三度Rovanna Brown女史の論文であるが、女史は北タイなかでもサンカンペーンは窯も陶磁もラオスに似るという。そのラオスについて女史は以下のように記す。
タイからメコンを渡ったビエンチャン郊外で、1970年多くの窯址が発見された。困難な状態にもかかわらず7基の窯址が発掘された。窯や器退はサンカンペーンのものに似ていた。
華やかなパイプを含む工芸品が、時々タイ北部やミャンマーで発見されている。アメリカとの接触が確かになって以降、タバコがアジアに導入された。従ってこれらの(陶製)パイプは16世紀初頭に先立つ可能性は低い。これらの窯は、それよりも先に操業し始めている可能性があるが、16世紀初頭に稼働していたに違いないと思われる。
1989年、ビエンチャンを取り囲む城壁の外側であるシーサッタナークで、窯址が発掘された。器を国内消費用に生産したと思われ、西ミャンマーのパガンに供給した華やかなタイプの喫煙パイプ(これは女史の誤解か?ミャンマーでも陶製パイプが焼造されていた)が出土した。窯の構造は横焔式単室窯であった。
量的に多い器は無釉、少ない割合ではあるが緑釉もあった。C14年代、共伴した中国陶磁、タバコを喫煙するためのパイプから窯は1600年頃である。
一般的には、窯のサイズ及び形状は、むしろ北タイにおける窯よりもスワンカロークやスパンブリーの中央タイの窯との類似性を実証している。但しそれらは、すべて似通ってはいるが(言及していることに一貫性がなく、北タイ云々から中部タイに話が変化している
)。
窯は盛時100に及ぶと推測されているが、発掘現場では15基の窯址が存在することが確認された。
・・・以上がロクサナ・ブラウン女史の論文を引用した、ラオスの陶磁と窯の記事である。
ラオス陶磁については、津田武徳氏の詳しい調査・研究がある。「東南アジアの古陶磁(6)」に掲載されている氏の報告書によると・・・
ラオス陶磁が主に現ラオス国内と東北タイの国境に近い地方にしか分布していないのは、ラオス文化圏を越えてまでラオス陶磁は、交易されなかったということを物語っている(当該ブロガーはロクサナ・ブラウン女史の報告より、津田氏の報告に信を置く)。また津田氏が引用する発掘報告書によると、最大内幅2.1m、全長5.9mの窯が発掘されたとある。
また陶製パイプの確実な産地として、当該シーサッタナーク、マンダレー近くのインワに隣接するサヨーフォーがあるほか、ルアンプラバーンやシャン州が想定されている。
これらの武田氏の報告によれば、ロクサナ・ブラウン女史が述べる、パイプをバガンにラオスから供給したとの説に蓋然性はないことになる。
武田氏の報告書にも、今回流用している「Southeast Asian Ceramics」にも、窯の形状を示す写真の掲載がない。そこでアデレード大学東南アジア研究センターのドン・ハイン氏著述でバンコク東南アジア陶磁博物館Newslettre2007の記事を引用して紹介しておく、ルアンプラバーンに近いメコン左岸のバン・サンハイの窯址や表層で下写真の陶片を発見した、として下の写真が掲載されている。

なるほど、北タイの陶磁の雰囲気をみせているが、印花文の意匠は北タイとはどことなく異なるようにみえる。最大の関心事は窯構造を知りたのだが、いずれの書籍にも掲載されていない。調べるとあるにはあった。それは「見聞録 Leave one's footprints」なるHPである。そこの一コマにバン・サンハイの窯址が発掘したときの状態で残されている。しかし遠めの写真で、窯の概要はうかがい知れない。
タイからメコンを渡ったビエンチャン郊外で、1970年多くの窯址が発見された。困難な状態にもかかわらず7基の窯址が発掘された。窯や器退はサンカンペーンのものに似ていた。
華やかなパイプを含む工芸品が、時々タイ北部やミャンマーで発見されている。アメリカとの接触が確かになって以降、タバコがアジアに導入された。従ってこれらの(陶製)パイプは16世紀初頭に先立つ可能性は低い。これらの窯は、それよりも先に操業し始めている可能性があるが、16世紀初頭に稼働していたに違いないと思われる。
1989年、ビエンチャンを取り囲む城壁の外側であるシーサッタナークで、窯址が発掘された。器を国内消費用に生産したと思われ、西ミャンマーのパガンに供給した華やかなタイプの喫煙パイプ(これは女史の誤解か?ミャンマーでも陶製パイプが焼造されていた)が出土した。窯の構造は横焔式単室窯であった。
量的に多い器は無釉、少ない割合ではあるが緑釉もあった。C14年代、共伴した中国陶磁、タバコを喫煙するためのパイプから窯は1600年頃である。
一般的には、窯のサイズ及び形状は、むしろ北タイにおける窯よりもスワンカロークやスパンブリーの中央タイの窯との類似性を実証している。但しそれらは、すべて似通ってはいるが(言及していることに一貫性がなく、北タイ云々から中部タイに話が変化している
)。
窯は盛時100に及ぶと推測されているが、発掘現場では15基の窯址が存在することが確認された。
・・・以上がロクサナ・ブラウン女史の論文を引用した、ラオスの陶磁と窯の記事である。
ラオス陶磁については、津田武徳氏の詳しい調査・研究がある。「東南アジアの古陶磁(6)」に掲載されている氏の報告書によると・・・
ラオス陶磁が主に現ラオス国内と東北タイの国境に近い地方にしか分布していないのは、ラオス文化圏を越えてまでラオス陶磁は、交易されなかったということを物語っている(当該ブロガーはロクサナ・ブラウン女史の報告より、津田氏の報告に信を置く)。また津田氏が引用する発掘報告書によると、最大内幅2.1m、全長5.9mの窯が発掘されたとある。
また陶製パイプの確実な産地として、当該シーサッタナーク、マンダレー近くのインワに隣接するサヨーフォーがあるほか、ルアンプラバーンやシャン州が想定されている。
これらの武田氏の報告によれば、ロクサナ・ブラウン女史が述べる、パイプをバガンにラオスから供給したとの説に蓋然性はないことになる。
武田氏の報告書にも、今回流用している「Southeast Asian Ceramics」にも、窯の形状を示す写真の掲載がない。そこでアデレード大学東南アジア研究センターのドン・ハイン氏著述でバンコク東南アジア陶磁博物館Newslettre2007の記事を引用して紹介しておく、ルアンプラバーンに近いメコン左岸のバン・サンハイの窯址や表層で下写真の陶片を発見した、として下の写真が掲載されている。

なるほど、北タイの陶磁の雰囲気をみせているが、印花文の意匠は北タイとはどことなく異なるようにみえる。最大の関心事は窯構造を知りたのだが、いずれの書籍にも掲載されていない。調べるとあるにはあった。それは「見聞録 Leave one's footprints」なるHPである。そこの一コマにバン・サンハイの窯址が発掘したときの状態で残されている。しかし遠めの写真で、窯の概要はうかがい知れない。
