夏目漱石の『こころ』は同性愛を題材にした小説だという説がある。これはかなり説得力がある。
そもそも「私」が「先生」と出合ったのは海水浴場であった。肉体を見せる場所である。「私」と「先生」の出会いに同性愛的な気持ちがあったのではないかと感じられてもしょうがない。しかも不思議なことに「先生」は西洋人の男と一緒にいた。他の日本人はできるだけ肉体を隠す姿だったのに対して西洋人の男は「猿股」だけを身につけ海水浴をしていた。「先生」とその西洋人も同性愛的な関係だったのではないかと疑わせる。もしそうでなければ、どうして海水浴のシーンを最初に出す必要があったのだろうか。それだけ読者にインパクトを与える場面である。
「先生」とKの関係はさらにあやしい。Kと「先生」は愛し合っていたのではないか。もちろん潜在的な愛という可能性もあるし、あるいは「先生」の遺書は二人の愛を隠そうとする「先生」の嘘であったとも読み取ることができる。
「先生」はKを愛していた、しかし、Kは静を好きになってしまった。嫉妬に狂った先生はKの裏切りに怒り、Kから静を奪い取った。Kは自殺をして「先生」は愛のない結婚を送ることになった。これはこれでつじつまが合うような気がする。
我々の世代は同性愛に対するタブー感が強いのだが、これは儒教的な教えが強い太平洋戦争前後の世代だけのもののような気もする。江戸時代も明治もわりと同性愛に関してはタブー視されていない。最近はLBGTとして積極的に認めようという風潮も生まれている。『こころ』の同性愛についてはもっと真剣に検討してみてもいいテーマなのかもしれない
そもそも「私」が「先生」と出合ったのは海水浴場であった。肉体を見せる場所である。「私」と「先生」の出会いに同性愛的な気持ちがあったのではないかと感じられてもしょうがない。しかも不思議なことに「先生」は西洋人の男と一緒にいた。他の日本人はできるだけ肉体を隠す姿だったのに対して西洋人の男は「猿股」だけを身につけ海水浴をしていた。「先生」とその西洋人も同性愛的な関係だったのではないかと疑わせる。もしそうでなければ、どうして海水浴のシーンを最初に出す必要があったのだろうか。それだけ読者にインパクトを与える場面である。
「先生」とKの関係はさらにあやしい。Kと「先生」は愛し合っていたのではないか。もちろん潜在的な愛という可能性もあるし、あるいは「先生」の遺書は二人の愛を隠そうとする「先生」の嘘であったとも読み取ることができる。
「先生」はKを愛していた、しかし、Kは静を好きになってしまった。嫉妬に狂った先生はKの裏切りに怒り、Kから静を奪い取った。Kは自殺をして「先生」は愛のない結婚を送ることになった。これはこれでつじつまが合うような気がする。
我々の世代は同性愛に対するタブー感が強いのだが、これは儒教的な教えが強い太平洋戦争前後の世代だけのもののような気もする。江戸時代も明治もわりと同性愛に関してはタブー視されていない。最近はLBGTとして積極的に認めようという風潮も生まれている。『こころ』の同性愛についてはもっと真剣に検討してみてもいいテーマなのかもしれない