とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

舞台評『誤解』(10/13 新国立劇場 小劇場)

2018-10-15 12:03:59 | 演劇
[作]アルベール・カミュ
[翻訳]岩切正一郎
[演出]稲葉賀恵
[出演]原田美枝子 / 小島聖 / 水橋研二 / 深谷美歩 / 小林勝也

 しっかりとした役者と台本を読みこんだと思われる演出によって濃密な演劇空間を作り出していた。布を使った抽象的な舞台美術が空間を作り上げている。家族を殺す物語であり、その不条理なテーマは見る者の目の前にナイフを突きつけるようである。いい舞台であった。

 あらすじは次の通り。

 マルタとその母は片田舎でホテルを経営している。彼女らはホテルに泊まりに来る客を殺し金品を奪い取る。ある日、そのホテルにマルタの兄ジャンが帰ってくる。ジャンは成功し、母とマルタに何らかの恩返しをしようとしていたのである。しかしマルタと母はその男がジャンであることに気付かない。マルタと母はジャンを殺す。死後にジャンのパスポートから、その男がジャンであったことが判明する。母はジャンの後を追い死ぬ。マルタの妻が登場しマルタを責めるが、逆にマルタはこの結末を喜んでいる。破滅を喜ぶのだ。マルタは去り、残された妻は神を呼ぶ。するとそこにホテルの使用人があらわれる。妻が「神の御恵みを!」と懇願する。使用人は「いやだ。」と言う。(幕)

 現代の資本主義によって人間は心を失う。そういう風な言い方はありきたりな表現かもしれないが、人間の心の弱さは普遍的なテーマである。欲望に目がくらみ、他者を傷つけながら生きる。そしてそれを正当化する言葉を吐き、その言葉はいつか自らを傷つける。このように観客はいつしか自分自身を見ているのである。

 ラストシーンは衝撃的であるが、それしかないと思わせる終わり方である。

 「集中力のある舞台」という印象の舞台だった。


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舞台評『竹取』(2018年10月13日 シアタートラム)

2018-10-14 09:03:25 | 演劇
【構成・演出】 小野寺修二
【企画・監修】 野村萬斎
【出演】 小林聡美 貫地谷しほり 小田直哉(大駱駝艦) 崎山莉奈 藤田桃子 古川玄一郎(打楽器奏者) 佐野登(能楽師 宝生流シテ方)

 すばらしい舞台だった。演劇というにはパフォーマンス性が高い舞台ではあるが、ドラマ性はしっかりとしており、「かぐや姫」の罪、そして人間の罪を訴えかけてくる。

 「現代能楽集」というシリーズの9作目ということであるが、舞台の作り方も斬新であり、古典と現代性がみごとにコラボレーションしている。布、ゴムのような紐、畳などの舞台装置があらゆる場面を作り出す。照明も工夫されている。時間をかけて作られているのがよくわかる。何よりも出演者の身体表現もは、言葉にならない心を直接に見る者に訴える。小野寺氏はパントマイムを学んだ方らしいが、身体表現のすばらしさを実感することができた。

 それにしてもかぐや姫は月でどんな罪を犯したのだろう。そしてなぜ地球で許されたのであろう。パフォーマンスのすばらしさに目を奪われながらもそのテーマがずしんと襲ってきた。舞台全体として完成度が高かった証拠であろう。
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『こころ』は同性愛の小説なのか(『こころ』シリーズ⑩)

2018-10-12 15:14:44 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』は同性愛を題材にした小説だという説がある。これはかなり説得力がある。

 そもそも「私」が「先生」と出合ったのは海水浴場であった。肉体を見せる場所である。「私」と「先生」の出会いに同性愛的な気持ちがあったのではないかと感じられてもしょうがない。しかも不思議なことに「先生」は西洋人の男と一緒にいた。他の日本人はできるだけ肉体を隠す姿だったのに対して西洋人の男は「猿股」だけを身につけ海水浴をしていた。「先生」とその西洋人も同性愛的な関係だったのではないかと疑わせる。もしそうでなければ、どうして海水浴のシーンを最初に出す必要があったのだろうか。それだけ読者にインパクトを与える場面である。

 「先生」とKの関係はさらにあやしい。Kと「先生」は愛し合っていたのではないか。もちろん潜在的な愛という可能性もあるし、あるいは「先生」の遺書は二人の愛を隠そうとする「先生」の嘘であったとも読み取ることができる。

 「先生」はKを愛していた、しかし、Kは静を好きになってしまった。嫉妬に狂った先生はKの裏切りに怒り、Kから静を奪い取った。Kは自殺をして「先生」は愛のない結婚を送ることになった。これはこれでつじつまが合うような気がする。

 我々の世代は同性愛に対するタブー感が強いのだが、これは儒教的な教えが強い太平洋戦争前後の世代だけのもののような気もする。江戸時代も明治もわりと同性愛に関してはタブー視されていない。最近はLBGTとして積極的に認めようという風潮も生まれている。『こころ』の同性愛についてはもっと真剣に検討してみてもいいテーマなのかもしれない
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書評『「働き方改革」の嘘 誰が得をして、誰が苦しむのか』(著者:久原穏) 

2018-10-08 11:06:24 | 読書
 「働き方改革」の真実を追求した本である。

 「働き方改革」というのは労働者のための改革のようなことを政府は言う。労働時間の短縮や自由裁量の拡大など、これまでの硬直した労働環境を改善するようなものとして説明されている。しかし、なぜこの人手不足の状況で声高に叫ばれているのか、不思議に思うことが多くあった。だから「働き方改革」という政策は、以前からうさん臭いものだと思っていた。

 この本を読むと「働き方改革」という政策は実際には財界の利益のためのものであり、労働者が楽になるものではないことがわかる。政府側の主張とは逆、労働者の賃金は減り、労働時間は増える結果になりかねないのである。少子高齢化が進む以上、労働者の賃金が減り、労働時間が増えるのが当然の帰結であり、それをごまかそうとするごまかし政策であるのはあきらかである。安倍政権は経済界のいいなりになって政策を推し進め、それをごまかしの理由付けをおこなっている。しかも数の力で強引に推し進める。国民はもっとよく見て考えなければいけないと思わされた。

 我々が一番知りたいのは、この改革がどのような「大きな絵」を描いたものかということである。政府にもそれが見えていないのか、それとも見えていながら隠しているのか。それが見える本を次に期待したい。
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教師の「働き方改革」は無理だ

2018-10-07 09:53:10 | 教育
 日本の教員は働き過ぎである。時間外に月50時間以上働いている人がほとんどである。これではまともな生活が送れない。

 時間外労働は授業の準備などのためではない。逆に授業の準備は自転車操業状態であり、まともに準備できないまま授業に臨まなければならない。これが教師のストレスになっている。では教師は何に時間を使わされているのか。主に部活動と事務仕事である。

 部活動はやりたい人にとってはいいかもしれない。しかしやりたくない人にとっては苦痛でしかない。とは言えやりたくないという態度をとれば、周りから白い目で見られる。あるいは部活動派と、アンチ部活動派の目に見えない対立が常に緊張感を生みストレスを生み出すことになる。

 事務仕事はどんどん増えている。特に会計処理は面倒くさい。主たる仕事以外にしなければいけないのにもかかわらず、正確さを要求されるので、いつもあたまのどこかにひっかかりが残っている。これもストレスを生み出す。

 さてこのような状況を問題視して、最近の職場で「働き方改革」のアイディアを募集した。それはそれで悪いことではないのかもしれないが、それは小手先の改革でしかいない。仕事量がどんどん増えているということのほうが問題なのであり、それをこなすためには、仕事量を減らすか学校職員を増やすしかないのだ。根本が違うのだ。

 部活動は地域に移すしかない。事務的な仕事は学校職員を増やすしかない。教師が授業に集中する状況を作らない限り日本の教育は衰退するか、教員が過労死するしかない。しかし財源不足のため、結局は政府は現状の教員にすべてをまかせる方策しか考えられないのだ。小手先の改革は馬鹿にされているようにも感じる。政府はもっと真剣に改革に取り組んでほしい。

 「教育は国家百年の計」という言葉がある。この言葉を百年後に改革が成就すればいいみたいに勘違いしている人がいるのではないか。今しっかりと改革してこそ百年後にその効果が現れるという意味である。改革を先送りしてはいけない。
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