とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

映画『ジョジョラビット』を見ました。

2020-01-20 06:06:33 | 映画
 映画『ジョジョラビット』を見ました。前半はストーリーがつかみきれず、しかもドイツ人の映画なのに英語でしゃべっているし、わけがわからず眠くなってしまったのですが、後半になるとすべてのストーリーがつながり、少年の心の動きが感じられるようになり、いきなり感動しはじめました。最後のドイツ語のデビッドボウイの「ヒーロズ」には感動のピークになっていました。「やられた。」という映画です。
 
 第2次世界大戦中のドイツで、ナチスにあこがれている少年ジョジョが主人公です。彼はナチスにあこがれつつも、臆病で回りからバカにされます。ある日、家にユダヤ人の少女が隠れていることに気づきます。もちろんジョジョにとってはユダヤ人は敵です。しかし、いつの間にか心が交流し始めます。この少女がなぜそこにいるのか。次第にあきらかになるにしたがって、ストーリーは急激な展開を始めます。コメディと紹介されていますが、決してコメディではありません。

 ナチスがユダヤ人を差別していたのをなぜだろうと思ってしまいますが、実は日本人もかつては韓国人を差別していました。私が子どものころ、韓国人をバカにする言動は現実にありました。戦後30年後ぐらいです。おそらくそれは戦争時代からあったものだと思われます。一時、韓流ブームもあり、韓国に対する差別意識は薄れてきました。若い世代ではほとんど消滅しているように感じられます。しかし最近また、韓国に対する差別的な言動を見聞きするようになってきました。このブログでも、韓国に対する差別を指摘すると、汚い言葉でコメントをしてくる人がいました。一方では韓国に対して厳しい意見を言うと、逆の反応を受けたこともあります。いずれにしても差別が生む悪意の連鎖は終わらせるように努力しなければなりません。この映画を見ながらそう考えていました。
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舞台『グッドバイ』を見ました

2020-01-19 06:13:19 | 演劇
原作:太宰 治(「グッド・バイ」)
脚本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
演出:生瀬勝久
出演:藤木直人 ソニン 真飛聖 朴璐美 長井短 能條愛未 田中真琴  MIO   YAE 入野自由 小松和重 生瀬勝久

 山形市民会館で『グッドバイ』を見てきました。人間の愚かさと愛おしさを感じずにはいられないすばらしい舞台でした。

 主人公の男、田島周治は女性に持ててたくさんの愛人がいる。岩手に疎開していた妻子を呼び寄せ、愛人とはわかれようと算段する。ストーリー的には以上のようなどうでもいいような話です。しかしこのどうでもよさは、広い視点からふとわが身を振り返るとだれにでもあるようなことです。真面目に生きている人にとっても、その真面目さは未来の人間からみたらどうでもいいことかもしれません。自分の姿を、全く新しい価値観で見直してみると、だれもが滑稽に見えるはずです。この作品はそんな人間の滑稽な姿を描いています。しかし滑稽であると同時、それが人間の普通の生き方です。人間は自分の生き方にしがみつくしかありません。誰に笑われようと、それを恥じる必要はないのです。愚かな人こそいとおしい、そんな気持ちにさせてくれる、勇気を与えてくれる作品です。

 KERAの作品をKERA以外の人が演出するシリーズKERACROSSの作品です。KERA演出の『グッドバイ』は見ていないので比べることはできません。いつものKERAの演出では不思議な間がありそれがおもしろいのですが、今回はそういう感覚はありませんでした。しかし脚本そのもののおもしろさを素直に表現していて、脚本のよさが伝わってくるいい舞台になっていました。

 最近のKERAの作品は人間の普段の営みを異化し、その愚かさを描くと同時に、その愚かさの愛おしさを感じさせます。どの作品もすばらしく、KERAは本の演劇界をリードする存在になっています。これまでKERAはほとんど自分自身で演出していましたが、それでは公演が限られます。KERAの作品を第三者の視点から見つめ直していく作業もあるべきです。今回の作品もKERAの脚本を生瀬さんが演出しており、これはこれでおもしろい作品になっていました。

 昔は演劇は個人経営の中小企業のお仕事でした。それによって細かなニュアンスなど手巾芸的なすばらしさを生んでいたのは事実です。しかしそれでは大きな広がりがありません。継続可能な、発展性を求める必要があると思います。日本もそろそろ脚本家と演出家がそれぞれの仕事をこなすようになるべきだと思います。

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『パラサイト』を見ました。

2020-01-16 22:48:20 | 映画
 いわゆるネタバレですのでご注意ください。

 話題の映画『パラサイト』を見ました。現代の普遍的な世界的テーマである経済格差を取り上げ、それを映像的に印象付け、そして人間の心理に迫るすばらしい映画でした。具体的には以下の3点で感心しました。1点目は世界的な状況である経済格差をテーマにしながら、一方では韓国独自の問題の核シェルターや「半地下」という歴史的な問題をからめている点。2点目はそれが映像として視覚的にすっきりと入ってくる点。3点目はそれが単に構造的な問題として描くだけでなく、人間の心理を的確につかんだ描写がある点。さすがにカンヌ映画祭で評価された映画だと思います。

 1点目。この映画は経済格差という世界的な問題をおもしろいストーリーに仕上げることに成功しています。日本でも経済格差は大きくなってきています。しかし韓国は日本よりもはるかに大きな格差があると聞きます。この主人公の家族は貧民と言ってもいいような状況です。日本とは違って働き口もない。しかし彼らはおおらかです。ここがいい。だから金持ち家族をひるむとなくだましていく。最初は単なるコメディだと思いました。しかし地下の存在が判明してからの展開はコメディを超え始めます。そもそも地下があるというのも、韓国独自の状況だと思われます。予想外の展開でありながら、これこそが格差の象徴だと思わずにはいられません。脚本の構造が見事です。

 2点目。この構造が映像においても見事に表現されています。雨の夜に金持ち夫妻が庭にテントを張った息子の姿をみながらいちゃついている姿、そのテーブル下で家族たちが息をひそめている。そしてその地下では家政婦夫婦が気を失っている。この映像は美しさと、ばかばかしさと、悲惨さが同時に表されています。とても印象に残ります。雨が山の手にある高級住宅街から半地下の地域に流れていく構造が視覚的に印象にのこります。計算された映像構成が頭に残ります。

 3点目。以上のような構造的な映画でありながら、一番印象に残るのは、父親が「におい」に一番反応したということです。人間は自分のにおいが臭いと言われることが一番いやなことです。性格や信条なんかで対立してもそれはかまわない。しかし自分のにおいが臭いと言われることには敏感に反応してしまう。それが凶悪な行動に結びつく。口にはださないが、誰もが理解できる人間心理の描写がすばらしいのです。実はこの映画の一番のポイントはそこだったのではないか。心の描写が一番共感を生む部分だったのではないかと感じました。

 誰もが語りたくなる映画です。そういう発展性を感じる「開かれた映画」なのです
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シネマ歌舞伎『廓文章吉田屋』を見ました

2020-01-13 07:02:22 | 映画
 シネマ歌舞伎『廓文章吉田屋』を見ました。歌舞伎ならではの芸を堪能しました。

藤屋伊左衛門:片岡 仁左衛門
扇屋夕霧:坂東 玉三郎
太鼓持豊作:坂東 巳之助
番頭清七:大谷 桂三
阿波の大尽:澤村 由次郎
吉田屋女房おきさ:片岡 秀太郎
吉田屋喜左衛門:片岡 我當

 筋としてはどうということのない話です。しかし人間の描写が的確であり、とは言え演劇ならではの誇張があります。その思わず笑ってしまう誇張された描写が歌舞伎としての芸です。普段歌舞伎を見に行くことができない地方に住むものとって、加えて見に行ってもほとんど安い3階席でしかみたことのない人間にとっては、シネマ歌舞伎は表情しぐさがよくわかり、助かります。歌舞伎の良さを改めて感じることのできる映画でした。

 片岡仁左衛門と坂東玉三郎は50年以上一緒に演じてきたそうです。ふたりの作り上げてきた芸のすばらしさを感じた映画でした。

 この映画の冒頭で片岡仁左衛門のインタビュー映像がありました。その中で父親の十三代目片岡仁左衛門について語っていました。十三代目は普段は優しい人だったらしいのですが、芸に関しては厳しかったと語っていました。

 私は50年以上前に大学で十三代目の講演を聞いたことがあります。実直で優しそうな姿に心が動かされました。公演が終わった後、笑顔でゆっくりとキャンパスを歩いている姿が今でも思い出されます。その十三代目から、厳しく、そしてしっかりと芸を継承してきて、現仁左衛門もいます。伝統のすばらしさと、それをさらに高めていこうとする「芸」の「家」の意義を感じます。
お正月らしい映画でした。

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そもそも『国語力』って何なのかは誰もわからない

2020-01-12 06:41:50 | 国語
 前回「国語力がない人たちが国語改革をすすめるからおかしなことになる」と書いたが、実はそもそもの問題は「国語力」って何なのかが、誰もわかっていないことにある。

 「国語力」とは何か。それぞれの人がそれぞれの意見を持ってはいるかもしれない。しかし、それは一つにまとまることはない。それぞれの思い込みでしかないのだ。だから議論は成立しないし、議論が成立しないことがわかっているから誰も議論をしないのだ。

 ある人は「読解力」が「国語力」だと思っている。ある人は「表現力」だと思っている。「読解力」が「国語力」だと思っている人も、「論理力」に重点を置く人もいるし、「行間を読む」力に重点を置く人もいる。こんな変な教科があるのだろうか。

 学生のころ誰もが「国語って何を勉強していいいのかわからない」と思う。古典ならばまだ文法や単語を勉強することもできるが、現代文なんて何を勉強すべきかわからない。教師からは「教科書をよく読め」と言われるが、教科書に載っている文章の内容を理解することは読解力とは関係ないのはあきらかだ。教科書に載っている文章の理解が「国語力」ではないはずである。

 「国語力」は定義することができない。しかしそれは「国語力」が不要だという意味ではない。「国語力」にはさまざまな要素が含まれているのである。それを分析して、ひとつひとつを明確にしていくことが大切なのだ。「国語」関係者はその根本をおろそかにしてきた。原点に立ち戻り、「国語力」について議論することから始める必要がある。
コメント (3)
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