とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

映画『三島由紀夫vs.東大全共闘』を見ました。

2020-03-28 08:39:12 | 映画
 東大のおぼっちゃんたちの青臭い論理に青春を感じます。そんな青臭い論理をしっかりと受け止め議論を前に進める三島由紀夫は教育者そのものです。自分のない思想は無意味です。東大のおぼっちゃまたちの言葉は無意味です。その無意味さを三島由紀夫に学んでいるようにしか見えません。タイトルは「三島由紀夫vs.東大全共闘」となっていますが、「東大全共闘、三島由紀夫に学ぶ」というタイトルのほうがふさわしい内容でした。興味深い内容の映画でした。

(映画の内容)
 1969年5月に東京大学駒場キャンパスで行われた作家・三島由紀夫と東大全共闘との伝説の討論会の様子を軸に、三島の生き様を映したドキュメンタリー。東大全共闘をはじめとする1000人を超える学生が集まる討論会が69年に行われた。三島由紀夫は警単身で討論会に臨み、2時間半にわたり学生たちと議論を戦わせた。討論会の全貌、そして三島の人物像を検証していく。

 全共闘の理論は現代思想を借りてきただけの理論なので、わかったつもりにはなっていても、実は自分でも何を言っているのかわからないような物だったのだと思います。議論はかみ合うはずがありません。しかし三島由紀夫は議論をかみ合わせようとします。そこに見えるのは議論の対立というよりも、言葉を戦わせるとこによる連帯感の芽生えです。全共闘の人たちは三島に親近感をいだきはじめ、もやもやしている中で両者は近づいていきます。映像はその経緯を示します。理論を追求した若者が欲していたのは人情にすぎなかったことが見えてくるのです。

 当時の東大全共闘世代は、その後自分の愚かさに気づき苦しめられたと思います。若気の至りとは言え、「至りすぎ」だからです。彼らの理論には自分がなかったのです。自分がない理論は他人の理論です。それでは議論が成立するはずがありません。大人になるにしたがって自分の敗北に気づき、自分に折り合いをつけることに苦しむはずです。いいえ、苦しまなければいけません。

 三島由紀夫は自分に落とし前をつけます。それはそれで行き過ぎです。残念な結果です。

 現代思想に酔った当時の学生が学術界に生き残り、現代思想ブームが起こります。その結果国語の現代文の内容が無意味に難しくなったのではないかと私は考えています。その意味ではまだ「総括」は終わっていません。

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1 コメント

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Unknown (小父さん)
2020-03-28 20:19:21
この様子、実際のフイルムと音声で最近のテレビでやっていましたね。

三島氏が自死した時は、文庫本をいくつかあさったものです。
私は、当時右翼的でも全学連(民青も反日共系全学連ともども)彼らの述べることにケチつけることに興味を示していました。

小学校の同窓で裁判官の息子が、東京で全共闘をやり、福岡に帰って来ていたので「皆あんまり勉強していないだろう」と投げかけたら、「確かに勉強している学生は少ない」と言ってましたね。

「東大全共闘、三島由紀夫に学ぶ」を観ていますと、なかなか難しい言葉も知っているようでしたが、リーダー格の男が自分の赤子を肩車?させながら三島に議論をぶっかけていましたが、子育てごっこもそこそこな上に革命理論も聴き覚えたばかりな感じで虚勢を張っていたような・・・。

私は勉強しないでも入れて、卒業できるような大学に通っていましたが、大学の講堂で『資本論』を翻訳した向坂逸郎氏がたぶん簡単な講話をしたんでしょう。その時、全共闘もどきが何か質問を投げかけました。

すると向坂逸郎氏「君は資本論を読みましたか?」と問い返されてもう何も言えなくなりましたね。

全共闘と三島では話の内容はむしろ哲学か禅問答みたいなものだったと思いますが、三島の存在に皆圧倒されたんでしょうね。

テレビを見た時は、正直なところ私もヒヤヒヤでしたが・・・(笑)
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