とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

『彼岸過迄』② 「風呂の後」

2018-09-06 18:31:18 | 夏目漱石
 『彼岸過迄』の最初の章は「風呂の後」と題されている。この章が何なのかよくわからない。そこで少し考えてみる。

 「田川敬太郎」の同じ下宿に森本という男が住んでいる。仕事はあるように見えるが、昼間から風呂屋にいるような男だからどうもうさん臭い。この男、過去にたくさんの冒険をしている。言ってみれば自由人である。その自由さに敬太郎は憧れる。しかし森本は突然姿を消す。しかも下宿代を滞納したままである。はたして森本はどこへ行ったのか。

この章と、それ以降がどうつながっているのかが明確ではない。森本のその後はわからないままである。確かに森本が残した洋杖が次の章に用いられてはいる。しかし、これはとってつけたようなもので大きな要素とは思えない。「風呂の後」という章はなくても問題はなさそうなのである。

とは言え、俳句の取り合わせと同じように、まるで関係なさそうな要素も合わされば意味が生まれる。この章はこれがあるからこそ意味があると思って読むのが読書である。もちろん作者だって何かを意図していたはずである。

 9章に興味深い会話がある。
 敬太朗が森本に言う。
「だって、僕は学校を出たには出たが、未だに位置などはないんですぜ。貴方は位置位置ってしきりに云うが。――実際位置の奔走にも厭き厭きしていまった。」
 それに対して森本が答える。
「貴方のは位置がなくってある。僕のは位置があってない。それだけが違うのです。」

 漱石作品に登場するのは「近代知識人」たる「男」である。一般的に「近代知識人」とは「位置のある」人物である。しかし漱石作品に登場する多くは「位置があってない」人物なのである。

 森本は自身が活動していき自然を相手に冒険をするが、敬太朗は自身は観察者として人間を冒険する。位置があるので大きく動くことができないのだ。森本との対比によって「近代知識人」が浮かび上がる。現代人も同じだ。「位置がなくってもある」人だらけだ。これは今に通ずるテーマである。

 人間を冒険する敬太朗は探偵になる。探偵として敬太朗がどういう役割を果たすか。次回以降に書いていきたい。
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