩居堂の伽羅(香銘・藤袴)を焚かせて頂きました」
「・・・初雁蒔絵香合と藤袴、ご亭主様のいろいろな思いを感じながら拝見させて頂きました。
 ありがとうございます」

Fさんもあれこれ考えてくださって、問答は難しいですが、伺うのを楽しみにしています。
                                      

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友にエールを・・・茶道会館・研究会茶会「つぼ仙人」

2016年09月11日 | 茶事・茶会(2015年~他会記録)
                       

2016年9月4日、茶道会館(高田馬場)で行われた研究会茶会へ出かけました。

茶道会館で学んでいる方たちの曜日ごとの研究会が毎年行っている茶会ですが、
今年から6月と9月の2回に分けられたとのことです。
今年も茶友Yさんへエールを送りたくって、後半の9月の茶会へFさん、Kさんと3人で繰り出しました。

10時半に高田馬場駅で待ち合わせです。
台風が次々と襲来している合間なので、迷った末、洋服で出かけましたが、
お二人ともステキな着物姿です・・・それに雨も予報に反して降らずじまいでした。

今年の御題「人」がテーマですが、茶券に次のように書かれています。
   研究会茶会  御題「人」
 ☆ 真之間   つぼ仙人    水交会
 ☆ 峰春亭   主人公     一樹会
 ☆ 山茶屋   ○△□     華葉会  
 ☆ 至誠軒   点心席            

全席まわりましたが、茶友Yさんのいらっしゃる水交会「つぼ仙人」席について記します。

                       

最初の待合(椅子席)の床には扇子が掛けられ、下に古書が置かれていました。
    扇子の書の読み下しは
       身は百尺桜上に居り
       眠を万巻書中に
       放(ほしいまま)にす    長谷川棤南(明治の書家)

    古書は、「公事根源新釋・下巻」(宮中の行事を記したもの)
二番目の待合には、深山幽谷の水墨画が掛けられています。

・・・水交会の方に伺うと、つぼ仙人は元お役人だったとかで、宮中行事の書を荘ったそうです。
扇子の書と水墨画は、いかにも仙人がそこにいらっしゃる雰囲気がありました。

 
お早目ですが、茶席で興味深く伺った「つぼ仙人」のお話しを書いておきます。

  このお話の主人公である費長房(ひちょうぼう)は、市場を管理する役人でした。
  市場に薬売りの老人がいて、店の軒先に壺を一つぶら下げていて、
  市が終わると、壺の中にひょいと飛び込んでいました。
  高楼の上からこれを見ていた費長房は不思議に思い、ある日、老人に随って壷の中へ入りました。
  そこには立派な御殿があり、うまい酒と豪華な料理が並べられ、二人は一緒に酒を飲み交わします。

  費長房は老人と深山幽谷へ入り道術の修行をしたのですが、仙人にはなり切れず帰ることになりました。
  別れ際に老人は費長房へ3つの贈り物をくれたのです。
  不老長寿、行きたいところへ行ける一本の竹の杖、地上の鬼神を管理できる一枚の護符。

  竹の杖にまたがると、瞬く間に家に着きました。
  家を離れて十日しかたっていないと思っていたのが、すでに十数年が過ぎていました。
  その後、費長房は3つの贈り物を駆使して、つぼ仙人として活躍したそうです。(後漢書・方術伝より)


                        

本席(真之間)の床には、「蓬莱五彩雲」の軸、西垣大道和尚筆です。
はっとするほど気品のある白い花、遠目には芙蓉のようにも見えましたが、
白いタチアオイと水引が唐銅の壷に生けられています。
香合は銀製の薬を入れる小箱。

点前座は、雲龍風炉に雲龍釜が掛けられ、つぼつぼ棚の水指は白磁青海波。
棗は群鶴平大棗(前畑春斎作)、
茶杓は、櫟(いちい)の錫杖(つえの形状)、銘は「飛翔」です。
主茶碗は赤楽(初代小川長楽)、替茶碗は仙人の絵がある伊万里でした。

最後に蓋置がとても珍しい形をしているのを発見。
十分杯(じゅうぶんはい)と言って、杯の下に穴があり、杯の中央に小さな搭があります。
サイホン式になっていて穴を押さえて使います。
茶友Yさんから、つぼ仙人には次のようなエピソードあるそうです。
壷中の酒盛りで、老人は一本の指で酒の入った壺をぶら下げて戻ってきました。
壺には一升ほどが入っているように見えましたが、二人で一日中飲んでもなくならなかったとか。

帰り際に、書院に3枚の護符を発見しました。
関帝廟、水天宮、もう1枚・・・思い出せませんが、3枚目の護符が一番大事かも・・・。

費長房ですが、その後大切な護符をなくし、亡霊どもにとり殺されてしまったそうです。

                        
                                十分杯(じゅうぶんはい)の構造
                
つぼ仙人のお話に因む道具組は楽しく、奥深く、想像力をいろいろかきたててくれました。
きっと水交会の皆様も十分に楽しまれたのではないでしょうか。
Yさん、今年も楽しい茶席をありがとう!   


スウェーデンからのお茶だより・・・瑞暉亭の今昔-2

2016年09月05日 | スウエーデンの茶友から
                       
                       
                           緑に囲まれた、今の瑞暉亭(ずいきてい)
昔の瑞暉亭(つづき)

2.藤原銀次郎(王子製紙社長、茶名・藤原暁雲、1869-1960)の寄贈

イーダ・トロツィグ(Ida Trotzig)の熱意はついに民族博物館館長であるG.リンドブロム博士を動かし、博士は駐スェーデン日本公使を通して国際連盟日本支部に茶室の寄贈を正式に要請しました。
それを知った日本瑞典(スェーデン)協会副会長で王子製紙社長の藤原銀次郎は寄付の会を作るなど、茶室寄贈のために動き出したのです。

                       
                        瑞暉亭の寄贈者、藤原銀次郎氏

実現までいろいろあったようですが、「スェーデンに日本文化、特に本格的に茶道を伝えたい」というイーダ・トロツィグの熱意は、そのまま茶人でもある藤原銀次郎(茶名・藤原暁雲)の想いとなっていったことが推察されます。
藤原銀次郎は本物の日本の茶室環境を伝えることにこだわりを持って、素晴らしい茶室一式を寄贈したのです。
(藤原銀次郎氏個人の寄贈かどうかは意見が分かれるところですが、中心になって計画を進めていったのは確かだと思います)

1935年3月、数寄屋大工・浮賀谷徳次郎の設計施工により、ストックホルムに建設するのと寸分違わぬ茶室の仮組立が東京・三田の慶応大学敷地内で行われました。
3月20日に日本瑞典協会総裁であった秩父宮殿下並びに妃殿下が茶室を御観覧され、
秩父宮殿下(1902-1953)によって「瑞暉亭(ずいきてい)」と命名されました。

                     
                      瑞暉亭の命名者・・・秩父宮殿下
                          
                  
                         今の瑞暉亭内部

1935年4月、数寄屋大工・浮賀谷徳次郎と助手・谷口國男はスェーデンの貨物船M.S.Shantung號でスェーデンへ船出しました。
分解された茶室はもちろんのこと、露地や植栽、手水鉢、腰掛などの茶庭の一式、そして茶道具や調度品まで船積みされて・・・。

無事ゴテブルグ(イェーテポリ)に到着し、荷をストックホルムへ運び、スェーデン人の大工・ミィルソンとオーセーの二人を助手として直ちに茶室の建築にかかります。
日本の数寄屋大工の棟梁とスェーデンの大工、文化の違いや手法の違いもあり、最初こそ行き違いもあったようですが、浮賀谷徳次郎(当時63歳)の真面目で熱心な仕事ぶりや、数寄屋建築の技術に感服し、やがて互いに強く心を通わせるようになりました。
日本と瑞典の大工が協力して働いている茶室建設中の写真が文献に残されており、興味深く拝見しました・・・。

                  
                       憧れの美しき水の都・ストックホルム

                  
                  瑞典(スェーデン)の国旗
                 
茶室落成式には瑞典(スェーデン)皇太子殿下のご臨席を賜ったそうです。
イーダ・トロツィグや藤原銀次郎はもちろんのこと、日本と瑞典の関係者の喜びはいかばかりかと・・・。    

1935年(昭和10年)に建設された瑞暉亭は1969年(昭和44年)10月に焼失。
焼失までの34年間、人々の想いが詰まった茶室でどんな茶会や茶の稽古がされたのでしょうか?
昔の瑞暉亭の記録や写真が残っていたら是非教えてください。

次回は少し時間を頂いて、今の瑞暉亭についてご紹介できたら・・・と思います。


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スウェーデンからのお茶だより・・・瑞暉亭の今昔-1

2016年09月03日 | スウエーデンの茶友から
                    
                        1990年に再建された、今の瑞暉亭(ずいきてい)

スウェーデンの首都ストックホルムにある国立民族博物館、
そこに趣深い茶室「瑞暉亭(ずいきてい)」があります。
もちろん暁庵はその茶室へ行ったことはありませんが、
写真を見て次々と興味が湧いてきました。
「えっ! これがOさんのお話にあった茶室(写真)なのね。なんて素晴らしいのでしょう!
 日本から遠く離れたスェーデンにどうしてこのような立派な茶室が建設されたのかしら?
 瑞暉亭(ずいきてい)とはどなたが命名されたのかしら?
 今、瑞暉亭でどんな茶の湯が行われているのかしら?」

送られた資料を読むと、複雑な(?)長い歴史があることがわかりました。
1935年(昭和10年)最初に建設された瑞暉亭は1969年に焼失。
長らく空き地になっていましたが、1990年に再建され今に至っています。
瑞暉亭の今昔と題して、ふたつの瑞暉亭の由来などを勉強し、一部紹介したいと思います。

昔の瑞暉亭
1.スウェーデン人女性・イーダ・トロツィグの嘆願
日本の茶室がスウェーデンに建設されることになった発端は、イーダ・トロツィグ(Ida Trotzig,1864-1943)というスウェーデン人女性の嘆願によるものでした。
(これから記す概略は古い話なので確証がないものもあるらしい・・・ことをお断りしておきます)

イーダは32歳年上のヘルマン・イーダ・トロツィグと結婚、夫とともに来日し、30年以上日本に滞在しました。
ヘルマン・トロッチック(Herman Trotzig,1832-1919)は船員として1859年に長崎へ到着した後、日本に留まり、アーノルド・グルームやグラバー商会などに勤務しました。
1868年(慶応3年)居留地を長崎から神戸に移した後、神戸居留地行事局長や同警察署長を歴任しています。
ヘルマンはスウェーデンに一時帰国した際にイーダと結婚し、ドイツ滞在を経て、1888年頃に再び夫婦で来日しました。。
1899年(明治32年)に国内のすべての居留地が日本に返還されたのを機に、職を辞し引退しますが、その後も神戸に住み続け、1919年(大正8年)に日本でその生涯を閉じました。
          
                    
                        今の瑞暉亭の水屋(表千家流仕様らしい)

イーダは夫と1888年(明治21年)頃に来日して以来、30年以上日本で暮らしましたが、
その間、日本語や日本文化を学び、特に茶道(表千家流)と華道を本格的に学んだそうです。
(イーダが日本のどこに住み、茶道や華道をどんな人達からどのように学んでいったのか? その過程について知りたいものです・・)
       
夫ヘルマンの死後、イーダはスェーデンへ戻りました。
イーダにはスウェーデンに本格的に茶道を紹介したいという志があり、そのためには茶室が必要と考えたのです。
当時、ストックホルムの民族博物館館長であるG.リンドブロム博士らの知人に、茶室建設のための出資を依頼したり、茶室の建設を嘆願したりしています。

茶室という茶の空間を通して日本の茶道の真髄を伝えたいと考えたイーダに、茶の湯への志の深さを感じました。
残念ながら、イーダ・トロツィグの生涯や日本での生活についてほとんどわかっていないのですが、茶の湯の著書も出版しているとか・・・)

                      
                         「瑞暉亭の今昔-2へ続くよ」   

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