語り手は「余」。「余」が倫敦塔を見物に行った時のことを語るという形態の小説である。文体は論文風。固い文章である。
倫敦塔は一時期罪人が幽閉される場所であった。歴史的な有名人も含め多くのものが処刑された。死者の魂が宿る場所なのだ。人間である限り、死者に対しては過敏に反応する。だからこそ「余」は死者の幻想を見る。
この小説の大きな特徴は「余」は明らかに現実をみながら、その現実が幻想とまじりあっていくことである。読者は「余」の語りが幻想なのか現実なのかがわからない。わからないままふわりふわりとした浮遊感を感じながら読むことになる。その浮遊感は不安感であり、恐怖感を生む。
ただし、語り手は「余はこの時すでに状態を失って居る。」と自分自身で書いているように、自分が「不安定な視点」となっていることを認めている。読者は不安定な文章を受け入れ、それを自分の感覚として受け入れることになる。
倫敦塔の中にボーシャン塔がある。
「倫敦塔の歴史はボーシャン塔の歴史であって、ボーシャン塔の歴史は悲惨の歴史である。」
と「余」は説明する。ボーシャン塔では多くの人が死んだのであろう。
「余」はボーシャン塔に残された死者の言葉を見て、こう語る。
「凡そ世の中に何が苦しいと云って所在のない程の苦しみはない。意識の内容に変化のないおどの苦しみはない。使える身体は目に見えぬ縄で縛られて動きのとれぬ程の苦しみはない。生きるというは活動して居るという事であるに、生きながらこの活動を抑えらるるのは生という意味を奪われたると同じ事で、その奪われたを自覚するだけが死よりも一層の苦痛である。」
いつ処刑されるかわからない中で生きているその苦しみを、不安定な文体がよく表している。作者の発明であろう。
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