夏目漱石の短編小説「文鳥」を読んだ。エッセイのような作品だが、小説としての虚構性も十分感じさせる、見事な作品である。
語り手の「自分」は小説家である。「三重吉」から文鳥をもらう。文鳥を育てるし、可愛がるのだが、仕事が忙しくなり、時々手を抜いてしまい世話をしなくなることがある。そのために文鳥を死なせてしまう。「自分」はやけになり文鳥の死を他人のせいにする。
明らかに「自分」は夏目漱石である。「三重吉」は鈴木三重吉であり、小説の中には「筆子」という漱石の長女の名前の子も登場する。だれがどう見ても夏目漱石の事実を綴っただけの作品のように見える。しかし、「自分」のやけになった様子をそのまま描くというのは「自分」を対象化しているとしか思えない。「自分」を戯画化しているのである。写実的なエッセイのように見えながら、そこには小説的な心理が描かれているのだ。
もう一つ小説的な手法として、突如として「美しい女」が出現するという技巧が目立っている。「美しい女」は文鳥と呼応する。『文学論』における「連想法」というのがこれに当たるかもしれない。また俳句における「取り合わせ」とも似ている。「女」と「文鳥」の関係については何の説明もないのだが、読者はその関連性を感じ、より複雑な情緒が引き出される。
最近『文学論』を読んでいるのだ、漱石は理論的に小説を書こうとしているがわかる。「文鳥」も、漱石が様々な理論をしっかりと自分のものとして書かれた名作である。
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