川崎の殺傷事件はあまりに衝撃的だった。このニュースの直後引きこもりに対する非難が大きくなった。しかしその後、引きこもりを悪く言うなとか、引きこもりに対する支援を大切にせよとか、引きこもりをやさしく扱う言論を耳にするようになったきた。どちらの意見もわかるのであるが、冷静な意見になっていない。これは二項対立の問題ではない。状況や条件を整理して感情的な意見にならないようにしなければいけない。
基本的にはやはり引きこもりを容認してはいけないと思う。もちろん引きこもりすべてが悪いわけではない。引きこもりの中には発達障害や、幼児期のトラウマなどによってそうならざるを得なかった事情の人も多くいる。しかし、最近の引きこもりは単なるわがままの延長であるケースが多いように思う。
今はインターネットがあれば部屋の中だって十分楽しく生きていられる。オンラインゲームは飽きることがない。わざわざストレスのたまる社会に出たくない。親が何か言ってきたら反抗すればいい。だれもが感じることであろう。さらには核家族化が進み、しかも片親の家庭が増えたため、子供がひとりで過ごす時間が増えている。一度自由を得た子供はその自由を奪われまいと必死になる。昔と違って引きこもりになる条件がそろいすぎているのだ。
このような「わがまま引きこもり」は増加しているはずである。このような生き方を容認してはいけない。
今回の事件の犯人は許すべからざるというのは当然であり、彼を非難する感情的な発言が出てもしょうがないはずである。
一方、引きこもりを抱えた家族の苦労も深刻である。これが深刻になる理由は相談しにくいからである。いくらきれいごとを言っても、引きこもりの原因は家族にあると誰もが考えてしまう。それを一番感じるからこそ他人には相談しにくいのだ。だれかに相談しろと偉そうに言う人は、他人の痛みを感じ取れない人でしかない。
今回文章にしてみて、私自身まだうまく整理できていないことが分かった。ただ言えることは、私たちは議論を楽しんではいけないということだ。それぞれのケースの事実を見つめることが必要である。そしてそれぞれのケースを自分のこととして感じることが大切である。他人の痛みを自分のこととして感じる人間性を育てることこそ必要なのではないだろうか。
姪の家の女の子は自宅が学校のすぐ裏です
小学生の頃からひきこもりで社会人になりました
30代になってもひきこもり生活です
そんな姪を見ている自分は何もできません
悲しく辛いです