
『門』について柄谷行人氏が、「『門』の宗助の参禅は彼の罪感情とは無縁であ」ると言い、「小説の主題が二重に分裂して」いるのだと言っています。そしてその理由を次のように言っています。
「『門』における宗助の参禅は、三角関係によって喚起されたものでありながら、その三角関係が宗助の内部の苦悩に匹敵しないで別の方向にむけられるほかないというところに起因している。したがって「どのように筋を仕組んでも、そういう宗助を表現するわけにはいかないのであって、やはり漱石も「彼の手に余る問題を扱おうとしたと結論する」ことができると私は思う。」
そしてその「手に余る問題」について次のように説明します。
「漱石の長編小説では、他者との葛藤が提示されながら、それが他者との関係では解決できないような「自己」の問題に転換され、そして『行人』の一郎の言葉でいえば、「自殺か、宗教か、狂気」かに終ってしまうということです。いいかえると他者との関係のレベルから、唐突に、自己自身との関係のレベルに移行してしまうのです。」
そして、
「漱石は宗教を『門』に、狂気を『行人』に、自殺を『こころ』にもとめたといってよい。」
すごい指摘です。脱帽しました。
確かに『こころ』の先生の自殺は唐突すぎるし、宗助の参禅も唐突です。なぜなのかがわからないまま読んでいました。
人間には心の奥底に自分でも説明できないような不安があります。漱石は神経症の傾向があり、その不安が常に自分を苦しめていたのだと思います。初期の作品ではその神経症がはっきりと読み取れます。その不安は、ちょっとした現実場面で自分を信じられなくなった時に、急激に襲ってくるのです。確かに漱石ほど深刻ではないまでも、私も同じような原因不明の深い不安に襲われることがあるのです。柄谷氏の指摘はとてもしっくりと来るものでした。
少しずつ漱石に近づいている気がします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます