ベルギーのIMECの強さの秘密で感心する点は、不断の努力を続けた賜(たまもの)の結果であるということです。政府からほぼ独立した研究機関として、自立するだけの成果を上げている点も感心することの一つです(正確な事実関係は後日説明します)。

ベルギーは現在でも国内に電気・電子系の大きな企業はないようです。欧州で大きな電機系企業はベルギーのお隣の国であるオランダのフィリップスです。ベルギーの地方政府であるフランダース政府(Flemish Government、カタカタ表記と異なります)は1982年に地元に電機系企業を興す「マイクロエレクトロニクス産業プロジェクト」を企画しました。その目的は、地元に就職先となる企業を育成し、人材が他の地域・国に流出しないようにするためです。
フランダース政府は当時、米国で地域振興で成功し始めていたカリフォルニア州のシリコンバレーを手本に選んだのだそうです。お手本となったシリコンバレーも、スタンフォード大学の教授が出資して学生にベンチャー企業としてヒューレット・パッカード社を設立さるなど、同大学のキャンパス内の敷地を“スタンフォード・インダストリアル・パーク”としてベンチャー企業を創業させたり、新興企業を誘致したりしたのが始まりといわれています。当時はカリフォルニア州の大学を卒業すると、米国東部にある企業に就職するのが普通だったため、カリフォルニア州にも就職先をつくるのが狙いだったそうです。
このマイクロエレクトロニクス産業プロジェクトの実施責任者として、地元のルーベン・カソリック大学(Katholieke Universiteit Leuven)の教授のグループを選らんだのだそうです。昨年12月にIMEC関係者の方から、当時、プロジェクトに参加した大学教員が20人程度並んだ写真を見せていただきました。
この教員グループは、ベルギー国内には参考となる企業や研究所がないため、海外の企業や研究所を訪問し、当時の最先端の半導体技術を学んだそうです。1982年当時は日本は半導体立国を自称し、日本の大手企業各社は半導体のDRAMのシェアを合計で50%近くを握る半導体王国でした。このため、米国の半導体企業のインテルはDRAM事業から撤退するまで追い込まれ、CPU事業に乗り換える事業転換を図っていました(インテルは1971年に世界初のマイクロプロセッサーである「4004」を発表しています)。
ルーベン・カソリック大学の教員グループは海外で半導体を勉強する相手先の一つとして、三菱電機の当時の尼崎工場を選びました。三菱電機にお願いし、半導体製造のいろはを約1カ月間にわたる研修で学んだそうです。その研修では「クリーンルームの中で、防塵服を着て半導体製造の工程を学ぶこともあった」そうです。
実は似たような話を日産自動車の方からも伺ったことがあります。1970年代には、米国のGMやフォード・モーター、クライスラーは日本の自動車メーカーの技術者が教えを請うと何でも教えてくれたそうです。日産の方が、エンジンブロックの鋳造技術で分からないことがあり、フォードの某工場で教えを請うたところ、基礎から何でも教えてくれたそうです。当時の米国の自動車メーカーの技術者は日本の自動車メーカーが将来、ライバルになるとは夢にも思わなかったようです。
ルーベン・カソリック大学の教員グループは1984年にNPO(非営利組織)として現在のIMECを設立し、半導体の研究開発を始めました。地元に半導体系の企業を起業させるという目標に向かって、努力を続けました。世界中の電機企業が共同研究相手として選ぶ存在になるまで、IMECは努力を続けました。
似たような構想は、当然、日本にもありました。しかし、日本では成功していません。だからこそ「ベルギーのIMECは、なぜ強いのか」というテーマを解くことが重要なのです。日本がイノベーション創出のやり方を学び、それなりの存在感を示すことができる国になるためにです(来週ごろには、「ベルギーのIMECは、なぜ強いのか」の素案を書きたいと考えています)。

ベルギーは現在でも国内に電気・電子系の大きな企業はないようです。欧州で大きな電機系企業はベルギーのお隣の国であるオランダのフィリップスです。ベルギーの地方政府であるフランダース政府(Flemish Government、カタカタ表記と異なります)は1982年に地元に電機系企業を興す「マイクロエレクトロニクス産業プロジェクト」を企画しました。その目的は、地元に就職先となる企業を育成し、人材が他の地域・国に流出しないようにするためです。
フランダース政府は当時、米国で地域振興で成功し始めていたカリフォルニア州のシリコンバレーを手本に選んだのだそうです。お手本となったシリコンバレーも、スタンフォード大学の教授が出資して学生にベンチャー企業としてヒューレット・パッカード社を設立さるなど、同大学のキャンパス内の敷地を“スタンフォード・インダストリアル・パーク”としてベンチャー企業を創業させたり、新興企業を誘致したりしたのが始まりといわれています。当時はカリフォルニア州の大学を卒業すると、米国東部にある企業に就職するのが普通だったため、カリフォルニア州にも就職先をつくるのが狙いだったそうです。
このマイクロエレクトロニクス産業プロジェクトの実施責任者として、地元のルーベン・カソリック大学(Katholieke Universiteit Leuven)の教授のグループを選らんだのだそうです。昨年12月にIMEC関係者の方から、当時、プロジェクトに参加した大学教員が20人程度並んだ写真を見せていただきました。
この教員グループは、ベルギー国内には参考となる企業や研究所がないため、海外の企業や研究所を訪問し、当時の最先端の半導体技術を学んだそうです。1982年当時は日本は半導体立国を自称し、日本の大手企業各社は半導体のDRAMのシェアを合計で50%近くを握る半導体王国でした。このため、米国の半導体企業のインテルはDRAM事業から撤退するまで追い込まれ、CPU事業に乗り換える事業転換を図っていました(インテルは1971年に世界初のマイクロプロセッサーである「4004」を発表しています)。
ルーベン・カソリック大学の教員グループは海外で半導体を勉強する相手先の一つとして、三菱電機の当時の尼崎工場を選びました。三菱電機にお願いし、半導体製造のいろはを約1カ月間にわたる研修で学んだそうです。その研修では「クリーンルームの中で、防塵服を着て半導体製造の工程を学ぶこともあった」そうです。
実は似たような話を日産自動車の方からも伺ったことがあります。1970年代には、米国のGMやフォード・モーター、クライスラーは日本の自動車メーカーの技術者が教えを請うと何でも教えてくれたそうです。日産の方が、エンジンブロックの鋳造技術で分からないことがあり、フォードの某工場で教えを請うたところ、基礎から何でも教えてくれたそうです。当時の米国の自動車メーカーの技術者は日本の自動車メーカーが将来、ライバルになるとは夢にも思わなかったようです。
ルーベン・カソリック大学の教員グループは1984年にNPO(非営利組織)として現在のIMECを設立し、半導体の研究開発を始めました。地元に半導体系の企業を起業させるという目標に向かって、努力を続けました。世界中の電機企業が共同研究相手として選ぶ存在になるまで、IMECは努力を続けました。
似たような構想は、当然、日本にもありました。しかし、日本では成功していません。だからこそ「ベルギーのIMECは、なぜ強いのか」というテーマを解くことが重要なのです。日本がイノベーション創出のやり方を学び、それなりの存在感を示すことができる国になるためにです(来週ごろには、「ベルギーのIMECは、なぜ強いのか」の素案を書きたいと考えています)。