1年前のブログの再掲です。1年前に書いていたことも忘れています。思い出すことも大切だと思い、再掲します。
最近読んだ二つの本に不思議な関連性があった。ふたつの本というのは佐々木敦さんの『ニッポンの文学』という本です。もう一つは三森ゆりかさんの『外国語を身につけるための日本語レッスン』という本です。
『外国語を身につけるための日本語レッスン』では、次のようなことが聞かれてあります。
日本語は主語や目的語の省略が当たり前である。そのためにあいまいな表現をあいまいなままに受け止めている。これでは外国語に翻訳することはできない。多くの外国語は主語や目的語を省略することはないので、明確に主語や目的語を意識していない文はありえない。
例えば川端康成の『雪国』の冒頭、
「トンネルを抜けると、そこは雪国であった。」
という一文。この文の主語を日本人はあいまいなまま受け止め、この主語が誰かを分析しようとも思わない。しかし、外国語に翻訳しようとするとこれを明確にしなければならない。トンネルを抜けたのは列車か、それとも男か。明確にしない限り文ができない。だとすれば、この主語を省略するかしないかは、それぞれの国の言語表現にとって大きな意味をもつことになる。
以上のことは日本語が劣っている言語であるということでも、逆に優れているということでもありません。それを意識しないと翻訳ができないのであり、外国人とのコミュニケーソンはなりたちません。これではこれからのグローバル時代のコミュニケーション重視の時代にはそぐわないものになるということになるということを主張しているのです。
さて、『ニッポンの文学』では、村上春樹が小説を書き始めたころ、最初に英語で文章を書いてそれを翻訳して文章を書いていたと紹介しています。それが村上春樹の文体になっていったのです。そしてその翻訳調と言っていいような文体は多くの人に支持されました。日本人だけでなく外国人にも支持されたのです。
島田雅彦、高橋源一郎なども翻訳からスタートした作家です。彼らは文学を世界標準から見ていたのです。「文体」という概念から自由だったのかもしれません。
私にとって文学とは文体でした。中身の思想性よりも文体のカッコよさのほうが優先されていました。だから私は以前、村上春樹にはほとんど興味がありませんでした。彼の文章はかったるくてしょうがなかったのです。でも、今、そのストーリーに少し興味が湧いてきています。
私もすこしグローバル化してきたのかもしれません。
最近読んだ二つの本に不思議な関連性があった。ふたつの本というのは佐々木敦さんの『ニッポンの文学』という本です。もう一つは三森ゆりかさんの『外国語を身につけるための日本語レッスン』という本です。
『外国語を身につけるための日本語レッスン』では、次のようなことが聞かれてあります。
日本語は主語や目的語の省略が当たり前である。そのためにあいまいな表現をあいまいなままに受け止めている。これでは外国語に翻訳することはできない。多くの外国語は主語や目的語を省略することはないので、明確に主語や目的語を意識していない文はありえない。
例えば川端康成の『雪国』の冒頭、
「トンネルを抜けると、そこは雪国であった。」
という一文。この文の主語を日本人はあいまいなまま受け止め、この主語が誰かを分析しようとも思わない。しかし、外国語に翻訳しようとするとこれを明確にしなければならない。トンネルを抜けたのは列車か、それとも男か。明確にしない限り文ができない。だとすれば、この主語を省略するかしないかは、それぞれの国の言語表現にとって大きな意味をもつことになる。
以上のことは日本語が劣っている言語であるということでも、逆に優れているということでもありません。それを意識しないと翻訳ができないのであり、外国人とのコミュニケーソンはなりたちません。これではこれからのグローバル時代のコミュニケーション重視の時代にはそぐわないものになるということになるということを主張しているのです。
さて、『ニッポンの文学』では、村上春樹が小説を書き始めたころ、最初に英語で文章を書いてそれを翻訳して文章を書いていたと紹介しています。それが村上春樹の文体になっていったのです。そしてその翻訳調と言っていいような文体は多くの人に支持されました。日本人だけでなく外国人にも支持されたのです。
島田雅彦、高橋源一郎なども翻訳からスタートした作家です。彼らは文学を世界標準から見ていたのです。「文体」という概念から自由だったのかもしれません。
私にとって文学とは文体でした。中身の思想性よりも文体のカッコよさのほうが優先されていました。だから私は以前、村上春樹にはほとんど興味がありませんでした。彼の文章はかったるくてしょうがなかったのです。でも、今、そのストーリーに少し興味が湧いてきています。
私もすこしグローバル化してきたのかもしれません。