夏目漱石の『三四郎』の読書メモの3回目。視点の転換。
三人称小説は「語り手」の位置は作者の戦略の1つです。作品世界全体を見渡せる「神」の眼の位置にいる場合もありますし、ある特定人物に寄り添う場合もあります。あるいは複数の人物に寄り添う場合もあります。だれかに寄り添う場合、視点がその人物の内部に入り込むこともできますし、内部には入り込まないで外からの描写でおわってしまう場合もあります。内部に入り込む場合はその人物の心理を描くことができます。作者は「語り手」をどう操るかを考えながら小説を書くわけです。
『三四郎』は三人称小説です。「語り手」は基本的に「神」の位置にいるのですが、主人公の「三四郎」に寄り添っていくことが多くあります。さらに三四郎の心まで入り込みます。しかし、他の人物の心にまで入り込むことはありません。
ただし、次の場面をみてください。三四郎は汽車で「髭のある男」と同席します。その男は後で広田先生だとわかるのですが、その時点ではだれかわかりません。その男との会話の場面です。
(三四郎は)「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。
ほとんど三四郎に焦点が当てられている視点の中で、「三四郎の顔を見ると耳を傾けている。」の分だけが広田先生の視点から三四郎を見ているのです。この視点の変化は他の場面ではありません。(もしかしたらあるかもしれませんが、私はまだ気づいていません。)
この視点の変化をどう解釈すればいいのか。これから考えてみたいテーマです。
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