夏目漱石の『二百十日』を読みました。江戸時代の戯作のような作品で、ほとんどが会話でできています。正直言ってどう評価すべきなのかがわかりません。
阿蘇山に登る、2人の青年、圭さんと碌さんの2人の会話体で終始する小説です。ビールや半熟卵を知らない宿の女とのやり取りや、阿蘇山に上る道中が、まるで戯曲のようにほとんど会話だけで進んでいきます。2人は阿蘇の各地を巡ったあと、いよいよ阿蘇山に登ろうとするが、二百十日の嵐に出くわし道に迷い、目的を果たせぬまま宿場に舞い戻ってしまいます。翌朝2人は、いつか華族や金持ちを打ち倒すことと、阿蘇山への再挑戦を誓います。
夏目漱石の作品の中では異色のものであり、決しておもしろいとは言えない作品ですが、初期の漱石がさまざまな実験をしているがわかります。こういう実験をしながら漱石は自分の文体を作り上げたのだろうと思います。そして漱石の文体はその後の日本の小説の文体になっていきます。その意味で日本文学史上において貴重な作品と言えます。
江戸時代の戯作の最後がいつのまにか、近代小説になっているという発明です。
成功しているのか、失敗しているのかと問われれば失敗ということになるかもしれませんが、戯作から小説への過程という見方もできるかもしれません。
今のところどう評価していいのかわかりませんが、とにかく書いておかないと忘れてしまうので、書き残しておきます。