今宵は中秋の名月です。
台風で名月鑑賞は無理のようですが・・・。
稽古、茶事、北海道旅行と、珍しく大忙しでして
しばらくご無沙汰しておりました。
9月16日に楽美術館で行われた特別鑑賞茶会へ
初めて行ってまいりました。
この茶会は当代・楽吉左衛門氏が席主をつとめられ、
茶道具には楽家歴代の作品が登場し、それらの茶碗で茶を頂戴できる・・・
という夢のような茶会で、どうしても参席したいと願っていました。
茶会の前に秋期特別展を見ておきたいと思い、早めに伺いました。
楽美術館は、展示品はもちろんのこと、展示スペースの構成が好ましく、
静謐を感じる空間づくりにいつも魅せられます。
最初に当代・楽吉左衛門の焼貫黒楽茶碗(2004年制作)を鑑賞しました。
「巌上に濡光ありⅢ」
巌裂は苔の露路 老いの根を噛み
当代 吉左衛門(昭和24~ )と記されています。
それは力強い造形の、私の手には納まり切れない大きさの茶碗でした。
巌上に濡光あり・・・と表現されている釉薬の流れは、
白や黄色やグレイが混ざったり離れたりして、濡光を生じ、
黒楽の巌列の肌と対照となって、不思議な雰囲気を醸し出していました。
しばらく見ていると、最初の力強さとはうってかわり、悲哀のような感覚、
そう!サーカスのピエロのような悲哀を感じたのです。
ますます茶会での御目文字が楽しみになってきました。
長次郎の今なお艶やかな黒楽「村雨」、
始めてみる「鐶付はじき」の車軸釜や優美な鷺蘆地紋車軸釜(二代大西浄清)、
初代中村宗哲作で藤村庸軒好の「望月棗」、
初代飛来一閑作の詫びた味わいの張抜棗(宗旦在判)が印象的で、
特に古釜好きの暁庵にはワクワクする展示でした。
待合で会記や箱書を見たり、席がご一緒の方々とお話したりしました。
川崎市からこの茶会を目的に京都へいらしたご夫婦、常連らしい大阪の殿方、
そして、なんと!茶事へお招きくださったご亭主様と偶然お会いしました。
床の掛物は、大徳金龍悦叟和尚の明月画賛で、円相にも見える明月と
「取之不得捨之不得咦」
これを取りて得ず これを捨てて得ず、い(あれっ!の意味)。
席主・当代楽吉左衛門氏の明月に寄せた心境のようにも・・。
秋海棠と紫の花が桂籠に入れられていました。
紫の花の名前は雁がね草、楽家の庭に咲いているそうです。
主菓子(雁月、聚洸製)が運び出され、薄茶点前が始まりました。
薄茶は一保堂の丹頂の昔です。
すぐに席主が席へ入り、いろいろなお話を伺うことが出来ました。
秋期特別展へ出品中の、茶の湯に欠かせない道具である
釜、茶碗、薄器のお話は、それぞれの作品が生まれた時代背景と作者、
千家との関わりに言及され、聴き応えがありました。
合間に客と交わされる質問や感想などにもきちんと応えてくださって、
当代の誠実なお人柄が滲み出ていました。
「姨捨月」 (月岡芳年「月百姿」より)
なかでも茶会に使われた六個の茶碗は興味深いものでした。
主茶碗は、黒楽で「姨捨(おばすて)」という銘です。
「姨捨」伝説の舞台、長野県千曲市の「田毎の月」を連想させます。
六代左入作、二百之内、如心斎書付が添ってます。
「姨捨」といえば、木下恵介監督の映画「楢山節考」(深沢七郎原作)が
すぐに思い出されました(ご存知の方は少ないかもですが・・)。
ラストシーン・・・息子は老母を山へ置き去りにして山を下りたものの、
途中で母への想いがつのり、夢中で引き返します。
山には雪が降ってきて、念仏を唱える老母に容赦なく降りそそぎます。
「おっかあ~」・・・雪に埋もれる老母に取り縋る息子。
老母は気丈にも戻ってきた息子を追い返すのでした・・・。
「姨捨」という能があることを知りました。
中秋の名月の夜、老女の霊が旅人の前に現れます。
老女の霊は、山奥に捨てられた悲しみも孤独な死も突き抜けて、
月光の精のように舞います。
能の多くは仏の導きにより成仏して終わるのですが、
「姨捨」の老女の霊は成仏してあの世へ帰ったのか、
この世の悲しみの中にあって山にとどまっているのか、
わからない終わり方になっている・・・という当代のお話を伺うと、
手に取った「姨捨」の黒楽が一層趣深いものに思われてきたのでした。
(秋海棠 季節の花300提供)
二椀目、十代旦入作の赤楽茶碗「秋海棠」(惺斎書付)で、薄茶を頂きました。
黒、白、グレイの釉薬が雲海の雲のように躍っている、
豪快な茶碗で、存在感が抜群でした。銘がかわいすぎる気もします。
手に取るとすっぽりと心地好くおさまり、見た目よりも薄手に削られています。
三碗は露山焼「山里」(淡々斎書付) 十一代慶入作
四椀は赤楽茶碗 十二代弘入作
五椀は黒楽四方茶碗「四季の友」(即中斎書付) 十四代覚入作
長次郎の「ムキ栗」を連想しました。
最後は当代の若き日、惣吉時代の作とか。
赤楽の素朴な印象の茶碗で、「蒼雲」(鵬雲斎書付)という銘です。
実はこの茶碗が一番のお気に入りでした。
「素」という造詣の原点を感じさせる趣きの茶碗だからでしょうか。
「長次郎のどの茶碗がお好きですか?」とお尋ねしましたら
「大黒・・無一物・・・ムキ栗もいいですね」
どれも写真でしか見たことがありません。調べましたら、
大黒(個人蔵)、無一物(西宮市頴川(えがわ)美術館)、ムキ栗(個人蔵)
ですが、いつかお目にかかりたいものです。
たった1時間余の茶会でしたが、
楽家の営々と続いた歩みと背景にある歴史、
茶碗づくりにかける当代の生き様と静かな情熱を感じさせる
「静中楽有」の茶会でした。
帰りにもう一度、展示品を鑑賞しましたら、
茶会でいろいろ伺ったせいか、どの作品も輝きを増しているようでした。
とりわけ、先ほど「ピエロの悲哀」と表現させて頂いた
当代作・焼貫黒楽茶碗が「ピエタ」に変わっておりました。
このような茶会と特別展にご縁がありましたことを感謝しています。
台風で名月鑑賞は無理のようですが・・・。
稽古、茶事、北海道旅行と、珍しく大忙しでして
しばらくご無沙汰しておりました。
9月16日に楽美術館で行われた特別鑑賞茶会へ
初めて行ってまいりました。
この茶会は当代・楽吉左衛門氏が席主をつとめられ、
茶道具には楽家歴代の作品が登場し、それらの茶碗で茶を頂戴できる・・・
という夢のような茶会で、どうしても参席したいと願っていました。
茶会の前に秋期特別展を見ておきたいと思い、早めに伺いました。
楽美術館は、展示品はもちろんのこと、展示スペースの構成が好ましく、
静謐を感じる空間づくりにいつも魅せられます。
最初に当代・楽吉左衛門の焼貫黒楽茶碗(2004年制作)を鑑賞しました。
「巌上に濡光ありⅢ」
巌裂は苔の露路 老いの根を噛み
当代 吉左衛門(昭和24~ )と記されています。
それは力強い造形の、私の手には納まり切れない大きさの茶碗でした。
巌上に濡光あり・・・と表現されている釉薬の流れは、
白や黄色やグレイが混ざったり離れたりして、濡光を生じ、
黒楽の巌列の肌と対照となって、不思議な雰囲気を醸し出していました。
しばらく見ていると、最初の力強さとはうってかわり、悲哀のような感覚、
そう!サーカスのピエロのような悲哀を感じたのです。
ますます茶会での御目文字が楽しみになってきました。
長次郎の今なお艶やかな黒楽「村雨」、
始めてみる「鐶付はじき」の車軸釜や優美な鷺蘆地紋車軸釜(二代大西浄清)、
初代中村宗哲作で藤村庸軒好の「望月棗」、
初代飛来一閑作の詫びた味わいの張抜棗(宗旦在判)が印象的で、
特に古釜好きの暁庵にはワクワクする展示でした。
待合で会記や箱書を見たり、席がご一緒の方々とお話したりしました。
川崎市からこの茶会を目的に京都へいらしたご夫婦、常連らしい大阪の殿方、
そして、なんと!茶事へお招きくださったご亭主様と偶然お会いしました。
床の掛物は、大徳金龍悦叟和尚の明月画賛で、円相にも見える明月と
「取之不得捨之不得咦」
これを取りて得ず これを捨てて得ず、い(あれっ!の意味)。
席主・当代楽吉左衛門氏の明月に寄せた心境のようにも・・。
秋海棠と紫の花が桂籠に入れられていました。
紫の花の名前は雁がね草、楽家の庭に咲いているそうです。
主菓子(雁月、聚洸製)が運び出され、薄茶点前が始まりました。
薄茶は一保堂の丹頂の昔です。
すぐに席主が席へ入り、いろいろなお話を伺うことが出来ました。
秋期特別展へ出品中の、茶の湯に欠かせない道具である
釜、茶碗、薄器のお話は、それぞれの作品が生まれた時代背景と作者、
千家との関わりに言及され、聴き応えがありました。
合間に客と交わされる質問や感想などにもきちんと応えてくださって、
当代の誠実なお人柄が滲み出ていました。
「姨捨月」 (月岡芳年「月百姿」より)
なかでも茶会に使われた六個の茶碗は興味深いものでした。
主茶碗は、黒楽で「姨捨(おばすて)」という銘です。
「姨捨」伝説の舞台、長野県千曲市の「田毎の月」を連想させます。
六代左入作、二百之内、如心斎書付が添ってます。
「姨捨」といえば、木下恵介監督の映画「楢山節考」(深沢七郎原作)が
すぐに思い出されました(ご存知の方は少ないかもですが・・)。
ラストシーン・・・息子は老母を山へ置き去りにして山を下りたものの、
途中で母への想いがつのり、夢中で引き返します。
山には雪が降ってきて、念仏を唱える老母に容赦なく降りそそぎます。
「おっかあ~」・・・雪に埋もれる老母に取り縋る息子。
老母は気丈にも戻ってきた息子を追い返すのでした・・・。
「姨捨」という能があることを知りました。
中秋の名月の夜、老女の霊が旅人の前に現れます。
老女の霊は、山奥に捨てられた悲しみも孤独な死も突き抜けて、
月光の精のように舞います。
能の多くは仏の導きにより成仏して終わるのですが、
「姨捨」の老女の霊は成仏してあの世へ帰ったのか、
この世の悲しみの中にあって山にとどまっているのか、
わからない終わり方になっている・・・という当代のお話を伺うと、
手に取った「姨捨」の黒楽が一層趣深いものに思われてきたのでした。
(秋海棠 季節の花300提供)
二椀目、十代旦入作の赤楽茶碗「秋海棠」(惺斎書付)で、薄茶を頂きました。
黒、白、グレイの釉薬が雲海の雲のように躍っている、
豪快な茶碗で、存在感が抜群でした。銘がかわいすぎる気もします。
手に取るとすっぽりと心地好くおさまり、見た目よりも薄手に削られています。
三碗は露山焼「山里」(淡々斎書付) 十一代慶入作
四椀は赤楽茶碗 十二代弘入作
五椀は黒楽四方茶碗「四季の友」(即中斎書付) 十四代覚入作
長次郎の「ムキ栗」を連想しました。
最後は当代の若き日、惣吉時代の作とか。
赤楽の素朴な印象の茶碗で、「蒼雲」(鵬雲斎書付)という銘です。
実はこの茶碗が一番のお気に入りでした。
「素」という造詣の原点を感じさせる趣きの茶碗だからでしょうか。
「長次郎のどの茶碗がお好きですか?」とお尋ねしましたら
「大黒・・無一物・・・ムキ栗もいいですね」
どれも写真でしか見たことがありません。調べましたら、
大黒(個人蔵)、無一物(西宮市頴川(えがわ)美術館)、ムキ栗(個人蔵)
ですが、いつかお目にかかりたいものです。
たった1時間余の茶会でしたが、
楽家の営々と続いた歩みと背景にある歴史、
茶碗づくりにかける当代の生き様と静かな情熱を感じさせる
「静中楽有」の茶会でした。
帰りにもう一度、展示品を鑑賞しましたら、
茶会でいろいろ伺ったせいか、どの作品も輝きを増しているようでした。
とりわけ、先ほど「ピエロの悲哀」と表現させて頂いた
当代作・焼貫黒楽茶碗が「ピエタ」に変わっておりました。
このような茶会と特別展にご縁がありましたことを感謝しています。