暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

2024年「炉開きと口切の会」・・・(2)初炭と濃茶

2024年11月18日 | 暁庵の裏千家茶道教室

       (コバノズイナと白玉椿を信楽焼の掛花入に)

つづき)

次は初炭、AYさんが大きな瓢の炭斗、次いで灰器(備前焼)を運び出しました。

羽根は銀鶴、鐶(美之助造)、利休好みの桑柄火箸(清五郎造)、

釜は霰唐松真形釜(美之助造)、炉縁は輪島の真塗です。

     (霰唐松真形釜・・・美之助造)

初履きが始まると、お正客から順番に全員が炉を囲み、炭手前を間近に拝見します。

炉になってから初めての稽古がこの「炉開きと口切の会」なので、実は内心心配していました。

初履き、灰器(備前焼)に盛られた湿し灰を炉中に撒く様子、瓢から順序良く炭を置き、香が焚かれました。

いずれの所作もしっかりとなさり、日頃の自宅での修練が伺われて頼もしいやら、嬉しいやらでした。

拝見に出された香合は柿香合、高岡銅器なので手に取るとびっくりするほど重い柿です。

練り香は坐忘斎好みの「露葉」(山田松香木店)です。

ここで昼食休憩となり、暁庵は昼食の手配を社中の皆様にお任せして、しばしお客様と歓談です。

なだ万のお弁当とAYさん心づくしの熱く美しい煮物碗(海老真蒸、隠元、紅葉麩、柚子)を皆で賞味しました。一献はノンアルコールワイン「PIERREーZEROー」(仏)。Y氏のチョイスですが、フルーティで私でもグイグイ大丈夫でした・・・

ここで休憩となり、お汁粉を食べて中立ちの予定でしたが、雨がポツポツ振り出しました。「コラボ茶会」でもそうでしたが、ここのところ雨に祟られているみたい・・・。待合でお汁粉を食べ、茶道口から席入していただきました。

後座の亭主M氏が銅鑼を7つ打ち、後座の席入です。

  大・・小・・大・・小・・中・中・・大  

(少し雨が降っていたので、喚鐘にすればよかった・・・と、今頃気が付いた次第です

後座の床は、お軸はそのままとし、上座に紐飾りを施した色絵吉野山図茶壷、床柱に花を荘りました。

花はコバノズイナと白玉椿、掛け花入は信楽焼・高橋春斎作です。今年はいつまでも暑かったので、いつも咲いている西王母や白玉椿が咲かず、蕾を見つけるのに苦労しました・・・こんな年は珍しいです。

点前座に寿棚をしつらえ、萩焼の水指と薄器、茶入を置きました。

濃茶第1席のお客様は、正客SKさま、Fさま、KTさん、詰KRさんの4名様で、亭主はM氏です。

1碗目の茶碗は、お客様が小堀遠州流なので御本三島です。2碗目は赤楽茶碗(佐渡の花ノ木・風の窯、渡辺陶生作)で2人分ずつ練りました。きっと・・・M氏の緊張感の中にも美しいお点前で、お客さまは熱くしっかり練られた濃茶を堪能されたことでしょう。

濃茶は坐忘斎好み「延年の昔」(星野園)です。

(ここで炉中の炭が心配になり、M氏が後炭をしました。後炭の様子は後で書かせていただきますね)

次は2回目の濃茶席、お点前はKRさん、お客様は、正客AYさん、暁庵、Y氏、詰M氏の4名です。

贅沢にも席中でお汁粉を頂き、濃茶がもう待ち遠しかったです。

襖が静かに開けられ、濃茶点前が始まりました。一同心を正してKRさんの袱紗捌きや清めの所作を見つめます。

炉の濃茶では中蓋があり、後炭をしたばかりなのに湯が煮立って釜がまるで怒っているようでした。

織部焼の肩衝茶入から濃茶が回しだされ、滝のように流れ出る緑の美しさを久しぶりに鑑賞しました。

心を込めて練ってくださった濃茶は練り加減も薫りも好く、濃さも飲みやすく美味しゅうございました。

1碗目は黒楽茶碗、長次郎「喝食(かつじき)」写で昭楽作です。2碗目は大樋飴釉茶碗(中村康平作)です。

仕舞付けが終わり、正客から「茶入、茶杓、仕覆の拝見をお願いします」と声が掛かりました。

茶入は口切りでお馴染みの織部焼肩衝(瑞光窯、佐々木八十二造)、仕覆は十二段花兎です。

玉龍寺古竹で作られた茶杓は戸上明道和尚の銘「好日」です。 後炭と薄茶へ続きます。 つづく)

 

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          炉開きと口切りの準備に勤しんで

 


2024年「炉開きと口切の会」・・・(1)口切

2024年11月16日 | 暁庵の裏千家茶道教室

      (京都からの紅葉だより・・・光悦寺にて、13日撮影)

 

2024年(令和6年)11月10日に恒例の「炉開きと口切の会」をしました。

恒例と書きましたが、口切は「私にやらせてください」と手を上げてくださる方がいらっしゃる限り、続けていきたいと思っています。今年はKTさんが手を上げてくださり、とっても嬉しいです。

もう一つ、ゲストとしてSKさまとFさまが参席してくださいました。小堀遠州流をお習いですが、暁庵(裏千家流)の口切をぜひ拝見したい・・・と来てくださったのです。

9月30日の「菊月のコラボ茶会」共催したお仲間でもあり、社中の皆様は緊張しつつも、やりがいを感じてくださったことでしょう。

「炉開きと口切」は、茶人にとって「茶の湯の正月」と言われる、目出たい行事です。皆様、ステキなお着物でいらしてくださるので、こちらも楽しみにしています。暁庵もいろいろ気を使います・・・この日はまだ暑く、何を着るか悩みながら、何年も袖を通していない金茶の無地紋付(扇の地紋)を選び、緑地に樹木模様の袋帯を締めました。久しぶりの金茶の着物が派手すぎないかしら? と心配しながら・・・

     日本画「秋耕」 野沢蓼州画

「炉開きと口切の会」は、社中の皆様でいろいろな役割を交代でしていただきながら茶事形式で行っています。

2024年の次第は次の通りでした。

待合~ 席入 ~ 挨拶(KTさん)~ 口切(KTさん)~ 初炭(AYさん)~ 昼食・休憩 ~銅鑼で席入

~ 濃茶①(M氏)~ 後炭(M氏)~ 濃茶②(KRさん)~ 薄茶(Y氏)~ 挨拶(M氏) 

初座の亭主はKTさん、半東はAYさん、後座の亭主はM氏、半東&水屋は適宜交代で、暁庵は後見です。

お客様がお揃いになったようで、詰KRさんが打つ板木の音が高らかに聞こえると、半東が桜湯をお出しし、腰掛待合へご案内しました。下火を入れ、濡れ釜をかけて、亭主が迎えつけをしました。

 

蹲を使って席入りです。

初座のお客様は、正客M氏、次客SKさま、三客Fさま、四客Y氏、五客AYさん、詰KRさんです。

       「紅炉一點雪」

亭主KTさんがお一人お一人と挨拶を交わされ、正客から待合や床の掛物についてお尋ねがありました。

待合の掛物は日本画の「秋耕」、作者は川合玉堂門下の野沢蓼州(りょうしゅう)です。

本席のお軸は「紅炉一點雪」、紫野総見院の山岸久祐師のお筆です。

床の下座に朱色の網袋に入った茶壷が飾られています。

正客より「どうぞご都合により茶壷の拝見をお願いします」とお声がかかりました。(ご都合により・・・というのは、茶壷拝見のタイミングが流儀や仕方によって違うからです)

いよいよ口切です。暁庵の口切では先に茶壷を拝見に回し、その後に口切をします。恩師N先生にお習いした仕方で、「先にお壷をゆっくり拝見した方が口切の時の期待感が高まると思いますよ」とN先生。

それに今年は「色絵吉野山図茶壷」を使いました。最初は仁清写しの壷と思いましたが、静嘉堂文庫美術館と福岡市美術館にある色絵吉野山図茶壷(2つとも重要文化財)とは違うように思っています。というのも、この茶壷の吉野山図にはステキなものがたりが描かれているのです。それで、京焼の現代作家さんのオリジナルと考えています。

網袋がはずされ、茶壷が拝見に出されました。ものがたりを鑑賞していただくために全員が茶壷を時計まわりで見ていただきました。口覆いは唐松金襴です。御茶入日記が運ばれました。

壷が戻り、葉茶上戸一式が運び出され、いよいよ口切です。(順番などはこちらをご覧ください

KTさんが小刀をとり、ゆっくり慎重に壷の合口を切っていきます。客一同、その一挙手一動を我がことのように見つめます。やがて蓋が開けられ、
「いずれのお茶を差し上げましょうか?」
「ご亭主様におまかせいたします」とM氏。


     (葉茶上戸一式です)

茶壷から詰め茶が葉茶上戸(じょうご)へ出され、壷の中から濃茶が入った半袋が1つ取り出され、茶銘を読み上げ、挽家(ひきや)に入れました。

「「延年の昔」でございます」とご亭主。

葉茶上戸をトントントンとリズミカルに打ちながら、葉茶が詰と書かれた曳家へ入れられ、残りが壷へ戻されました。

封紙に糊をつけ合口に封をし、捺印します。葉茶上戸一式を片付けてから、壷を網に入れて水屋へ下がりました。

これにて2024年の口切が終了です。

すらすらと流れるように口切が行われ、私も清々しい気持ちで見守れて嬉しかったです。

この後に水屋にて茶壷に真、行、草の紐飾りが施され、後座の床に飾ります。つづく)

 

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          炉開きと口切りの準備に勤しんで

 


「丘の上チャリティ茶会」・・・思静荘の濃茶席(2)

2024年11月15日 | 茶事・茶会(2015年~他会記録)

      (丘の上記念会堂の礼拝堂)

つづき)

「丘の上チャリティ茶会」へ行きたかったのには訳がありました。

3年前に野原薊さまから「社中の方が出れなくなったので、急ですが「丘の上チャリティ茶会」へ行きませんか?」

とお誘いがありました。用事で行けませんでしたが、その折に主催者の一人・高橋敏夫牧師の講演会「春日部市市民講座(第41回2022年12月7日)「茶会ー茶事と大寄せの茶会ー」)のレジュメを拝読したのです。

中でも高橋牧師が最初に表千家茶道をお習いした「横山悌子師の最後の茶事」の項を読んで、天の鞭に打たれたかのような衝撃と深い感動を覚え、涙が止まりませんでした。そして、いつか高橋牧師のお茶に触れてみたい・・と願ったのです。

暁庵にとっても忘れられない一文を備忘録として、そしてお茶を修練しているお仲間に読んでいただきたくって、掲載させていただきます。

🔶横山悌子師の最後の茶事(高橋敏夫牧師の講演会のレジュメより)

・・・いよいよ「むすび」です。ぼくが今回お話ししたかったのは、最初に学んだ先生の横山悌子先生のことでした。

この方が若かった頃は、たくさんの弟子を引き連れてお家元の処とか、久田宗匠の処とか、美味しいものが食べられる処とか、あちらこちらへ連れて行ってくださいました。先生からは「あなたは牧師だから、こういう処を知っていた方がいいわよ」って言われてね。

そんな横山先生が、ぼくたちを教えている頃に交通事故に遭われてしまい頭を打ったのですね。そのため、お年を召されてからは花の名前をみんな忘れてしまったのです。それは、お点前にも言えることで、お点前がほとんどできなくなってしまったのです。ですから、ぼくたち弟子に教える時も、「これでいいですかね」と確認されるようにすごく謙虚に教えていらっしゃいました。実際には忘れてしまっていて教えられないのに、一生懸命教えようとしてくださいました。

そうした中で、ある日、横山先生がぼくたちをお茶事へ呼びたいとおっしゃって、15人ほどで招かれました。横山先生は、もうほとんどお点前は出来ないのですけれども、亭主としてお座りになって、ぼくたちに聞きながらお濃茶を練ってくださり、お薄も点ててくださいました。料理は柿傳、お菓子も京都から取り寄せてくださったのですが、ぼくたちが知っている茶事の世界とは全く違う茶事でした。だって、亭主がすらすらと進行できず、お茶を点てることさえもできないのですからね。

でもその時に、先生は自分ができないことを恥じていないのです。花の名前さえ言えないことを全然恥ずかしいと思っていなかったのです。それこそ、これが本当のお茶人なんだなという姿をぼくに見せてくれました。

「あるがまま」なのですね。そして、何よりも楽しそうになさっていたのです。茶事が終わった後、先生は何も言わずに頭を下げていらっしゃいました。ただただ頭を下げていらっしゃる先生の姿を見て、「あぁ、ぼくはこんな素晴らしい先生からお茶を習ったんだなぁ」と思いました。

ですから、横山悌子先生のことを思うと、ぼくもお茶事をやらなくっちゃと思いました。その時は何人の方にお声掛けできるか分かりませんが、ぜひ来てください。

   (レジュメの続きは略)

  (庭の不思議なオブジェ・・・丘の上記念会堂にて)

さて、「丘の上チャリティ茶会」に戻ります。茶会前に上記のレジュメを再読して、いまだ感動冷めやらぬ思いでおりましたので、高橋牧師にお会いした時に・・・不遜にも

「横山悌子先生について書かれた講演会のレジュメを読んで、とても感動しました。横山先生のような茶事をなさっていらっしゃいますか?」

すると、とても真剣なお顔で(少し怖いような・・・)「今、それをやっているではありませんか!」

そのお答えを伺って、心から頷くものがありました。

今出来ることを精一杯やっていらっしゃるのだ・・・5年間に3度死にかけながら不死鳥のように回復されて、又、大事な方の死に向かい合いながら、きっと必死の思いでこの茶会に取り組んでくださっているのだ・・・。誰も先のことはわからない、今しかないのだ。今この瞬間を最後だと思って一生懸命やるしかないのだ・・・と。  

 

ここまで書いて(書くべきかどうか、どう書いたらよいか迷いながら・・・)、

やっと「丘の上のチャリティ茶会」へ行ったのだ! ・・・という実感が湧いてきました。

野原薊様、お誘いを心から感謝しております。社中の皆様と美味しく過ごした「ほまれ」のことも忘れられません・・・。

皆様と丘の上チャリティ茶会にて、またの御目文字を楽しみにしています。

 

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「丘の上チャリティ茶会」・・・思静荘の濃茶席(1)

2024年11月05日 | 茶事・茶会(2015年~他会記録)

 

(書けずにさんざん迷いましたが、不思議なご縁を感じながら一生懸命書いています・・・)

10月26日(土)に第28回「丘の上チャリティ茶会ー名残の茶の湯の楽しみー」が開催されました。

3年前に野原薊さまからこの茶会へお誘いがあり、それ以来お伺いしたいと思いながらこの度願いが叶い、埼玉県春日部市の春日部福音自由協会・丘の上記念会堂へいそいそと出かけました。

10月になっても暑い日が続き、この日にようやく袷を着ましたが、最寄の東岩槻駅から徒歩10分ほど、丘の上記念会堂への最後の登りではぐっしょり汗をかきました。

 

教会の中とは思えない水墨画の襖絵がある広い座敷が受付と待合になっています。そこで身支度し、最初の濃茶席の会記と消息の解説書(菊月二十二日伊勢侍従あて、解説:小松茂美)をいただきました。

野原薊さまのお社中と8人で思静荘と名付けられた茶室(広間)へ席入りしました。

床には大きな横物の消息「伊勢侍従宛利休手紙」(写、大阪城天守閣蔵)が掛けられています。香合(村上堆朱)が荘られ、フェニキア出土の泪壷(ローマンガラス)に生けられた秋桜が2本、赤い花に白い花がそっと寄り添っているように見えました。

点前座に回ると、十字透紋のあるどっしりした唐銅鬼面風炉に織部好みを思わせる肩衝筋釜が掛けられています。存在感のある風炉釜から幽かに松風が心地よく聞こえてきて、このまま聴いていたい・・・と。

すぐにお点前が始まりました。表千家流の濃茶点前、しかも男性のお点前を拝見するのは初めてなので、良席(次客)でもありじっくり拝見したかったのですが、常盤饅頭が運ばれ、そちらも急ぎ食べねばなりません。

そのころに席主の高橋敏夫牧師が入られて、ご挨拶やお菓子の話が始まり、お点前を拝見するのはまたの機会にしました・・・というのは、高橋牧師の魅力あるお話に引き込まれてお点前どころではなくなったからです。

床に掛けられた利休の消息、冒頭に南坊が都を立ったという一文があり、南坊とは高山南坊(高山右近)のことで利休七哲の一人ですが、無事に金沢へ向かって都を立ったことを伊勢侍従(蒲生氏郷)へ知らせています。高橋牧師は高山右近の研究をされているので、キリスト教禁止令が出され苦境にある高山右近の行動や心境を、この消息から慮っていることでしょう。

 

濃茶が運ばれ、お正客の野原様、三客の野原社中の若武者と3人で一碗をともにしました。

「三人様でどうぞ。茶碗は出土品なのでやさしく一回だけ清めてください」

久しぶりに3人で濃茶をいただきました。飲みやすく優しい濃茶は「楽寿の昔」(柳桜園詰)です。

茶碗はヘブロン出土(紀元前2200~2000)の土器だそうです。漆を塗った茶碗は、とても薄手で縁に何か所か金継があります。ヘブロン出土と伺っただけで、時を経てはるばる旅をして日本の、この教会の茶会で使われ、その茶碗で濃茶をいただくご縁の不思議さを思いました。

毎年、記念茶会を開催しているものの、5年間で3度死にかけたことや、最近大切な人を亡くしたことなど、近況をお話しくださいました。

その後に高橋牧師から鋭い質問がお正客へありました。

「貴女は長く茶の湯を修練していますが、茶の湯に究極に求められているものは何だと思いますか?」

しばらく考えられてから「それは「茶の心」でしょうか」とお正客が答えると、

「「茶の心」も良いけれど、私は「ぬくもり」だと思いますよ」と。

正解はありませんが、茶の湯の有り様や心構えをいろいろ考えさせられる質問でした。

 

三碗目の濃茶は「沙毘恵留(ザビエル)」という銘の赤楽茶碗(十五代楽直入作)で出されました。この茶碗はハート形をしていて、直入氏が奥様のことを思いながら制作し、奥様へ贈られた茶碗だそうです。直入氏の心がこもった茶碗を奥様は高橋牧師に使ってほしいと贈られたそうです。そのお話を伺って、思わず・・・

直入氏の大ファンでして、楽美術館茶会で直入氏のステキなお話を伺った思い出がございます。そのお茶碗をぜひ拝見させてください」と声にしていました。

すると、「そうですか・・・それではこのお茶碗で薄茶を差し上げますので、ぜひ喫んでください」と高橋牧師。

直入氏のあたたかなお気持ちが伝わってくるような赤楽茶碗、ハートのお形やへら遣い、釉薬の複雑な景色に感激しながら熱い薄茶を美味しくいただきました。感激も一入ながら、すぐにこのような粋な計らいをしてくださった高橋牧師にお茶を愛する茶人としての柔軟な心構えや対応力を教わった気がしました。

ごちそうさまでした。そして、ありがとうございます。  つづく)

 

      「丘の上チャリティ茶会」・・・思静荘の濃茶席(2)へ続く

 

 


炉開きと口切りの準備に勤しんで・・・

2024年11月03日 | 暁庵の裏千家茶道教室

  

      (風炉の最終日の床です)

 

10月30日に風炉の稽古が終わり、翌日から風炉から炉へ変わる作業に勤しんでいます。

最初に取り組んだのは炭の準備でした。台風の予報が出ていたので、早めに炭を切ったり、洗ったり、乾かさなくってはなりません。

いつも思うことですが、炉の炭の大きさに驚き、あっという間に箱炭斗がいっぱいになりそうです。特に胴炭は大きすぎて、うちの様な少人数の教室ではため息が出るような大きさです。

細めの胴炭、丸ぎっちょ、丸管、割管が足らないので、ツレに頼んで一尺物から切ってもらいました。

秋の陽を浴びながら庭の小さな洗い場で炭を洗い、濡れ縁に並べて干すと、その日の作業は終了。腰に来るので2時間以内で切り上げるようにしています。もう一箱分が必要なので数日かけて少しずつ準備していきますが、それでも元気に準備できることが嬉しいです。

      (花は薄、紫蘭、雪柳、秋明菊)

    (暑さに耐え、野紺菊が咲きました!)

今日(2日)は朝から雨になり、外の作業は一休み。

一家で横浜DNAを応援していますが、日本シリーズ第6戦が雨で中止となりました。それで、心穏やかに古い本を引っ張り出して読みだしたら、これが面白く奥深く勉強になりました。

本は「なごみ 2010年11月号」で、特集は「炉開きによせて知る 茶壷入門」です。

「唐物茶壷と茶の湯」(文・佐藤豊三 徳川美術館専門参与)より抜粋

初夏に摘んだ茶葉を精製して壷に保管し、夏を越え、立冬を迎える季節になると、炉開きをかねて壷の口切り茶事が催される。この催しは「茶の湯正月」と呼ばれるほど重要な行事で、主役が茶壷で、その多くは唐物茶壷が用いられる。唐物茶壷は、葉茶の保管・運搬・熟成に最も適した容器として鎌倉時代後期の十四世紀前期には用いられていたようである。

鎌倉時代から室町時代にかけて、唐絵・唐物が流行した。唐絵すなわち中国水墨画、青磁や唐銅花入、建さん天目、堆朱・堆黒の工芸品がもてはやされた。これらは一口で言えば、端正な美しさと姿をもった伝統の美である。

唐物の茶壷はその基準と異なり、釉薬が施されているが釉調は不均一で、一部には窯変も出ている。胎土も精製不十分な土で火膨れがあり、爆ぜたりもして、形姿は端正ではなく歪んでいる。唐物茶壷の受容は、端正な美を求める伝統の美とは異なり、不均一の美、粗野の美ともいうべき新しい美意識を日本人が求めたことにある。いわば「粗相の美」である。

この美意識がのちに珠光、紹鷗、利休らによって採りあげられ、茶の湯世界における「侘びの美」を形成していくことになる。(まだまだ興味ある内容が続きますが・・・略)

 

      (散歩道のホトトギス)

茶摘み前に茶壷を茶商に預けて葉茶を詰めてもらい、立冬を迎えるころに茶壷が届けられ、壷の口切りが行われたそうですが、口切りの行事としてその形を今に伝えていければ・・・と、毎年「炉開きと口切りの会」を開催しています。

令和6年11月10日に暁庵の茶道教室恒例の「炉開きと口切の会」を行う予定なので、茶壷の準備や茶道具を調えなくてはなりません。

我が家にもハレの日に備えて2つの茶壷があります。もちろん唐物茶壷ではなく現代の和物ですが、最初に求めたのが丹波焼の茶壷(市野信水造)、もう一つは京焼の色絵吉野山茶壷(仁清写?、青竺造)、それぞれの形姿、釉薬や絵の違いが趣深く、どちらも大のお気に入りです。

京都の茶商に茶壷の葉茶の詰めを頼めば楽でしょうが、口切りの仕事として自分で詰めることにしています。

先ずは木の蓋や茶壷の口縁の古い紙をきれいに取り除き、新しい和紙を貼ることから始めます。毎年のこととはいえ、この作業が結構大変で難しいです。しっかり糊が乾いた翌日に薄茶の茶葉を詰め変えて茶銘を書いた半袋3つ(濃茶用)を入れて、さらに葉茶を口まで入れて、和紙で封印をします。

 

  (昨年の「炉開きと口切りの会」)     

今年の口切りはKTさんが名乗りを上げてくださいました。前にも書きましたが、京都で暮らした3年間は口切をしなかったので、帰ってからは毎年我が家で口切りをしたいと思い、名乗りを上げてくださる生徒さんがいらっしゃる限り、続けていきたいと願っています。

今年は「口切りを拝見したい・・・」と、ゲストの方が参加してくださることになり、張り切っています。

 

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