夏目漱石の『坑夫』の読書メモの2回目。
〔『虞美人草』との関わり〕
漱石の直前の新聞小説が『虞美人草』だった。『虞美人草』の次に二葉亭四迷の『平凡』があり、その次に『坑夫』である。どういう点で関連性が見られるのか。
『虞美人草』に小野という青年が出てくる。この小野は京都大学を優秀な成績で卒業して、今は博士論文を書こうとしている。学生時代の恩師の娘・千夜子を妻に取る口約束を交わしている。恩師と千夜子は困窮しており、彼らを援助する意味でも結婚するのが義理なのだ。ところが小野には他に惹かれる藤尾という女性がいる。その板挟みの中で小野は苦しむ。
『坑夫』の主人公の青年も小野と同じような立場であった。
青年はい家出した。その理由は許嫁がいながら、他の女を好きになってしまったからである。
この二人を説明している箇所を引用する。
澄江さんはぐうぐう寝ている―どうしても寝ている。自分のいる前では、丸くなったり、四角になったり色々な芸をして、人を釣ってるが、居なくなれば、すぐに忘れて、平生の通り御膳をたべて、よく寝る女だから、是非に及ばない。あんな女は、今まで見た新聞小説には決して出て来ないから、始めは不思議に思ったが、ちゃんと証拠があるんだから慥かである。こう云う女に恋着しなければならないのは、余ッ程の因果だ。随分憎らしいと思うが、憎らしいと思いながらも矢ッ張惚れ込んでいるらしい。不都合な事だ。今でも、あの色の白い顔が眼前にちらちらする。怪しからない顔だ。艶子さんは起きてる。そうして泣いてるだろう。甚だ気の毒だ。然し此方で惚れた覚もなければ、又惚れられるような悪戯をした事がないんだから、いくら起きていても、泣いてくれても仕方がない。気の毒がる事は、いくらでも気の毒がるが仕方がない。構わない事にする。
「澄江」さんが「藤尾」であり、「艶子」さんが「小夜子」という構造が一致している。『坑夫』の青年は、小野のその後を描いているとも言えるのである。
このことを念頭に置いて考えてみると、二つの小説の対照性が見えてくる。
『虞美人草』は三人称小説であり、語り手の視点は様々な登場人物を平等に描く。誰が主人公だと言われても誰とも答えられない。ある解説では小野が主人公だと書いてあったが、私にはそうは見えない。それに対して『坑夫』は「自分」と名乗る青年の一人称小説である。すべてが青年の視点から描かれる。もちろん描かれる心理は青年のものだけである。同じ三角関係を素材としていながら、『虞美人草』は演劇的に描き、『坑夫』は心理小説のように描いているのだ。方法論的な模索があったのはまぎれもない。
さらに感じるのは『虞美人草』は表面的であり、『坑夫』は人間の心を探索している。深い探究である。そのため『虞美人草』における藤尾の悲劇は構造的な結論として描かれる。それに対して『坑夫』の青年は自己を深く探究し、自力で生きる道を構築するのだ。ドストエフスキーのような印象も受ける。
つづく